ケース:迷ひ家
某大学文学部に在籍する二年生の女性が消息を絶った。場所は特殊激甚災害に発展し得る山【場所は伏す】で、女性の友人による警察への訴えで発覚した。
以下は記録されていた映像の内容である。
赤外線機能によって映し出されたビデオカメラの映像が激しく揺れ動く。失踪した女性と思われる撮影者が息を切らして薄暗い森の中を走っている。まるで何かから逃げている様子だった。人気のない山中にも関わらず、笛を吹き鳴らす音色や太鼓を叩く音を連想させる騒音が四方から鳴り響いている。解析班はこれを「祭囃子」と表現した。
木の枝がへし折られる音が響く。撮影者は咄嗟にそちらへカメラを向ける。木々のあいだに、巨大な芋虫に似た形状の熱源が浮かび上がっていた。丸みを帯びた輪郭で、身を震わせて
撮影者は悲鳴を上げて、手元を狂わせながらビデオカメラを前に向ける。その際、上空を跨ぐナナフシに似た影が一瞬映っていたことには気づいていない。
「見てはいけません」
映像記録には何者の音声が録音されていた。声質から解析するに、十代にも満たない少女のものと推定された。この音声は撮影者には聞こえていないらしく、特に反応を示さない。
『祭囃子』が鳴り止まない中、前方の橙色の明かりが揺らめいていた。撮影者の女性は人家だと思ったのか、そちらへと向かっていく。
「見てはいけません」
少女の声が繰り返される。やはり撮影者には聞こえていないらしい。木立が切れ、ビデオカメラの視野が広がる。周辺を仄かに照らしていたのは、灯篭の明かりだった。対となった灯火の前で撮影者は足を止める。
そこにあったのは、大きな両開きの門だった。
「見ては」
音声が途切れた。呻き声とともに、何かが折れる音が響く。音響を測定したところ、
同時に、固く閉じられていた四脚門の扉がひとりでに開いた。木材が軋む音が夜の山中に響き渡り、撮影者は後ずさった。そのとき背後から複数の足音が聞こえた。カメラのレンズが振り向くと、赤熱した
撮影者の女性は絶叫し、目の前に開かれた門の内側に逃げこんだ。ビデオカメラの映像が激しく乱れる。すんでのところで身を滑りこませた背後で轟音とともに門が閉じられた。どうやら先ほどの未知の生物が激突したと考えられる。複数の赤子の泣き声を思わせる奇声が響き渡る。塀の上を長い尻尾の影が見え隠れした。どうやら築地塀を越えることはできないらしい。
撮影者の女性は腰を抜かしている様子だった。低い位置から見上げた視点のまま、呆然とビデオカメラを構えている。やがて襲撃者は諦めたのか、複数の足音とともに金切り声が遠のいていく。この時点では既に笛と太鼓だと推定される音は聞こえなくなっており、門の内側は静まり返っていた。
『一体、何だって言うのよ』
幾分安堵したのか、声を震わせながらも立ち上がる。レンズがロングスカートの埃を払う仕草を映し出す。自らを勇気づけるためか、彼女は言った。
『この映像を持ち帰れば、あの子だって嫌でも信じるわ』
撮影者が言及したのは警察に通報した友人と思われる。同じ大学のオカルトサークルに所属しており、幼馴染ということもあって親しい間柄だったと周囲の人々から情報を得ている。
月明かりの下、ビデオカメラは暗視機能の映像に切り替わる。四脚門を抜けた先は中門の前で、こちらの妻戸は固く閉ざされている。南側には貴人を乗せるための牛車を入れる
中門に沿って、北側にカメラのレンズを移動させる。中門廊が伸びており、その奥は見通せない。あいだには塀で目隠しされた複廊があり、
『誰か、いませんか』
映像の視点が下り、革の編み上げブーツのつま先が映った。土足で踏み入れることに
ビデオカメラは六間ほどの侍廊の内部を映した。中央には大きな台盤があり、その両側には畳が敷かれている。かつては家司たちが訪問客の応対について話し合ったのだろうか。その右側は
あまり撮影者の興味を引かなかったのか、ビデオカメラを一瞬向けてすぐに戻した。この間をスローモーションにすると、遣戸が少しだけ開かれており、顔に白い布をかけた人物が覗いている。音もなく戸が閉ざされ、彼女がその存在に気づいた様子はなかった。
簀子の先にある
夜空には満月がかかっていた。その真円を池の水面が映している。南庭の大半を占めるほどの広さで、浮島さえあった。朱塗りの橋が架けられ、撮影者がいる位置とは反対側に欄干が設けられた釣殿が見える。かつて披露された雅楽や舞いに思いを馳せているのか、少しのあいだ映像は動かなかった。
やがてここに来た理由を思い出したのだろうか、ビデオカメラは再び中門廊の通路を映す。高欄と柱が連なり、外側は立蔀と
家人への呼びかけを続けながら、撮影者は東の対へと辿り着いた。屋敷の主人が過ごす寝殿と隣接する
少しだけビデオカメラの映像が揺れた。外部から閉ざされた家人の居住空間に足を踏み入れることに抵抗を覚えたのかもしれない。結局、小さな声を発しながら御簾をめくった。
『すみません……』
暗視機能の映像が映し出したのは、ごく質素な
その向こうに座る人影が浮かび上がっていた。
『あら、お客さまですか』
訪れた撮影者に気づいたらしく、やや間延びした女性の声がした。立ち上がりながら、申し訳なさそうに続ける。
『ごめんなさい。お構いもできなくて……』
撮影者は会話ができる相手と出会えたことに安堵したのか、少し緊張が
『こちらこそ、勝手に入ってしまってすみません。山の中で、おかしなのに追われて……』
『私の子供たちを見ませんでしたか』
『え?』
『あの子たちったら、ずうっとかくれんぼしていて……』
脈絡のない話に撮影者が戸惑う。そのあいだにも几帳から姿を現わした女性が映像に記録されている。平安時代の貴人とはかけ離れた、みすぼらしい着物を着ている。どうやら櫛も通されていない髪は腰まで垂れ、土に汚れた裸足で近づいてくる。
『ねえ、あの子たちはとても良い匂いがするんですよ』
カメラのレンズに迫ってきたのは、目が潰れた眼窩の女性だった。両頬に血を垂らしながら、どこか恍惚とした表情を浮かべている。
撮影者は絶叫した。目がない女性を避ける形で、こけつまろびつその脇を抜ける。別の御簾を払いのけながら、ビデオカメラの映像は乱れながら
今にも転びそうな足取りで靴の音を響かせながら、撮影者は寝殿の方へと向かった。母屋の周辺は簀子の濡れ縁に囲われ、真正面には月明かりが降り注ぐ南庭に面していた。張り出した庇の下を駆け抜ける。あの女性から身を隠すためか、丸柱で支えられた主殿に侵入した。
広い板の間には、二帖の畳に
そこには
足を踏み入れた塗籠の寝所は暗く、光源はない。ただ中央に大きな御帳台が浮かび上がっており、その左右には獅子と狛犬の像が座している。撮影者である女性の息遣いが短い間隔で繰り返される。御帳台を遮る帳から、白雪のような腕が現われ、中にいる何者かが現われようとしている。
その姿が垣間見える直前で、唐突に映像が途切れた。黒くなった画面から、しゃがれた少女の声が響いた。
「見てはいけません」
このSDカードの記録映像を調査していた解析班は、全員が消息を絶った。
唯一の手がかりとして、班長が乗った車が高速道路のETCを通過した記録が残されている。撮影者の女性が失踪した山へと向かう方面だと推察される。
彼が残した調査報告書の末尾には、殴り書きでこう書き残されている。
『見るな』
この事案を受けた防災省は、この映像が拡散された場合、特殊激甚災害に発展する危険性があるとして半永久的にSDカードの調査と解析を禁じ、第36号指定呪物として厳重に保管することを決定した。
ケース:迷ひ家 @ninomaehajime
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