茜
先生に怒られた。
わたしの左手が、右手よりはやく動いてくれないから…。
毎週水曜日に通っているピアノ教室。
先生は昔「本場ウィーンの音楽学校で、ゆうしゅうな成績をおさめた」と、地元ではとっても有名なピアニスト。
ママがちいさい時から、この辺のこどもたちはみんなこの先生にピアノを習いにいってるんだって。
それから、とっても厳しい今どきめずらしい「鬼教師」ってことでも有名な人。
レッスン中は、わたしの弾くどんな音も聞き逃さないぞって顔で目を閉じて、全身を耳にして聞いている。
その顔がこわくて、いつも緊張しちゃうから、だから音を間違えちゃったの。
ずらっと並んだピアノの鍵盤。
白いところはそれでも何とか頑張れた。
でも、黒いところは左手の小指が追いつかなかった…。
「やめ。もう一度今の所を弾いてみて」
先生はけっして大きな声で怒鳴ったりはしないけど、わたしが「まちがえちゃった」って心の中で思ったのと同時に、音を止める。
その声で、わたしの指も石みたいに固くなって、動かなくなる。
その声を聞いた後は、ぜったいにうまく弾けないの…。
そうして、一時間のレッスンが終わる。
「同じ曲を練習して、一週間後にまた来てくださいね。とくに、ここ。今日、間違えた所をしっかり覚えてくるように」
ため息まじりに先生から言われた時、涙が眼から落ちる寸前まで来てたけど、先生の前で泣くのはカッコ悪いから、なんとか我慢した。
「はい」
と答えたつもりだけど、すごく声が小さかったから、先生に聞こえたかどうかは分からない。
そのまま逃げるようにして、はや足で教室を出た。
はやく家にかえりたい。そしたら、いっぱい泣けるから。涙を我慢するのはとても苦しい。たくさん息を止めなくちゃいけないから。
でも、それよりも頭の中をぐるぐるしてるこの気持ちの方が、ずっと苦しい。
はやく家に着くように、早歩きして、それでも耐えきれなくて、走り出そうとしたその時。
「ピアノの帰り?」
急にかけられた声にびっくりして顔をあげる。
下を向いてたから気づかなかった。前から自転車が来てたことに。
びっくりしすぎて、目を大きく開いたから、我慢してた涙が落ちちゃった。
サイアクだ。よりによって、こんな顔をコイツに見られるなんて。
「ダッセェ」って笑われて、バカにされるに決まってる。
もしかしたら明日、学校でみんなに言いふらされちゃうかも…。
「あせる」のと「怒る」のと「おどろく」のと「悲しい」のと。
とにかくいろんな気持ちが頭の中で、いっせいにスパークする。
はやく帰りたいのに、逆にそこから一歩も動けなくなっちゃった。
どうしよう…。
わたしの気持ちなんて考えずに、コイツはいつもと同じ明るい声でしゃべりだす。
「前から思ってたんだけどさ、おまえ…」
…イヤだっ。何も言うな、バカっ!
「ピアノ弾けるのって、何かカッコいいな」
それだけ言ったら、そのまま自転車をこいで、あっという間にいなくなった。
アイツの家は私の家と反対側にあるから、振り返ったら、もう自転車は豆つぶくらいになっていた。
「…なに、アイツ」
その場に突っ立ったまま、自分でも気づかないうちに、声に出して言っちゃった。
ホントにびっくりした。まだ何か心臓がどきどきしてる。
なんとなく、自転車が消えた方をしばらく見ていた。ゆっくりと夕陽が沈んでいく。
…そういえば、アイツの下の名前。この色によく似た名前だったな。
どうでもいいけど。
とにかく、はやく家に帰ろう。
わたしは思いきり走り出す。涙はもう乾いていたけど、心臓はまだうるさいから。
"恋"と呼ぶのもおこがましい はるむら さき @haru61a39
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