第二章・茉莉と百合

第五話「運命の出会い」

思えば最初から、君と僕とは運命で結ばれていたんだと思う。



学校まで続く長い坂の上から歩いてくる君と目が合った時、海風になびく美しい純黒の巻き髪を見て、僕はそう確信した。

初夏の涼しい風に赤いリボンのセーラー服をはためかせながら、少女は僕の方に向かって歩いてくる。


その顔が、その存在が、その吐息が、徐々に近づいてくる。



君の名前はすぐに分かった。きっとそうだという確信があった。



少女は僕のことなどつゆ知らぬと言った様子で、僕を通り過ぎてゆく。長く艶やかな巻き髪が少女の歩調に沿って柔らかく跳ねている。


「ねえ…!」


気付けば声を出していた。隣を歩く母を構うことなく、ただ感情の赴くままにその運命の相手に声を掛けていた。


静寂が訪れる。後ろ姿の少女はその場に立ち止まり、何も言葉を発さない。僕の発した言葉はすでに原形をとどめておらず、少女の足元に崩れて無造作に落ちている。



その空気、その静寂の後に起こった出来事を、僕は一生忘れないと思う。



後ろ姿だった少女の姿が、徐々に傾く。動く肩に沿って髪が滑らかに動き、次第に少女の白い肌が再び露わになり始める。


やがて完全にこちらに振り向いた少女と目が合うと、少女は小首を傾げて


「ん…?なあに…?」


と僕に向けて放った。


まるで弾丸で心臓を射抜かれたような感覚が走り、全身に鳥肌が立つ。

胸が騒めき、早鐘を打つように大きく、はっきりと脈打っているのが分かる。


この感覚はあの時以来だ。


ああ、茉莉。


少女はあどけなく首を傾げて僕を見つめている。透き通る水晶のようなその瞳を見ていると、僕は自然と硬直を砕いて言葉を紡ぐことができた。




「君の名前…茉莉だよね?」




***



『今日も、東北新幹線をご利用いただき誠にありがとうございます。この電車はハヤブサ号、新函館北斗行きです。東京を出ますと、次は上野に止まります』


軽やかなメロディが流れた後、旅の行き先を示す車内放送の機械的な音声が車内に響いた。


今日の東日本の天気は日中通して快晴だと天気予報士が言っていた通り、ビル群をかいくぐった頭上にほんの少しだけ見える空には雲一つなく、絶好の旅行日和だった。


車内の空調も、シートの座り心地も、数年ぶりに新幹線に乗った僕にとってはその全てが懐かしく、いつかの旅路を想起させられて心が弾んでいるはずなのに、僕の心は相変わらず沈んでいて、車窓に首を傾けて深くため息をついた。


「またそんなため息ついて…」


隣に座っている母の小言に耳を貸すことなく、僕は構内の切れ間からうっすらと見える青空をぼんやりと眺めていた。


窓の外に見える街は、いつものように鈍色にそびえ立ち、空の青さを蝕むようにそこに存在していた。人間の知能と結束の賜物であるはずのそれは、東京生まれ東京育ちの僕にとってごく日常的なものであったが、まるで先天的疾患かのように僕の心をも蝕んでいる。


人はたくさんいる筈なのに、どうしてかその類の温もりを感じられないこの街が、いつの頃からか疎ましかった。


とはいえ、それも今日で終わりだ。


 スチームを噴射したような音を出してドアが閉まり、車両がゆっくりと動き出す。体にほんの少しの圧力がかかるのを感じたのと同時に、僕の東京生活は幕を下ろした。


「まったく…そんなんじゃ、幸せも雲の子散らして逃げてくわよ?だいたい、何であんたはそんなに浮かない顔してるのよ」


「……別に」


僕は小さくそう答えた。いや、そう答えるしかなかったと言うべきだろうか。僕は自分自身に渦巻くこの憂鬱を、うまく言葉にすることが出来ずにいる。


それゆえに、どうして自分が浮かない顔をしているのかも分からないのだ。



『幸せは~歩いてこない だ~から歩いていくんだよ~』



母は突然鼻歌を歌い始めた。ちゃんと曲として聞いたことがなくても耳に残るそのメロディは、母が家事をする時によく口ずさむ曲で、僕にとっても馴染み深いものだった。


「ちょっと、やめなよ母さん……ここ、車内だよ」


鼻歌だったとはいえここは新幹線の中だ。他の乗客の迷惑になるかもしれないので、母を小さく諫めた。


「いいじゃないちょっとくらい。たかが鼻歌でしょ?それよりそんな辛気臭い顔しないの。せっかくの長旅なんだから、楽しまなくちゃ!」


母はそう言って屈しない。初めから分かってはいたが、僕はやれやれと嘆息を漏らした。


「…旅なんて、縁起のいいものでもないような気がするけど?」


「こういうのはムードが肝心なのよ、ムードが。気持ちだけでも上向きにしておけば、いい事だってきっと見つかる。そうでしょ?」


「……」


母に言いくるめられてしまって、返す言葉もなくなってしまった。


「これからは、じいちゃんと三人で暮らす。それでもう、大丈夫なんだから」

「……そうだね」


母の顔を見る。小学校の授業参観の時、教室の後ろに立つ父兄の中でも群を抜いて若々しかったその顔にも、今となっては年相応の年輪が刻まれている。

目尻の皺と二重瞼は、この人から受け継がれたものだ。


「あ、そうそう。あっちに着いたらもう日も落ちかけてるだろうから、諸々の手続きは明日よ。住民票と戸籍の移し替えとか、高校の手続きとか。忙しくなるだろうから……って、聞いてるの?」


「聞いてるよ…」


「…まあ、あまり気乗りしないとは思うけど、これも必要なことだからね。せめて高校くらいは出ておきなさい。母さんも、それ以上はもう何も言わないから」


「……分かった。ありがとう」


僕はそう言うと、ほんの少し口角を上げ、目尻の皺を寄せた。こうすることで、母はいつも嬉しそうに微笑んでくれるのだ。実際の感情など些末な問題だ。もうこれ以上心配など掛けたくない。こんな猿芝居で騙されてくれるなら、安いものだ。


「いいのよ、親が子を想うなんて当たり前。そんなこと気にしなくていいのよ」


母は僕と同じように目尻の皺を寄せ、昔の僕にしてくれたように小さい手で僕の頭を二回さすってこう言った。


「もう、大丈夫よ。だからもう、気負いすぎないでね」


放たれた言葉に僕は微かに頬を引き攣らせた。母は表情こそ笑顔だが、その瞳は例えるなら祖国に帰還した敗戦兵のように力なく、ひどく曇っていた。


…お互い本当に、よく頑張ったよ。


「……それにしても」

「ん…?」

「龍馬、あんたまた大きくなった?さっすが成長期。寝る子は育つねえ」


母が皮肉交じりに言うので、僕もつられて笑った。


「…ごめん、転校したら学校にも行くからさ。これで全部元通り、だよね?」

「いいのよゆっくりで。またイチから初めていけばいい。人生、まだまだ長いわよ?」


母の言葉は、時々こうして僕の心の芯を温めてくれる。時々なのが、ありがたい。


「そうだね、ありがとう。ちょっとだけ、気が楽になった」


「そう、それは良かったわ。……にしても、じいちゃん、あんたの顔見たら驚くだろうね。最後に会ったの、ばあちゃんの葬式の時だったから……いつだったかしら?」


「五年前、かな?小四の夏だったし」

「ああ、もうそんなに経つのか…というか、よく覚えてるわね」


「……まあね」


忘れる筈がない。僕は確かに五年前のあの夏、あの場所にいた。


母の言う通り、その夏に急逝した祖母である

津田由紀恵の葬儀への参列と、例年通りの帰省のために、母の実家がある青森県みちのく市の雪湊ゆきみなとという町に半月ほど滞在していた。


僕はその町が大好きだった。


気が遠くなるような時間をかけて列車を乗り継ぎ、茹だる夏の熱気から逃れるように東京から遥か北のその町まで向かう。


そこは普段目にしている光景とはかけ離れていて、そのどれもがまだ幼かった頃の僕にとっては、ひどく新鮮だったのを、今でも覚えている。


青々と茂る山々、永遠とも思える蝉の大合唱、イ草の香り。

そして、風に舞う麦わら帽子。


名も知らぬ少女との記憶。


今では、あれは全て夏の陽炎が見せた夢だったのではないかと思ってしまう自分がいる。

列車の中で眠ってしまって長い夢を見ていただけなのだと、思ってしまう自分がいる。


新幹線は、スピードをぐんぐん上げながら東京の都市圏を離れてゆく。車窓に見える景色からも徐々に鈍色が消えてゆき、頭上にはより一層快晴が広がってくると

僕の心も先程よりも軽くなっていくのを感じた。


「……ふわぁ」


同時に、軽くなった心を心地よい眠気が襲った。乗換駅のある八戸まではまだまだ時間はあるので、眠っていてもさほど問題はない筈だ。母には悪いが、少し眠ることにした。


目を閉じ暗くなった世界では、車内メロディの高揚感溢れる電子音だけが


いつまでも鳴り響いていた。

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さよならの夏、星は鈍色の海を泳ぐ。 心星 文琴 @mikoto_polaris

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