第四話「また、星が泳ぐ」


「やっぱり結構混んでるね」


河川敷にたどり着く頃には既に日が落ちてきていて、徐々に濃くなる夕闇が足元に迫ってきて、辺りは少しずつ薄暗くなってきていた。人だかりは進むにつれて増えていき、夏草の香りに混じって屋台の香ばしいソースの香りが鼻腔をくすぐってくる。


行き交う人の群れは皆そわそわしていて、その多くが親子連れだったり、若いカップルだったり。少なくとも男二人という顔ぶれは少ないように思えた。


いやまあ、見かけ上は違うのだが。


「やっぱり屋台っていいよね」


僕がそう呟くと、彼もにっこりと頷く。


「そうだな!なんか腹減ってきたよ、俺たこせん買うけど、龍馬も何か買う?」

「僕は焼きそばにするよ」


僕がそう言うと、彼は嬉しそうに、分かった!と大きく頷いた。


屋台で焼きそばとたこせんを購入し、去年と同じ河川敷の川べりに行こうという話になり、僕らはその方向に向かって歩き始める。花火が打ちあがる時刻まであまり時間はないが、別に急ぐ必要もないので僕と世良はゆっくりと他愛のない話をしながら歩いた。


しかし久々の外出だったからか、はたまた夏の熱気にあてられたからか、歩くにつれ徐々に僕の息は上がってしまい、彼との歩調に乖離が生じてしまう。化粧を落とさないようにハンカチで汗を拭い、膝に手を付き、肩で息をする。


「大丈夫か?いったん休もうか?」


僕を心配するように世良は僕に声をかける。僕と対照的に彼は涼しい顔をしている。


「大丈夫、ようやくここまで来られたんだから。…こんなところで終わりたくない」


ここで終わってしまったら、僕はもう二度と自分が作り出した残影に勝てる気がしなかった。


「そっか…わかった。でもあんまり無理するなよ?熱中症とか…」

「あれ?央佑じゃん!何してんの?」


その時、前の方から歩いて来た男女四人組に世良は声を掛けられた。彼女らは確か大学で見たことのある四人組だ。世良と同じサークルに所属しており、僕も話す機会は多かった。


「おお、みんな来てたんだな!何って、見ての通りだけど?」

「え、てか隣の子、誰?!もしかして彼女?彼女出来たの?!」


彼の言葉には答えないまま、普段からグループの中でもひと際存在感を放っている

三島柚月みしまゆづきが僕の方をじっと見て、驚いたように尋ねていた。


「あはは、そんなんじゃないって。よく見てみ、こいつ、龍馬だぜ?凄いよな!」


彼は自慢したげに僕のことを彼女たちに紹介する。ようやく理想にたどり着いた僕のことを自分の友人にも知ってほしいのだろう。彼は本当に人がいい。


……本当に、良すぎる。


「え、津田くん?」


そう言うと彼女は怪訝そうに僕の顔を覗き込んでくる。

思えば彼女の顔をこんなに近くで見たことはなかった。一目見るだけで美人だと分かるその容姿は自信に満ち溢れていて、僕はそんな彼女に対して密かに憧れを抱いていた。

しかしそれは恋ではない。もっと別の感情だ。


「…そんなに分からないものかな?」


微笑で取り繕いながら、無駄に低い声で自分が津田龍馬であることを証明しようとした。


「え、ほんとに津田くんなの?」

「うん、そうだよ」

「えー!分かんなかったよ!てっきり央佑にやっと彼女ができたのかと…ってか何で津田くんは女装なんかしてるの?」


彼女は信じられないと言いたげにそう尋ねてくる。その大きくて濁りのない瞳を見ていると、そのまま吸い込まれそうな気がして、思わず目線を逸らしたくなる。しかし、目を逸らさずに、僕は拳を握り返してはっきりと言い放った。


「…ずっと、やってみたかったんだ。まだ、不完全だけどね」


おねがい…


「へえ、そう…なんだ……なんか、ごめんね。じゃあ私たち、行くね。邪魔しちゃ悪いし」


そう言うと、彼女らはそそくさと立ち去って行った。柚月以外の三人も、舐め回すように僕を見て、その少し奥に冷笑をたたえながら立ち去った。


「え、ちょっと待てよ!今のは無いんじゃないか?」

「いいよ、別に」


庇おうとした世良を制止する


「でも…!」


食い下がろうとした彼はすぐにハッとしたような顔をする。


「…いいんだ。あれ、が…あたりまえの……反応だから」


突如、空が赤や黄色に染まり、轟音が会場全体に響き渡り、その場にいる全員の視線が空に集まる。


花火が始まったんだ。


ああ、まだまだ不完全だな。やっぱり君にはまだまだ遠く及ばないよ。


誰にも見られていないうちに、僕と世良は逃げるようにその場を立ち去った。



***



河川敷に二人で並んで座り、打ちあがる花火を見ながら世良は僕が泣き止むのを待ってくれていた。せっかくの化粧も、きっともう全部落ちてしまっているだろう。僕は鼻をかみ、ウィッグを外して結っていた髪をほどいた。外したウィッグとネットは、痛まないように大事に鞄の中にしまい、僕は僕に戻った。


取り繕えないのなら、成り下がる方が遥かにましだと思ったからだ。


僕のそんな姿を見て、世良はすごく悲しそうな顔をする。表情がよく表に出るので分かりやすい。


「さっきはごめん…。俺、軽率だったよ…」


僕よりも少し高い声で彼は謝罪をする。別に構わないのに。


「気にしなくていいよ、世良は悪くない。……こうなることは、最初から分かってたことだし。泣いたのは、僕の心が弱かったから。それだけだよ」

「龍馬…」

「僕がしていることは、そういうことなんだ。皆が皆、君みたいに受け入れてくれるわけじゃない。……だから、こんなことで泣いてる場合じゃないんだよ」



本当は分かっていた。



歪な僕を否定することなく受け入れてくれた彼の優しさに甘えていただけだったということは、本当は分かっていた。


きっと、三島達だけじゃない。世界は彼のように優しくはない。それは僕自身がこれまで痛みを伴って理解してきたことだった。


雨に濡れたスケッチブック、空を舞った体躯

肌に冷たく打ち付ける鬱の雨。



それでも夢を見たかったのは、あの夏の記憶が脳裏に焼きついて離れなかったからだ。



あの夏、僕は自分に嘘をつくことをやめた。


入道雲、防波堤。長い黒髪、セーラー服。


あの夏の全てが、僕の生き方を変えさせるにはあまりにも十分すぎて、その一つ一つが真夏の太陽のように眩しかったのを覚えている。


終わらない閉塞、乙女の涙。


あの雪の降る鈍色の海を見て、僕はそう決めた。


そう、決めたはずなのに……


「今日はありがとう。僕、疲れたからもう帰るよ」


立ち上がってワンピースの尻に付いた土を払いのけ、僕は河川敷の斜面を走って登り始める。世良の声が聞こえたが、申し訳なくて振り返ることは出来なかった。喧騒から逃れるように、夕闇に紛れて誰にも見られないように、僕は走ろうとした。


「あぁっっ!」


その途端、引き裂くような痛烈な音と共に視線が上向きに変わった。世界がスローモーションになり、濃藍の空にあの時と同じ光の花が咲いた。



ああ…また,星が泳いだ。



次の瞬間には、僕はコンクリートに強く打ちつけられていた。膝や肘に鈍い痛みが走り、傷口から血がじわじわと溢れてくるのが分かる。痛みと虚しさで僕は立ち上がることが出来なかった。


「龍馬?!大丈夫か、しっかりしろ!!」


遠くの方で声が聞こえ、駆け寄ってきた世良に肩を揺すられる感覚がした。顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕は彼に告げる。


「…もう…星なんて…みたくないよ……!」


裾が裂けたワンピースを握りしめながら、僕は再び泣いた。

紅い血潮に染まったそれは、あの時と同じように




不揃いで、ひどく歪な形をしていた。




 〜 第一章 「また、星が泳ぐ」 完 〜

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