第三話「願望」

駅前はいつも以上に混雑していたように思える。花火大会による影響か往来には浴衣を着た人も多く、そんな喧騒の中、僕は約束の相手を探している。


しかし、周囲の人に比べてあまり高くない身長が視界を悪くするせいで彼の姿を捉えることができない。


「あ、おーい世良、こっちこっち」


遠くの方から見覚えのある姿が歩いてくるのを捉えたので声をかけられた。かなり背が高いので認識するのにさほど時間は要さなかった。


僕が全身を使って大きく手を振ると、彼はすぐに気づいて目を丸くしながら近づいてくる。そして口を開くや否や、彼は鼻息交じりに僕に告げた。


「龍馬!めちゃくちゃいいじゃん!すげー似合ってるよ!」

「……!」


あぁ、やっぱり彼が友人で本当に良かった。


「うん?どうかした?」

「…なんでもないよ。ありがとう、…嬉しい」


せっかくの化粧が台無しにならないように、零れそうになった涙は必死で堪えた。


「じゃあ、行くか!今年は屋台とかもやってるみたいだぜ」

「そうだね、行こう!」


沈みゆく夕日に互いの影を重ねながら僕らは河川敷へと歩みを進めた。



***



「なあ、龍馬」


河川敷に続く道を歩いていると、不意に隣を歩く彼が声をかけてきた。時刻は午後六時半を回った辺りだが、太陽がその存在を地平線から色濃く放っているので、まだ夜と呼ぶには少し暗さが足りないように思える。


右側を歩く彼の首筋から汗が一滴流れ落ちた。


その時、少し試してみたいことを思いついた。この魂で、この姿で、僕はちゃんと生きられているのだろうか。突然それが気になり確かな実感が欲しくなった。


僕は少しだけ前に出て、組んだ腕を腰の後ろに回し、振り向きざまに小首を傾げて世良の目をじっと見つめ


「ん…?なあに?」


と、自分が表現できうる限りの『可愛らしさ』を存分に引き出して返事をした。


今日の僕なら、もしかしたら…


……

………


「……あの、何か言ってくれないと恥ずかしいんだけど…」


数秒間の沈黙が走る。硬直したままの時間の中で、僕は自分が取った行動のあまりの奇怪さに体中にじわりと暑さ由来ではない嫌な汗をかき、顔を紅潮させた。


一体僕は何をやっているんだ?可愛い仕草をしたとして、彼の目に映っているのは僕だ。多少姿を変えたくらいじゃ受ける印象なんて変わらないだろう。


それに、僕は決して彼に可愛いと思って欲しくてこの格好をしているわけではないのだ。理性が戻ってきた僕は彼から目を背けたくなってしまい、赤面する。


「…あぁ、ごめん。驚きすぎて言葉が出なかった」


しかし、そう空返事で答える彼の頬は、僕の予想に反して紅潮していた。


「…え?」

「…いやさ、思ってたよりもお前が女の子だったから、何て言えばいいのか分からなくなったんだよ」


そう言って世良は目を丸くして口元を腕で覆う。彼が本心を隠す時の癖だ。


「…まじか」

「うん。お前が龍馬って知らなかったら、絶対分からないと思う。……それくらい、今のは良かった。何と言うか…可愛かった。変な意味じゃなく」


彼は顔を覆いながら、僕の姿をそう評価する。生温い夏の風が僕のウィッグを撫でた。


「あははっ!」


思わず噴き出す。


「何だよ、そんなに可笑しいか?」


彼は頭を搔きながらそう言うが、僕の破笑はしばらく止むことがなかった。車道を行き交う車の走行音に混じって、周囲に僕の笑い声がしばらく反響する。


思えばこんな風に笑うのは随分久しぶりだったような気がする。


純粋に嬉しかった。自分という存在が限りなく理想に近付いているような気がしたからだ。それは、僕という変容しない殻の中で、最大限磨いた努力が報われた瞬間のようにも思えた。


今なら、きっと君にも会えるかな……?


「いやいや、むしろ逆だよ。…よかった、安心した。世良にそう言ってもらえるなら大丈夫だね。話遮っちゃってごめん、何か言いたいことあったんだよね?…って、あれ?どうしたの?」


気が済むまで笑った後、息を切らしながら僕は訊ねる。しかし彼の表情は先程の赤面から打って変わって、拍子が抜けたようにぽかんとしていた。


「…あ、ああ。ごめん、龍馬がそんな笑い方すると思ってなかったから」


彼はそう言って目を右へ左へと泳がせながら続ける。


「なんと言うか、意外だ。でも、何となく理由は分かるよ。だって、今日で丁度一年だから」


「そうだね。今日で丁度、一年だ」


僕は意識を記憶の方へ移し、あの日のことを思い出す。


あの日、空で泳いだ花火を見た日、僕は世良に自分自身の思いの丈を曝け出した。


自分が物心がついた頃からずっと抱えてきた悩み。何度も何度も否定され、その度に心の奥の方にしまってきたのに、それでも諦められなかった思い。


目の前で咲いている歪な花火に向かって、僕は震えた声で叫んだ。



僕は、女の子になりたい。



「あの日、空に向かって叫ぶお前を見て、津田龍馬という心の形がどんなものなのか知りたくなった。そして今日、ようやくそれに触れられたような気がして、嬉しくなったんだ」


彼は真剣な顔で続ける。


「俺はまだお前のことを完全には分かってあげられていないのかもしれない。けどこれだけは言わせてほしい」


世良の瞳が夕日に照らされて東雲色に輝いた。彼の瞳は、とても綺麗だった。


「おめでとう、龍馬。よく……頑張ったな」


生温い風が、彼の頬を撫でた一筋の涙をさらってくれた。


「ありがとう…」


本当に、綺麗だった。




「でも…まだだよ」


「え?」


彼は僕の発言に疑問符を浮かべる。


「これで終わりじゃない。むしろここからだよ」


そうだ。これで終わりではない。僕はようやくスタートラインに立ったのだから。


これから始まる鮮烈な景色を、色を、感覚を、全身で味わいたい。完全な姿で、完全な形のそれを、僕は見届けたい。


「花火、早く見に行こう!」

「……ああ!」


僕は彼の手を取って、目前に迫った希望へと走り始めた。

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