第二話「メイクアップ」
洗面台の前に立つ。
そこには少し吊り目で少し不健康そうな、いつもの僕がいる。
レバー式の水道をひねり、水と洗顔用クリームを使って入念に顔を洗う。タオルで顔周りの水気を拭き取り、それが終われば軽く化粧をする。下地を塗って、次はファンデーション、それが出来たら目元を彩ったり、頬の血色を良くしたり。始めたてのころは見様見真似で下手くそだったものの、時間が経つにつれて様になってきたような気がする。
そして、かなり伸びてきた色素の薄い髪をヘアゴムで束ねて網のネットを頭に被り、束ねた地毛をそこにしまい込む。そして先日渋谷で購入した背中までの長さの黒いウィッグを被り形を整え、鏡を見る。
そこにいたのは、僕であり、僕ではなかった。
不健康そうだった顔は薄桃色のチークとファンデーションで血色が良くなったように見える。アイシャドウで強調された目元は自分とは思えないほど、とても綺麗だ。鏡の前に立つのは、紛れもない自分のはずなのだが、その姿はまるであの夏の少女のようだった。
とても嬉しい。そしてそれと同じくらい嬉しいことがある。
「あぁ…。やっぱりひらひら…最高」
僕の心は今、空と繋がっている。
まるで雲の上にいるかのような浮遊感のある純白のワンピースを身に纏った僕は、久々の姿見の前で一人、年甲斐もなくはしゃいでいた。
去年の夏に買って、結局着る勇気が出ないまま時期が過ぎてしまったシルクのワンピース。ようやくその時が来たと、溢れ出る感動が止まらない。
そして、そんな僕の耳からは、彼女から貰った蒼い真珠のイヤリングが垂れ下がっている。
夢が叶ったような気がした。幼い頃からずっと夢見てきた姿を、ようやく見ることができた気がした。姿見に映る僕は紛れもなく僕ではあるが、紛れもなく君でもあった。
茉莉
君のおかげで、ようやくここまで来られたよ。
本当に…ありがとう。
心の中で小さく呟いた頃には、壁に掛けた時計は午後三時を指していた。
約束の時間にはまだ早いが、散歩も兼ねて駅まで歩いていこうと思い、ベージュのヒールサンダルを履いて外に出た。
小高い丘の上に建設された僕の住むマンションは、駅から徒歩五分圏内と比較的好立地に位置している上に、家賃は学生が住むには少し高いが十分に好条件な物件だった。周辺にはスーパーが立ち並び、その上商業施設も充実しており、都心部に近いわりに緑も多い。
強いて言うなら坂道の勾配が少しだけ足元に不安をもたらすが、住む上ではそこまで気にするほどのことでもないし、今の暮らしには概ね満足している。
そんな住み心地のいい街の昼下がり、斜陽を横目に捉えながら僕は鼻歌交じりに坂道を歩いている。
時折、スキップをしながら。
電柱や木に止まったツクツクボウシの鳴き声が晩夏のやかましさを存分に表現しているが、今はそれすらも心地よく感じてしまう。
時折吹く風がどこかの家の風鈴を揺らし、遠くの方の空気を冷やしているのが分かる。美しい縁側にはスイカと風鈴がよく似合うものだ。
青く高い空と、遠くに入道雲が見えればなお良い。
不意に故郷とも呼べぬ故郷の記憶が脳裏をよぎったが、風鈴の音がすぐにかき消してしまった。
坂道を降りた先に普段からよく利用する書店があったので足を運んでみると、愛読している著者の新作が並べられていた。どうやらまた何かの賞を受賞したらしく、文庫本の帯には仰々しくそのことが記載されていた。
店内に人は少なかった。夏休みだというのに制服を着た高校生くらいの男女や、どこかで見たような顔の老人、買い物帰りなのか手提げの鞄を膨らましている主婦ぐらいしか存在を確認できない。
僕は棚に置かれたその本を手に取り、それを購入した。文庫本なのでそこまで痛い出費ではないので、あまり気にはしない。財布の中も概ね潤沢だ。
「お嬢ちゃん、そんなに
五十代くらいの見知った店主が声を掛けたのが自分に対してであることに気が付くのに少々時間がかかってしまった。僕は面食らって、自分に向かって指を刺して疑問符を浮かべると、店主はうんと頷いた。
「まあ、そんなとこです…あはは……」
あはは……やっぱり、声だけはどうにもならないな……。
購入した本を駅のすぐそばのカフェの中で開く。いくら風が涼しいといえ、夏は夏だし暑いのは暑い。あのまま外にいては汗でせっかくの化粧が崩れてしまうだろうと判断し、早いうちからカフェで彼を待つことにした。所在は時間が迫った時にでも知らせればいい。それまでは読書でもして暇を潰そうと考えた。賢明な判断だろう。
僕は買いたてでまだうっすらとインクの香りが残る文庫本のページを捲った。
この著者の作品を知ったのは僕が高校生の頃だったから、今から三年ほど前になる。旅を題材にしたテーマから展開される著者の美しい自然観。
まるで夏をそのままラムネ瓶の中に詰め込んだような透明感溢れる文章と、それをただ気持ち良いだけの文字の羅列にしない心情表現の濃密さに、あの頃の僕は心を奪われた。
そういえば、この本を教えてくれたのも…
「お待たせしました。こちら、アイスコーヒーです」
いいタイミングでテーブルの上にコーヒーが提供される。今度は小さくお辞儀をするだけにとどめる。喉の渇きを潤したかったので、僕はストローで一気に吸い上げた。
氷がカランとグラスの中で音を立てると、風鈴が鳴る時と似た感覚がするので、やはりアイスコーヒーは夏の季語にしてもいいと思う。
こんな日には砂糖は入れないで、なるべくすっきりと味わいたい。風味などは正直に言うとあまり気にしていない。そういった拘りは、少なくとも僕の中には存在しないのだ。
その時突然、鞄の中で突然携帯がバイブレーションを作動させた。何事かと思って取り出してみると世良からの着信で、既に時刻が午後五時半を回っていることに気が付いた。
「もしもし?」
『ああ、龍馬?もうすぐ着きそうだから連絡。今どの辺にいる?」
「駅前のカフェ、入ってすぐのとこにいるよ」
『了解、あと五分くらいで着くと思う』
「わかった。外に出て待ってるよ」
『ありがとう!じゃあまた後で』
そうして電話が切れた。僕はほんの少し残ったコーヒーを飲み干して立ち上がる。
返却口にコップを返し、空色のハンカチで口元を拭い駅の方へ歩きだした。
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