第一章・また、星が泳ぐ
第一話「風が立った」
それは、東京の最高気温が35℃から一向に下がる気配を見せない夏下がりのこと。
窓辺に置いた机に遅めの昼食用に茹でた素麺を並べ、惰性で流れるテレビを眺めながら、僕はぼんやりとそれを食べていた。
止むことを知らない蝉時雨が暑さを感覚的に助長し、窓の外でゆらゆらと揺れる陽炎を見ていると、涼しい部屋にいる筈なのにどうしてか体が火照る感覚がして、僕は素麵を勢いよく
絹のような舌触りが口の中を抜けていく感覚がし、めんつゆの清涼感が後から遅れてやってくると、体の火照りが冷まされて何とも言えない幸福感に包まれる。
やはり夏は素麺に限る。
プルルルルルル…
そんなことを考えていると、突然ベッドの上に転がっている僕の携帯電話がけたたましく部屋の中で鳴り響き、友人からの着信を知らせてくれた。
昼食の手を止めて、僕はそれを手に取る。
「……もしもし世良?電話なんて珍しいね。どうしたの?」
『ああ、龍馬? 今時間大丈夫?』
彼からそんな風に切り出されることは今までになかった。
少しだけ冷房の風が強すぎるような感覚がする。
「…大丈夫だけど、何かあった?」
『別に何かあったわけじゃないけど…』
電話越しの彼は、いつものように明るい声で僕に問いかけてきた。
『今日の夜、空いてるか? 花火やってるらしいから、今年も一緒に行こうぜ』
「ああ今日か…」
『どうした? もしかして予定あった?』
彼にそう尋ねられて、僕はぼんやりと今日の夜について考えることにした。
今日は日中通して快晴だと天気予報士が告げていたように、窓の外には地球の色をありありと映した真っ青な空が広がっていた。
遠くに見えるビル群はいつものように空に向かって矢印のように伸びており、それを目印に空を見上げれば、まさに夏空と言わんばかりの入道雲が揺蕩っているのが見える。
日差しは強く、日焼け止めも最早意味を為さないかもしれない。
僕はチラリとハンガーにかかっている服を
「…いや、行けるよ。誘ってくれてありがとう」
『おっ、いいね。じゃあ18時に駅前で!』
「うん、じゃあまた後で」
通話が終わると部屋には再び静けさが戻り、僕は電話を取るために一度立ち上がった体をそのまま動かして、作業台の机の上に置きっぱなしにした
一冊のスケッチブックを手に取った。
『風立ちぬ』
それが、この絵に付けた名前だ。
浜辺に立つ一人の少女。白いワンピースが風に靡いている。少女はこちらを見つめていて、その表情からは年相応のあどけなさが
少女の背後に広がる蒼く広い海原は空と繋がっていて
一筋の飛行機雲が真っ直ぐに海原を駆けている。
一年前のあの日、僕は友人である世良に自分がこれまでの人生で抱えてきた想いを、空に向かって叫んだ。
同じ学部の、同じ学科。それゆえに互いに顔を合わせる機会が多かった僕たちは、次第に会話を交わすようになり、一年の夏を迎える前には、ほとんど親友と言えるほどの関係性が築かれていた。
人付き合いが苦手な僕と違って友人が多い彼がどうして僕と関わってくれるのか、それは分からなかったが、彼はいつも変わらずに屈託のない笑顔を見せてくれる。
本当に、優しい人だ。
あの日から、もう一年が経とうとしている。
無情なほど早い時の流れを憂う暇もないほど、
時は僕を引き摺り回すように進んでいく。
川底の石のように流れに身を任せることなく
ただじっとその時を待ってきた。
そして、ようやくその時が来たのだ。
僕はハンガーに手を掛け、その服を手にする。
「……やっとこの時が来たね」
やはり慣れない感覚に袖を通すが、心はあの夏の大空のように広く晴れ渡っている。
ふわりと首筋をエアコンの人工的で爽やかな風が撫で、上半身に鳥肌が立った。
大きく息を吸って、吐く。繰り返す。
全身に漲る興奮を落ち着かせるために。
「…うん。大丈夫」
僕は半分ほど残った素麺を急いで平らげ、花火大会のための準備を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます