第2話
中学に入学すると、弟の顔や身体つきに変化が生じた。可愛らしさが少しずつ抜け、代わりに男性的な要素が増えていった。筋肉や骨格が発達したことで輪郭にシャープさが生まれ、身長も伸びた。首を上下する喉仏が目立つようになり、他校からも弟に告白する女子生徒が続出した。
が、弟に彼女が出来ることはなかった。
母があらゆる女を排除したからだ。
「あなたのことはお母さんが守ってあげるからね」
弟の周りに人が群がれば群がるほど、母の執着はひどくなった。
中学生になっても母は弟と一緒に風呂に入り、同じ布団で眠った。母に連れられ脱衣所へ向かう弟は、抵抗する様子を見せなかった。拒否すれば益々自分への執着がひどくなり、苛ついた母によって家の中の雰囲気が最悪な状況になることを分かっていたのだろう。風呂場から聞こえる母の声はいつも上機嫌で、甘えるような話し声を聞く度、俺は心の底から気持ち悪いと思った。
母が弟に対してどんな感情を抱いて、その立場を利用して何をしているのか、俺は分かっていながら一切気付かない振りをした。そうすれば家の中のバランスは保たれていたから。
弟が高校を受験する前日の夜。
ノックの音に続いていつものように俺の部屋に入って来た弟はどこか儚げで、俺は正体のわからない不安を覚えた。
「どうした。明日早いのに、ちゃんと寝ないと響くぞ」
たまには兄らしいことも言わなくちゃと思い、考えてもいないことを俺は優しく微笑みながら口にした。弟は俯いたまま動かず、ドアの前に立っていた。
「試験が不安なのか。お前の成績なら大丈夫って言われてるんだろ。何も心配」
「助けて」
ピンと張りつめた空気を漂わせて、弟が俺の言葉を遮った。
「兄ちゃん、助けてよ」
感情がぼろぼろと崩れていくかのように顔をくしゃくしゃにして激しく泣き出した姿を見て、俺は「こいつは泣いてもキレイなままなのか」と驚いた。
「兄ちゃん、僕、母さんが怖い。育ててくれたことは感謝してるし、大事にしてくれてるのも分かってる。けど、ちょっと異常だよ。おかしいよ。このままじゃ僕、一生母さんから離れられない」
「まぁまぁ落ち着け」
「高校だって本当は違うところに行きたかったのに、家から一番近いところを無理やり選ばされたんだ。ねぇ、親って子どもの幸せを願うものじゃないの。僕はこの家の何なの。血が繋がってないからってあんなこと……」
弟はそこで言葉を止めた。
「あんなこと?」
全部、知ってるけどな。
そう思いながら、俺はわざと聞き返した。
黙り込んだ弟の頭を撫でながら、俺は言う。
「お前が母さんから何をされているのか俺は知らないけど、母さんのしていることは全部、お前のことを大切に想っているからこそじゃないのかな。加減が分からなくてちょっと行き過ぎの面はあるかもしれないけど、愛情がある証拠だろ。お前は今、受験を前に少し不安定になってるから、良くない方へ考えちゃうんだよ。大丈夫」
俺はにっこり笑って、言った。
「俺たちは家族なんだから」
一人に負担を強いることで成り立つ家族なんて、クソくらえだけどな。その状況を受け入れ続けている俺もクソみたいな存在だけど。
弟は俺の顔を凝視して何かを言い掛けたように見えた。が、開かれた口はそのまま閉じられ、視線は俺の顔から胸、足元へとずり落ちていった。
悪いなと少しも思わなかった訳ではない。ただ、僅かばかりの罪悪感より、我が身を優先しただけ。それだけのことだった。長年そうやって保たれてきたのだ、小指の先で触れた程度の波紋すら起こしたくないと思う気持ちも分かってくれよと俺は心の中で呟いた。
俺の腐り果てた性根が見えたのか、弟は「そうだよね、家族だもんね」と言うと「おかしなこと言ってごめんね」と笑った。その笑顔は母に向けるものと同じで、俺は「こいつの中の俺の存在は今、母と同じになったのだ」と悟った。
「明日、頑張れよ」
「うん。ありがとう」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
俺の部屋から弟が出て行く。
俺が弟と交わした最後の会話は、こうして終わった。
弟は受験会場へ向かう途中、交通事故で死んだ。車に撥ねられたと聞いた時にはどんな状態なのかと少しヒリついたものの、病院のベッドで横たわる弟は感情を全て落としてきたかのように無駄のない美しさを湛えていた。
事故じゃない。
弟は故意に飛び込んだんだ。
俺はそう思った。
どうせなら、顔も分からないぐらいぐっちゃぐちゃになりたかったんだろうな。
何となくそんなことを考えながら、俺はそばで精気なくパイプ椅子に座っている母を見た。
弟より、こっちの方が死人みたいだ。
それもそうか。何を差し置いても大切で大事で、どぼどぼと愛情を注ぎ倒した相手が、自分の目の前で死んだのだから。
いつものようにそばを歩いていながら何故こんなことが起きたのかという困惑を抱え、目の前にある事実を拒絶している母は、この後責任の所在を誰になすりつけるんだろうと思った。
俺は知らない。
何も知らない。
葬儀場の外では、雨が降り続いている。
ぐずぐずとした天気も相まって、漂う気配が湿っぽい。
制服姿の子どもが何人かいる。目を赤くして悲しんでいるように見えたが、本当の友達なら死んだことを憂うのではなく、こんなロクでもない親や兄から自ら逃れたことを褒めてやった方が弟は喜ぶぞと教えてあげたかった。
会場の外で待機している霊柩車に棺が載せられ、会葬者に向けた喪主による挨拶が始まった。たらたらと礼を述べる父と、その隣で遺影を抱き締めて呆然としている母。そして窮屈そうに黒のネクタイを締めた俺。
「本当に仲の良いご家族でしたのに」
会葬者の一人が母に向けた言葉を思い出す。
仲の良い家族。
俺の中にある『仲の良い家族』の姿は、弟を迎えた時がピークだった。どうしてこうなってしまったのかと悔いる権利など、俺にはない。
そんなことを考えながら火葬場へ向かう準備をしていたその時、唐突に雨脚が強くなった。バチバチとアスファルトの上を大粒の雨がはねる。葬儀会社のスタッフに促され室内で待機していると、おもむろに母がスマートフォンを取り出して何かを調べ始めた。
『養子縁組 実子がいる 赤ちゃん』
検索窓に打ち込んでいる言葉を見て、俺は葬儀場にいることも忘れて思わず声を出して笑ってしまった。
何だ、コレ。
こんなことになって、まだ
ふざけるな。
あんたの子どもは、今目の前にいるだろうが。
不気味なものを見るような人々の視線などお構いなしに、俺は笑い続けた。その声に呼応するかのように激しさを増した雨脚は、あの日の弟の号泣に似ていた。
涙雨 もも @momorita1467
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