涙雨

もも

第1話

 葬式の日に降る雨のことを『涙雨』と言うらしい。


 亡くなった人間がこの世を惜しんで泣いているだとか、遺族の悲しみが雨となって降り落ちているだとか、そのいわれには諸説あるが、なんと都合の良い解釈なのかと思う。


「ふざけんなよ」


 俺は棺の窓を開けて、文句を言う。

 こんなところに入れられてるのに、相変わらずキレイな顔しやがって。


 享年十五歳。

 享年なんて言葉、初めて使った。


「そろそろ時間よ」


 母が乾ききった声で俺に言う。そりゃそうだ、あんたの大事な大事な息子が死んだんだもんな。

 

 あぁ、言ってやりたい。

 

 そいつはあんたと血が繋がってないことを知ってたよって。

 あんたがあいつを見る目には、親が子どもに向ける愛情以上のものが込められてることに気付いてたってこともな。


「兄ちゃん、助けてよ」


 右耳のすぐそばで、あの日の縋るような声が聞こえた気がして、俺は思わず手で耳を塞いだ。


 弟という存在が出来たのは、俺が7歳の時だった。


 自分たちが産み育てたたくさんの子どもたちに囲まれることが夢だったという母は、俺を産んだ後、二人目不妊に悩まされた。長い間治療に取り組んでも子どもを授かる気配はなかったが、思わぬところから赤ん坊が降って湧いた。


 母方の従妹が未婚のまま産んだ子どもを、母が養子として迎えたのだ。その過程にどのような話し合いがあったのかは知らないが、我が家にやってきたその赤ん坊はふやふやと柔らかくとても可愛くて、平和の象徴のように見えた。


「お兄ちゃん、これからよろしくね」


 母が赤ん坊の声をあてるように、俺に呼び掛けた。差し出した俺の人差し指を握る力は想像していたよりも強く、俺は赤ん坊が命の塊であることを俄かに実感して少し怖くなったことを覚えている。


 周囲の同じ月齢の子どもたちと比べても弟の愛らしさが異常だったことは、幼児の頃から明白だった。


 ベビーカーで眠る弟を誰もが可愛いと褒め、よちよちと歩く姿に大勢の大人が振り返った。知っている人も知らない人も、皆が弟のことをとろけた目で凝視する。最初こそ謙遜していた母も、しばらくすると褒め言葉を額面通りに受け取るようになった。


「可愛い可愛い、私の子」


 弟の愛らしさは成長と共に増すばかりで、良くも悪くも注目を集めた。見知らぬ人間に何度も後を付けられたり声を掛けられるのは日常茶飯事で、公園で遊んでいるところを無断で撮られることも多かった。


「私があの子を守らなくちゃ」


 母は学校の登下校時はもちろん、どこへ行くにも必ず弟に付き添い、絶えず注意の目を周囲に向けた。

 ひとりで外へ遊びに行かせるなどもってのほか。

 自分の目の届く場所にいないと気付けば、不安に怯えた真っ青な顔で探し回った。


 弟のことで頭がいっぱいの母は、『たくさんの子どもたちに囲まれること』という夢などどこかへ飛んでしまったようで、結局子どもは俺と弟の2人でストップした。

 

 そんな母のことを、父は面倒がらずに愛を以て接したし、母が機嫌良く過ごせるためにも弟へ注ぐ愛情は惜しまなかった。弟を中心に全ての行動指針が決まっていく中、俺はどうしていたかというと、親の気を引くためにわざといたずらをしたり、関心が欲しいからと勉学に励むこともなかった。

 

 父に大切にされる母。

 母に溺愛される弟。


 血の繋がりのある俺よりも血の繋がらない弟に両親の気持ちが向く状況を周りはかわいそうだと言ったが、むしろ俺は楽だった。俺が弟の立場なら、あんな過剰な愛は重いだけだ。俺は自分への注意が薄いことを幸いに、程良く遊び、程良く悪いことをし、程良く息を抜いた。


 俺の自由のために、犠牲になってくれてありがとう。


 そんな風に思っていたことに気付いていたのかは知らないが、弟は俺の部屋をよく訪れた。宿題を教えて欲しいと言われればアドバイスをしたし、ゲームをやろうと言われれば付き合った。


「兄ちゃん。僕、兄ちゃんの本当の弟じゃないの?」


 爆弾を仕掛け合うゲームの対戦中、弟が不意に尋ねた。突然の質問に思わず意図しない場所に爆弾を置いてしまい、俺は自爆するハメになった。


「何でそう思ったの」

「んー、何となく」


 小学生は誤魔化すのが下手クソだな。

 大方、近所の人間が話しているのを聞いたとか、周りから俺と全く似ていないことをイジられでもしたんだろう。俺はゲームに負けた腹いせに言ってやった。


「そうだよ。俺とお前、血繋がってないから」


 弟の目に一瞬動揺が走ったが、それ以上の混乱は見せずにただ俺の顔をじっと見ていた。俺はその反応が面白くなくて、更に付け加える。


「ちなみにうちで血が繋がってないのはお前だけだよ」

「父さんも母さんも、僕の本当の親じゃないってこと?」

「そ」


 俺は弟の顔を盗み見る。血の気がすうっと引いて、何の感情も表さなくなったその顔は、ただただ良く出来た作り物みたいだった。


「でも、皆お前のことは大好きだから、安心してウチにいろよ」


 色々なことの矛先が俺に向くと面倒だからさと、俺は胸の内だけで続けた。

 弟は「わかった」と頷き、俺たちはゲームを再開した。


 

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