雲隠れ

 ***


 夏が過ぎた直後にのぞむは小説家として、デビューする。応募していた長編が優秀賞を獲得し、書籍化が決まったのだ。

 ペンネームは望月しょう

 小説の内容は推敲していて恥ずかしくなるくらいの、甘々のラブストーリーだ。ヒロインのモデルは明らかに結月で、絶世の美人として描かれている。

 彼女とのドラマチックな恋をつづった作品は多数の読者に見られ、反響を呼んだ。

 結月はもちろん書店に足を運び、紙の本を購入し、ホクホク顔で外に出る。

 受賞の結果は知っていたとはいえ実際に売り出されているところを見ると、本当にプロになったと実感が湧いて、感慨深い。

 しかも、本の感想を不特定多数の人間と共有する日が来るとは思わなかった。こちらまで誇らしくなり、ドキドキする。

 街路樹のそばを通りながら、パッケージされた本を胸に当て、結月は顔を紅くきれめかせた。


 書籍化をきっかけに流れに乗った彼は怒涛の勢いで、本を刊行する。望月しょうというペンネームは巷に知れ渡った。休日で街を歩けば、若い男女が彼の名前を出し、小説の感想を言い合う光景を目撃する。

 デートの最中に噂をされてドキリとしながらも、結月は内心で気持ちがよくなっていた。


 しかし、彼が売れれば売れるほど、忙しさは増す。二人きりの時間は取れず、目を合わせる機会は薄くなった。

 休日、薄暗い部屋のベッドで寝転がり、女は浮かない顔でスマホをいじる。

 内心、分かっていた。のぞむの中で結月の存在は小さくなっている。夢を叶えた今、果たして自分は必要なのか。

 望月しょうにはすでにたくさんのファンがついている。わざわざ応援しなくったって、支えてくれる人は大勢いるのだ。

 結月の心に漠然とした不安が渦を巻く。彼女は悶々と一人の時間を過ごし、そのまま一年が経過した。


 

 ある薄暗い昼間。結月は部屋にこもってスマートフォンと向き合っていた。

 薄い画面に載っているアイコンに、赤い点のマークがついている。クリックするとフォルダが表示された。

『ごめん、次のデートは行けそうにない』

 端的な返信だ。特になんとも思わない。断れるのには慣れているからだ。

 無表情のままスマホから視線を外す。窓を見ると灰色の空から雨が降っていた。

 別に構わない。簡単な身支度を済ましてから玄関へ。古い傘を掴んで、外へ出た。

 小雨の中を突っ切るように、街を歩く。十字路の手前で足を止めると、真横にこじんまりとしたカフェがあった。窓ガラス越しの男女の影が映る。


 奥の席でブラックコーヒーに手を伸ばした男は、結月のよく知る人物だった。色白の肌に細身のシルエット。黒の短髪と切れ長の目がクールが印象を与える。無地のシャツとスラックスのシンプルな格好が、彼の持つ無機質さを強調していた。

 反対側にはふわふわとした茶髪に、明るい色の瞳をした女性が座っている。ひまわり色のブラウスが似合う彼女が太陽のように映って、ドキリとした。


 その前に結月は今の状況を理解できない。

 二人の関係はなんなのか。まさか、浮気ではあるまい。

 我が目を疑い、心がどよめく。

 茶髪の女性が目をきらめかせ、男がにこやかな顔になる度に、胸の奥がきしんだ。涼しい風が吹き付け、心細さが加速する。

 結月はうつむき、唇を噛んだ。表情を藍色の傘で隠したまま、踵を返す。ゆったりとしたワンピースの裾に、水がかかった。足下で飛沫を上げながら、大股で進む。

 ゆったりとしたシルエットは逃げるように小さくなり、背後では色褪せた葉が散り、地に落ちた。


 寂しさが加速する中、秋は深まり、背景から色が抜けていく。気温はすっかり冷え込んだ。かつての熱狂が今や懐かしい。

 結月は気まぐれに散歩に出かけ、公園に着いた。最初に彼と出会った場所は落ち葉に覆われている。急に懐かしさがこみ上げ、心が揺れた。

 彼女は眉を垂らしながら、空を見上げる。

 当時は月の光に魅入られ、じっと夜の闇に身を浸していた。花鳥風月を意識する女の感性は、他者よりも繊細で、古風。軽く共感はされても深入りはされない。のぞむと出会ってようやく理解者を得られたと思ったのに、結果は違ったようだ。

 今日はちょうど彼と出会って二年目。

 思えばあのとき、神秘的な夜に彼が見ていたものは、月影などではなかったのだろう。結局、最初からすれ違ったままだった。今さら現実を思い知らされ、むなしくなる。

 周りで広葉樹から葉が剥がれ落ち、雨のように降り注ぐ。乾いた風が吹きすさぶ中、彼女はひっそりと目を伏せた。


 数日後、ようやく二人切りで会うタイミングがやってくる。別に特別なイベントではない。ただ近況を報告して、別れるだけ。

 結月はあえてデートに出向くかのように、着飾ってきた。フリルが揺れるシフォンブラウスに、ベルト代わりにリボンを締めた、ピンクのスカート。すわりと伸びた脚はニーハイソックスで覆い、足下はパンプスをはいている。胸元ではキラキラとしたネックレスが目立ち、花のコサージュも上品さを演出していた。

 街の門の前に現れた男は、安っぽい普段着で身を包んでいる。互いに何事もなかったかのように挨拶をして、近づいた。

 のぞむはエスコートをするように女の手を引き、歩き出す。通りを経由して郊外に赴くと、風光明媚な景色があたりに広がっていた。

「今日は晴れてくれてよかったよ。このところ、天気がぐずついていてね。でも、どんな悪天候でも君は美しい。だからそんなに着飾る必要はないよ。ありのままでいてくれれば、それでいいんだから」

 空元気を振りしぼるように大仰なりアクションを取る。

 結月は困った顔で首を傾けた。

 当時は彼の態度に一喜一憂した覚えがあるのに、今日はなにも感じない。悲しみも悔しさも、ときめきも、喜びさえも。


 やがて日が暮れて、夜の帳が降りる。今宵の空は曇りがかっていた。

 二人は突き当りにたどり着く。これより先に道はなく、目的地も存在しない。あたりは薄暗く、不穏な空気が広がっていた。

「ねえ私、もう無理だわ」

 繋いでいた手を振りほどき、切り出す。

 男はぼうぜんと振り返った。

 結月は眉を寄せて首を横に振る。

「これ以上、付き合えない。あなたもそれもお望みなんじゃない? もう私なんて必要ないのでしょう」

 正直に伝えると急に男は焦ったように、身を乗り出した。

「そんなことはない。いままでどれだけ助けられたか。ずっと感謝してたんだ。今の俺がいるのは、君のおかげだと」

「愛されていたのは、私ではないわ」

 咎めるように口に出す。男は凍りついた。

 彼の頭をよぎったのは、太陽のような女だろう。カマをかけたらあっさりと引っかかった。

「あの女性はただのマネージャーだよ」とでもごまかせば、こちらも納得する。

 本当は否定してほしかったのに彼は、肯定されてしまった。言い訳もせず、沈黙を貫くことで。


「私ね、見ていたの、あなたたちが密かに会っていたところを」

 目をそらす。

「別に悲しくはなかったわ。むしろ、納得したの」

 淡々と唇を動かす。

「あなたは月に焦がれてなんて、いなかった。最初に出会った夜、私の声に耳を傾け、共感してくれたと、思っていたのに……」

 憂いの気持ちが口から漏れる。

 男はしばし固まっていた。目を丸くして、ぽかんとしている。やがて彼は気を確かにしたのか、引き締まった顔で口を開いた。


「悲しくはなかった、だと?」

 硬い声を繰り出す。

「つまり、察したのか。本当は俺のことなんて好きでもなんでも、なかったと」

 眉をつり上げ、眼光鋭く対象をにらむ。

 今度はのぞむが怒りを見せる番だった。

「気持ちが冷めただけよ」

「執着する価値がないくらい淡い感情だったって、だけの話じゃないか」

 目を合わせずに否定すると、男が詰め寄る。

「君が愛していたのは俺じゃない。ただの散文小説だ」

 バッサリと切り捨てる。

 果たして自分がのぞむに抱いた感情は恋か、憧れか。今となってはなにも証明できず、女は黙り込んだ。

「俺は許さないぞ。好きでもなんでもない癖に一方的に別れを切り出すとか、侮辱にもほどがある」

「許すも許さないも勝手にして。これは私が決めたこと。結末は変わらないわ」

 男は納得できないとばかりに、声を荒げた。

 熱気がふくらみ、空気がピリつく。

 女も引き下がる気はなかった。


 冷たい夜空の下、言い争いは続く。

 二人は互いの感情をぶつけ合った。

 心の奥に抱えていた不満・本音を隠しもせずに、正直に。

 なあなあで過ごせる時間はとうに終わった。

 一度生じた亀裂は二度と埋まらない。両者を隔てる見えない壁を実感し、結月は一度口を閉ざし、眉を垂らす。

 直立する足下が頼りない。心に空虚な風が吹き抜けていった。


「本当は惜しいと思っていたのよ。未来の大作家を手放したくなかった。でも、出会ったころ無垢だったあなたは、もういない。本当に欲しいと願った人とは、もう出会えないの」

 晴れやかに澄み切った顔で、女は伝える。

「ずっと、夢を見ているようだったわ。こんなに充実したバラ色の時間は、もう二度と手に入らない」

 結月の気持ちはすでに決まっている。

 今こそケリをつけ、本当の気持ちと向き合うとき。

 おそらく、この交錯が最後になると、互いに感じた。

「俺には月のよさは一度も理解できなかったよ」

 神秘的な夜に出会った彼女を想うように、男は遠くを見つめた。

「それでもあの日、月の光に照らされた君は、美しかった。この世のなによりも。だからこそ、手に入れたいと願った」

 しみじみと、想いが口をついた。

「君と一緒にいれば、あの輝きの正体が分かるかもしれない。月に触れられたら、その良さを愛せると思ったんだ」


 でも、彼は知ってしまった。おのれの運命は彼女ではない。

 だけど、彼女と付き合って人生が変わったことだけは確か。

 だから、出会うべくして出会ったのだろうと、男は考える。


「私に幸せな時間を与えてくれてありがとう」

「俺を望月しょうにしてくれて、ありがとう」


 これ以上、互いを嫌いになることはできない。知らぬ間に刻まれた溝を見てみぬ振りをすることは、できなかった。


「だから、さよなら」


 声を発したのは、果たしてどちらだったのか。

 もはや関係はない。

 結月とのぞむの表情にはなんの憂いもなかった。

 乾いた風が吹き、髪がなびく。

 まるで長い旅を終えたような、清々しい気持ち。二年間の思い出が映画のワンシーンのように浮かんでは、儚く消えていった。

 強いていうなら、これが運命だったのだろう。


 最初に結月が背を向け、歩き出した。低いパンプスがかすかな音を立てて、遠ざかる。遠方では草むらが小刻みに揺れ、青臭い匂いがただよってきた。

 のぞむも後を追うように、一歩を踏み出す。

 前を向いたとき、すでにエレガントなシルエットの彼女は見えない。これから先は彼女のいない世界を生きていく。

 悲しくはなかった。もう二度と会えなくても互いの存在は、胸に刻まれている。

 どれほど遠く離れても、愛していたという事実だけは消えない。


 頭上の空がゆるりと晴れていく。常闇の空に浮かんだ欠けた鏡が浮かんでいた。片割れの月から降り注ぐ光が、見えない影を照らしていた。

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永遠の片割れ月 白雪花房 @snowhite

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