沼池が隠すもの
星野 ラベンダー
沼池が隠すもの
私の生まれ育った村は、見所らしい見所が何一つ無い田舎でした。
背の高い建物や、少し大きな子供達……中高生のためのお洒落で今時のお店などは全然ありません。高層ビルなどテレビや本の中でしか見たことがありませんでした。実在するのかどうか、小学二年生か三年生頃まで半信半疑だったほどです。
その代わりに自然は多かったです。家や建物よりも田んぼや畑のほうが数がありましたし、奥深い森や鬱蒼とした林、澄んだ水の流れる綺麗な川や池がそこら中にありました。
他に、「沼」もありました。
私が通っていた小学校の通学路の途中には丁字路があり、曲がり角の右側の道は森へと続いていました。その道路と森の境目あたりには、古びた鳥居が立っていました。石でできていて、所々に苔が生えており、緑と灰が入り交じった色をしていたのを覚えています。
鳥居をくぐって森に入ると、そこには自然にできた土の道があり、進んでいくと小学校の裏手に出ます。ほとんど道なりに進んでいいだけのこの道を行くと、通学路を使うより何分も早く学校に着くことができるのです。
ただ親も先生も、大人は皆この道を使うことを禁じていました。不審者が出るかもしれないから。イノシシなど危険な野生動物が出るから。理由は様々でしたが、沼が危ないから、というのが一番の理由でした。
森の中を進んでいくと、ちょうど中間地点をすぎた辺りで、私から見て左手側に現れるその沼は、道よりも少し低い場所にあったため、こちらからはやや見下ろす形になります。
緑色の、濁った水。池でも湖でもなく、まさに「沼」以外の何物でもありませんでした。
底がどうなっているかは、泥深い水のせいで全くわかりません。沼の水は緑色だけでなく、黒色や茶色もうっすらと混ざっていました。汚そうなので実際に触ったことはありませんが、まるでどろどろした粘り気ある触り心地がしそうでした。沼から漂ってくる匂いも、いいとは言えません。かび臭くて、つい顔をしかめてしまうほどのものでした。
大きさもかなりのもので、対岸に人が立ったとして人影が辛うじて見えるか見えないかくらいはありました。深緑の水面から、苔むした岩や枯れ木がいくつか顔を覗かせていました。
森の道は、普段滅多に人が通りません。なので沼に落ちてもなかなか助けが来ないことから、大人達は危ないと言っていました。しかし私は、この沼の危なさはそれだけではないだろうと思っていました。
その沼からは、いつだって生き物の気配がしませんでした。例えば森を進んでいて、それまでどんなに鳥のさえずりを耳にしていても、沼が見えてきた途端にぴたりとそれはやみます。けれども沼が見えなくなるくらいまで離れると、再び鳴き出すのです。
夏も、頭がわんわんするほど蝉が喚いていても、沼の周りだけは何かの間違いのように大合唱が消えるのです。他の動物も虫も、沼の近辺では見たことがありません。沼そのものに魚など水の生き物がいないのはもちろんのことです。
加えてその沼に近づくと、どんなに強い風が吹き荒れている日でも、必ず風が止まりました。
生き物の気配が一切せず、風も吹かない沼の周りの空間は、いつだってひんやりと冷たい空気が流れていました。
子供ながらに、この沼は何か不思議な場所なんだろうと感じていました。あまり良くない場所なのだろうとも。
沼の存在が不気味だったので、森の中はあまり通らないように気を付けていました。それでもたまに、寝坊して学校に遅れそうなときなどは、森の道を突っ切ることがありました。沼は何度見ても慣れず、横切る度に背筋にぞわぞわし、肌にはぷつぷつと鳥肌が立ちました。
危ないとされる沼を、なぜそのままにしてあるのか。気になった私は、いつか家族に聞いたことがあります。色々複雑な理由があるから難しいと言われただけで、詳しい答えは返ってきませんでした。
それとは別にこの村には、沼の他にもう一つ、危険と言われていることがありました。
毎年この村では、必ず数人、人が行方不明になるのです。
あの家のおばあさん、あの家の旦那さん、あの家の男の子の赤ちゃん。私の顔見知りも、つい昨日まで普通に話した相手が突然いなくなるということが、何度もありました。
もしかするとあの不気味な沼と、何か関係があるのだろうか。根拠はありませんが、私はうっすらと、そう考えていました。確かな証拠はなくても、あの沼のただならぬ空気を思うと、どうしても結びついてしまうのです。
小学五年生となった、ある日のことです。その日学校で、私は憂鬱な気分で帰り支度を整えていました。というのも返ってきたテストの点数が、とても悪かったのです。算数の抜き打ちテストだったのですが、それにしてもひどいものでした。親に見せれば叱られるのは目に見えています。
どうしたものかと何度もため息を吐きながら、足取り重く校舎を出たときでした。友達のN美という女の子が、正門ではなく裏門に向かう後ろ姿を見かけたのです。気になった私はあとをつけました。
その子は例の森に入っていくと、沼の前で立ち止まりました。そうしておもむろにランドセルから折り畳んだ紙を取り出すと、沼の中に投げ入れたのです。紙は沼の中にゆっくりと沈んでいき、やがて見えなくなりました。
私が思わず何をしているのか聞くと、N美はびっくりした様子で振り向きました。しばらく目を丸くしていたN美でしたが、やがて「テスト、悪くてさ」とばつが悪そうに笑いました。
今沼に捨てたのが、そのテストでしょうか。悪い点のテストを見られたくなくて、沼に捨てたのでしょうか。しかしどうしてゴミ箱ではなく沼なのでしょう。
その疑問が顔に出ていたようで、N美は「もしかして知らないの?」と頭を傾けました。
「この沼ね、隠し沼って言われてるんだよ」
初めて聞く名称でした。まあ子供は知らないよね、とN美は腕組みをして言いました。大人が教えるはずないものね、と。
N美は村に古くからある神社の家の子供で、だからか物知りで少しませていました。
彼女は隠し沼について、詳しい話を聞かせてくれました。なんでもこの沼には、見られたくないものや秘密にしておきたいもの、隠したいものを投げ込めば、それは誰にも、一生見つからないという伝承があるのだそうです。
今でもこの沼を利用している人が多くいて、実際に現場を何度も見たのだとN美は言いました。大人が大半だったとのことです。
「多分さ、浮気とか不倫とか不正とかワイロの証拠とか。そういうのを隠しているんだろうね。大人の隠したいものってそういうものでしょ? 本当のところは知らないけど」
自分自身も、何度かこの沼に隠したいものを投げ入れたことがあるらしいです。N美は、現場を見たんだし共犯になってほしいと誘ってきました。
私は頷いて、ひどい点数が書かれたテストの答案を沼へと投げ入れました。低い数字の載った一枚の紙は、濁った緑色と溶け合いながら、緩やかに姿を消していきました。
その日家から帰ると、お母さんから抜き打ちテストのことを聞かれました。田舎は近所間の関係性が濃くなるものです。クラスメートの親から聞いたのだと、お母さんは言いました。
隠し沼もN美も嘘つきではないかと嘆きながら、私は必死で、知らない、なくしたと誤魔化しました。お母さんは「なくしたのではなく捨てたのでしょう」と疑っていましたが、私は必死でしらを切り続けました。やがてお母さんは根負けし、なんとか隠し通すことができました。
それから数日後のことです。私は掃除の当番中にうっかりして、学校に飾られている花瓶を割ってしまいました。幸い周りには誰もいませんでしたが、このままにしていては私が壊したとばれてしまいます。
叱られると肝を冷やしたのですが、たまたまその場にやって来たN美が、隠し沼に持っていこうと言いました。どのみち割った花瓶は隠すつもりでいたので、N美と二人で破片を集め、沼に落としました。
学校はすぐに花瓶が消えたことに気づきましたが、その行方の手がかりは一切掴めないまま終わりました。私が疑われることも、ありませんでした。
テストも花瓶もばれなかったのは、偶然上手くいったのだろうという気持ちが半分。もう半分は、もしかしたら沼の力かもしれない。そんな思いが、私の心の中にありました。
N美は絶対隠し沼の力だと信じて、興奮気味になっていました。
「ご利益あったでしょう? きっとこの沼は本当に不思議な力があるのよ、だって大人が信じているくらいだもの! にしても大人ってずるいよね。沼の力を知っている癖に、何も言わないなんて」
願掛けのつもりで、私とN美はその後も隠したいものができると、沼に投げ込むようになりました。壊してしまった親の私物や、友達から借りたけれど汚してしまった本。新しいものが欲しいけれど今あるものが壊れていないからという理由で買ってもらえない、古いおもちゃ。いらないものや見られたくないものなど、色々な隠したいものを沼に投げ捨てていきました。
何を隠しても、ばれることはありませんでした。疑われることもありませんでした。
それが沼の力なのかどうかはわかりません。運の問題で片付けることもできるでしょう。しかし私は、N美と同じく、段々と沼の力だと信じるようになっていきました。
一ヶ月半も経つ頃には、もう沼に不気味さを抱いてはいませんでした。むしろ頼もしく思っていました。この沼は絶対に秘密を漏らさない要塞なのだと。沼を怖く感じていた頃が、とても遠い出来事のようになっていました。私は、不思議な沼のことを好きになっていったのです。
十月の終わり頃、いつものようにN美と隠し沼に行きました。隠したいものを投げ入れたちょうどそのときです。「何をしているの!」と背後から鋭い声がかかりました。
振り向くと、そこにはY子という担任の先生が立っていました。まずい、と私は咄嗟に思って、ばつが悪そうにしているN美と目配せしました。
「裏門に行くところを見たから気になって来てみたら……。この道は本当に危険で、特にこの沼の近くは危ないのよ! しかもゴミを捨てるなんて……! ちょっとこっちにいらっしゃい!」
Y子先生はすっかり怒っていました。秘密がばれた私とN美の体から、がっくりと力が抜けました。こっそり動いていたのに、こんなにあっさり見つかったしまうなんて。
Y子先生が背を翻して学校のほうへ歩き出したので、私達もとぼとぼついて行こうとしました。その直後のことでした。
沼の近くでは、風が吹きません。晴れの日も雨の日も、春も夏も秋も冬も、それは変わりません。沼の近くに来ると、いつだってぴたりと風がやみます。そのはずでした。
なのに、です。いきなり、びゅうっと風が吹いたのです。物凄く冷たい風が木々が一斉に音を鳴らしました。沼から出ている枯れ木も右に左に激しく揺れました。
私とN美は反射的に足を踏ん張りました。しかし、Y子先生は、完全にふいをつかれたようです。
「あら……?」
私が見たのは、体勢を崩したY子先生が、まるで吸い込まれていくようにして、沼へと落ちていくところでした。
先生は背を向けていたので、どんな顔をしていたかはわかりません。
ざぶん、と大きな音がしました。どろりとした沼に、静かに波紋が広がりました。緑色の水に、じわりと赤色の水が滲み、すぐに消えました。
Y子先生は、上がってきませんでした。
沼の周辺はいつの間にか、風も音もない空間に戻っていました。私は動けずにいました。N美はかたかたと全身を震わせていました。
私とN美は、すぐにY子先生が沼に落ちたことを言いました。大人達がすぐに、沼の中を捜索しました。しかし、驚いたことに、沼からは何も出てきませんでした。沼には、何もなかったというのです。少々濁っているだけで、ゴミ一つ落ちていなかったとのことでした。
私は、そんなはずないと訴えました。けれど周りの大人が嘘を吐いているようには見えませんでした。その後、他の場所も捜索されましたが、Y子先生は見つかりませんでした。また今年も行方不明者が、と村のあちこちで噂されました。
一体どういうことなのかと考え、私は、Y子先生は隠されたのだと思い至りました。あの沼は、人を隠すことができる力を持っているのです。人一人隠せる、強大な力を持っているのです。
それに気づいたとき、私の胸は、弾みました。Y子先生が消えた悲しみよりも驚きよりも恐怖よりも何よりも、沼の力に、強い高揚を覚えました。その状態に疑問を抱くこともありませんでした。
一ヶ月ほど経ったときのことです。私はN美を沼に誘いました。N美はY子先生が沼に落ちた日以降、ずっと下ばかり見て口数が一気に減って一人でばかりいるようになっていました。彼女は、黙ってついてきました。
沼につくと、N美は急に「私から誘っておいてなんだけど。もう、沼は使わない」と言ってきました。
「ひいおじいちゃんから言われたんだ。何を隠したかは知らないけど、N美は隠し沼を利用しているだろうって」
そしてN美は、ひいおじいさんから聞いたという隠し沼の話について教えてきました。
大昔、この沼は口封じや村八分など、様々な理由で殺した人間の死体を捨てるところだったそうです。どれだけ人を捨てても、死体は決して上がってくることはなかった。だから死体遺棄には格好の場所だったのだと。
けど沼を捜索しても何も見つからなかったっていう話じゃないの、と私は言いました。その話が本当なら、沼の底は骸骨でごろごろしているはずです。
「だから沼が隠すんだよ。綺麗さっぱり、消してしまうの。Y子先生みたいに……。ねえ、知ってる? この村で、毎年数人の行方不明者が出ている理由。消えた人達は、皆、この沼に隠されたんだよ」
私は今まで周りで行方不明になった顔見知りの人達を思い出しました。
あの家のおばあさんは、お嫁さんと物凄く仲が悪くて、いつもいがみ合っていました。
あの家の旦那さんは不倫をしていて、奥さんはそれに気づいているようでした。
あの家の赤ちゃんは、弟ができてからお父さんもお母さんも私をほったらかし、と五歳のお姉ちゃんが寂しがっていました。
大体、誰かに恨まれています。存在を隠したいと願う相手が身近にいる人が、行方不明になっているのです。
「何度お祓いしても全然効かないくらい強力な力があるって。だから埋め立てることも何もできないって……。あまり利用しすぎると沼の力に魅せられるから、今すぐやめろって。力に魅せられた後は、沼の力を使い続けた人を、存在ごと隠してしまうんだって。魅せられるっていうのは、本当だと思う。だってY子先生に見つかった瞬間に私、Y子先生も沼が隠してくれないかなって思ったもの。怖くなっちゃったから、だからもうやめる。あなたも、もうやめたほうがいいよ。この沼は人を餌にしているんだって、ひいおじいちゃんが言ってた。沼の近くを通った人、沼に突き落とされた人、沼の力を使いすぎた人……。とにかくお腹が空いたら餌を食べるような、そういう沼なんだって」
私は渋りました。考えすぎだと言いました。気のせいだと訴えました。この沼が、そんな恐ろしいものであるはずがないと。Y子先生のあれは、ただの不運な事故だと。行方不明者だって沼とは関係あるはずがないと。
けれどもN美の態度は頑なでした。それどころか私の目をじっと見つめて、こう言ってきたのです。
「そんなに嫌がるのは、この沼をまだ利用していたいから? それくらい、隠し事がたくさんあるから?」
N美は無表情のまま続けました。
「私のキーホルダー、盗んだでしょう?」
私とN美はその当時、あるアイドルグループのファンでした。そのアイドルが限定グッズを出すことが決まったのですが、そのグッズが売られている店は、田舎であるこの村にはありません。
だったのですが、N美が家族の用事で都会に遠出することが決まったため、そのグッズを買えることになりました。ずっと元気がないN美を、家族が気遣ったのです。
せっかくだし私の分も買ってくると約束してくれたのですが、帰ってきたN美は、自分の分のグッズしか持っていませんでした。売り切れて買えなかったというのです。
私は羨ましくてしょうがありませんでした。そのグッズであるキーホルダーを見る度に、悔しい気持ちとあれを手に入れたいという気持ちが全身を包みました。昨日N美の家に行ったとき、N美が部屋から退室している最中、その気持ちが頂点に達しました。
私はN美の鞄に飾られていたキーホルダーを外して、自分の鞄の中に入れました。
ここまで衝動的な気持ちになったのは初めてでした。何かあっても、隠し沼があるから大丈夫という安心感があるおかげで、罪の意識も全然ありませんでした。
私は知らないと答えました。嘘、とN美は即座に返しました。私を睨んだまま、目を離しません。
このまま知らないと言い続けたらN美はどうするでしょうか。きっと、自分の家族に言うでしょう。そうなれば、私の家族にも学校にも近所にも村にも、私のしたことが伝わります。
内緒にしたい。秘密にしたい。隠したい。
私は手を伸ばして、N美の腕を掴みました。
「えっ?!」
ふいをつかれたN美の体は、簡単に動いてくれました。私はN美を引っ張って体勢を崩させると、その隙をついて思い切り体を押しました。
N美は目を丸くしていて、何が起きたかわかっていないようでした。口もぽかんと開けていました。空中を切るように両手を動かしながら、彼女ははぼちゃんと沼に落ちました。
沼に落ちたN美は、両手をばたばたしながら踊らせていました。陸に向かって泳ごうとしています。
ですがその瞬間、ごう、と強い風が吹きました。生き物が唸っているような風音でした。風はN美の動きを阻み、沼の中心へと押し流していきます。水面が揺れ、波紋が広がります。風の音色が反響します。N美の懸命に藻掻く音が、やけに大きく聞こえました。
N美が口をぱくぱく、激しく動かしています。ごぼごぼごぼという聞くに堪えない水音が聞こえてきます。助けてと叫んでいるのでしょうか。しかし沼の水がどんどん口の中へと入りこんでいるせいで、何を言っているか全然わかりません。
見る間に沈んでいくN美は、どんどん沼の底へと消えていきます。眼球が飛び出さんばかりに両目を剥いたN美と、目が合いました。
それが最後に見た友達の姿でした。
N美の体は沼の中心部分で、完全に見えなくなりました。沼の表面に、赤色がインクを垂らしたように現れました。
Y子先生のときのように、N美はいなくなってから、すぐにあちこち捜索されました。沼がある森も捜されました。沼の中も。
けれど、N美は見つかりませんでした。わずかな痕跡も見つかることはないまま時間が経過し、やがて捜索は打ち切られました。
幸い、こっそりと沼に向かったため私が最後にN美と会っていたということは知られず、私に疑いがかかることはありませんでした。
N美の家族は、皆悲しんでいました。顔色悪く、痩せたN美の家族を、私の家族も含めた村の人が慰めているところを何度も見かけました。私はそれを見ながら、見つからなくて良かったと思っていました。
人も隠せてしまうあの沼がある限り、私がいくら秘密を抱えようと、ばれることは有り得ない。一生。私は沼の力を信用していました。隠し沼があるこの村に生まれて良かったと思いました。
それから更に一ヶ月ほど経った時のことです。今日も私は、秘密を隠しに沼のもとへ訪れました。ランドセルの中には、クラスメートの持ち物であるクリアファイルが入っています。
このクリアファイルは、私が応援しているアイドルのライバルであるグループのグッズです。この前手に入れたんだと弾んだ調子で語るクラスメートの声を聞きながら、私は、なんでそんなものを持ってくるのかと面白くありませんでした。だから“隠して”やろうと、その子のランドセルからファイルを抜き取りました。
ところがクリアファイルを取り出すとき、例のN美から盗んだキーホルダーも落としてしまいました。いつもランドセルの中に入れて密かに持ち歩いていたのですが、うっかりしていました。
落ちたキーホルダーは地面を跳ね、沼の近くへ転がっていきました。幸い、浅瀬の部分で止まってくれました。キーホルダーが、半分だけ沼の水に浸かっています。私は拾おうと背を屈め、キーホルダーを握りしめました。
直後です。水面から真っ白な何かが出てきて、私の手首を掴みました。
手でした。皮がない、骨の手でした。石とも鉄とも違う堅い感触が、皮膚に食い込みました。身体が芯から拒絶するように冷たかったです。
手は、物凄い力で引っ張ってきました。私の体は、沼のどろりとした水面へどんどん近づいていきます。かびのような水の匂いが、鼻をつきました。
私は両足を踏ん張りました。けれど足が折れそうなほど力を込めても、手の力のほうが圧倒的でした。
沼からばしゃんと音が鳴りました。別の手が現れたのです。それも骨の手でした。手は、私の片方の足首をがっしりと掴みました。あ、と思ったときには、引っ張られていました。
一度体勢が崩れれば、後はあっという間でした。視界が回転し、どちらが上か下かわからなくなります。
N美もY子先生もこういう感じだったのかな。思うと同時に、どぼんと大きな音に包まれました。
私は水中で、うっすらと見える沼の底に、白いものがごろごろ転がっているのを捉えました。
それらは全て、人の骨でした。手だったり、足だったり。肋骨だったり、頭だったり。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、途切れること無く骨は続いています。 沼の底は全て、形の崩れた骨の白色で埋まっていました。
それが、生きている私の見た最後の光景でした。
沼池が隠すもの 星野 ラベンダー @starlitlavender
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます