第6話 別れ





 あらゆる全てがその活動を止め、静寂に包まれる深夜。

 一人の老人だけが、暗闇の中で僅かに動いていた。



「......」


「ハァ......ハァ.......」


「お嬢様。どうかお待ちを......」



 老人は常づね思案していた。

 引き込まれたお嬢の腕はどこに行ったのか?と。



「純黒の在る場所......」



 それが老人の導き出した答えだった。

 彼女の痛む腕を見つめ続けた日々と、老兵として培った直感がそう告げていた。


 幾度も外れた、当てのない経験の数々。

 しかし今となっては、その頼りない経験にすがるしかない状況にまで達していた。



「......純黒の顔料を。お嬢様の『絵』のために。」



 老人は固く封じられた紙切れの封を、少し強引にこじ開けた。

 そこに姿を現したのは、信じられないほどの黒色に染まった紙切れだった。



「これは......穴。」



 紙切れを掴み、老兵は全てを理解した。

 黒く塗りつぶされた紙切れは『穴』という扱いになったのだ。


 そして、自分の体が少しずつ変化していくのを感じた。

 外見に変わりはない。


 しかし、内側からじわじわと何か別の存在に置き換わっていくのを感じ取った。

 手を放しても、変化は止まらない。



「なれば......これを隠さなくては。」



 後から彼女が追いかけてくる可能性は高い。

 しかし紙切れを完全に処分すれば、帰り道を失う可能性もある。



「......15分。いえ999秒。」



 既に紙切れを隠した老兵は、触れてからの時間を計測していた。


 999秒後、老人の肉体は急速に暗黒に飲み込まれていった。

 口が潰れていく最期の瞬間、彼はかすかに呟いた。


「お嬢様。しばし暇を.....」



 恐れはある。


 不安もある。


 甘えも、迷いもある。


 しかし、それらを全て背負って進む意思が.......老兵にはあった。






 ――翌朝――



「爺?爺やどこ?」



 そこに在ったのは……爺やの形をした暗黒だった。

 彼女は一瞬にして全てを悟った……そして、不幸にも悟らされてしまった。



「どうして......私、爺やが何でも良かったのに......」



 爺やの形をした暗黒は、無言のまま佇んでいた。



「どうして......どうして......」



 彼女はひたすらそれを繰り返すほかなかった。

 悲しみなどではない......ただ底なしの喪失感の中で。



「そうか......」



 弱者にとって......時に死は救いだ。

 地獄から抜け出すための、最も楽な逃げ道になりうる。


 彼女は死の覚悟を決めた自身は、多少なりとも強いと思っていた。

 しかし気付く......自分を抗う強さがないだけの『敗者』なのだと。


 老兵は違った......同じ弱者であるが『敗者』ではなかった。

 老人は折れていないのだから。



「返事をして......私の傍で......爺や。」




 冬の冷たい風のだけが、彼女に音をもたらした。



 冷酷な冬の寒さが、彼女の身体と心を急激に冷やす。



 生きる気力も......死ぬ覚悟も失った彼女はひたすら震える。

 逃れようのない、抗いようのない恐怖に苛まれながら......



 お嬢には......抗えぬ死に抵抗する意思の強さは......無かった。







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果ての灰者 G.なぎさ @nagisakgp

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