第5話 微笑まぬ世界







 それから数回、あの女性は再び絵を買いに来た。

 腕のことを話すと、なぜか彼女は「ごめんなさい」と謝罪をした。


 突如として、億を超える収入を得た彼女と老人は、以前の家から離れ、新しいアトリエを構えた。

 不気味がられながらも、何とか生計を立てる日々が続いた。



「……不気味ね。」


「そうですな。」


「ここまで上手くいくのは不自然よ。まるで、後から来る絶望を強めるための前座みたいに感じる。」


「左様ですな。わしも、そのような気配を感じまする。」





 

 ――――そして数か月後……その予感は的中した。


 家に押し入った強盗によって、少女の両足は無惨にも奪われた。

 犯され、辱めを受け、同じ時、老人もまた右の眼球を潰された。


 瀕死の重傷を負いながらも、彼女は辛うじて命を繋いだが、弱り切った体は流行病に蝕まれた。

 彼女にはもう、余命わずかな日々が残されているだけだった。



「……ほんと予想通りの人生ね。ゲホッ。」


「左様ですな。」


「辛いわ。苦しい……でも耐えられる。それがまた苦痛を増幅させる。」


「左様ですか。冷静ですな。」


「生きているのよ。最悪だけは回避した。」


「そのようで。」



 しかし、お嬢は諦めなかった。

 どれほど地獄のような人生であっても、彼女は死を逃げ道とすることはなかった。


 1か月が過ぎ、彼女の体には日に日にくすんだ斑点が浮かび上がっていく。

 それでも、彼女は絵筆を止めることはなかった。



「……これもダメね。爺や、ありがとう。聖地と呼ばれる場所の土なら、中に入れる絵を描けるかと思ったけど……」


「……黒き顔料はいかがですか?」


「……ごめんなさい。実は、もう試したの。」


「……なんと。」



 お嬢の仮説はこうだった。

 前回は『絵』ではなく、黒く塗りつぶしたことが問題だったのではないか、と。


 だから、黒い顔料を使って、今度こそ『絵』を描けばいい。

 そう考え、彼女は老人に内緒でその計画を実行していた。



「絵を描き上げる間……想像を絶する地獄を味わったわ。でも、完成した『絵』の中からは、実在しない架空の物質さえ取り出せた……」


「して?」


「描いた世界の中に入ることはできなかった……私の病気が無くなる世界。私たちが運命に疎まれない世界……誰にでも平等に『冷たい』世界。」


「……さらに濃い黒の顔料が必要ですな。」


「……爺ぃや?」



 彼女は感じ取った。


 老人が、何か恐ろしい、想像を絶する『何か』を考えついていることを……。

 それを察知した彼女は、老人に釘を刺すように言葉を放った。



「……私は爺と一緒にいる。どんな地獄でも、最後のその瞬間まで。他の何も必要ない。」


「そのようで。」


「分かった? 私を生かそうとしてはダメよ?」


「承知……」



 だが……生きている限り、すれ違いは必然だ。

 それは弱き者たちであれば尚のこと。


 老人は予感していた。

 恐らくこの世界は、お嬢の最後の願いさえも奪い去るだろう、と。


 思えば、全ては必然だったのかもしれない。

 黒き顔料を手にしたその時から……。

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