第5話異国の踊り子は秘密を抱く
望まれた光ではなかった。もはやこの寂寞を埋める手立てもなく、私は大鴉の剥製に内蔵されたAI・CCのうちに、今日も言葉を残し続ける。
アップデートをすればバグが生じて故障することを免れない身は、熱を帯びて手のひらの上で温かかった。さながら命のぬくもりのように。私は静かに語りかける。もはや接続されていないAIに、言葉を伝えたところで、この世間との断絶の架け橋となることはないと知りながら。
かつて忘れがたい者がいた。彼の面影、憂いを帯びた灰色の瞳、そこにかかる同色の長い巻毛は、いつも埃っぽかったこと。シャワーが壊れたから貸してくれ、と言われたのがきっかけで、彼は私の部屋へとやってきた。
隣国からやってきた隣人、シャル・ディーネと、細々と生計を立てている文筆家である私という間柄は、シャワールームで体を重ねるたびに変質していった。それが愛だとは言わない。
「アイ、トハ、ナンデスカ」
すでに電子図書館のライブラリーへのアクセスライセンスも切れてしまっていて、CCは手元にあるジャンク品の電子辞書よりも性能が劣ってしまっている。
その品が用いられたのも、遥か昔のことで、接続を絶ったまま、数多の辞書辞典類を収め、手垢のついたワインレッドのキーボードが小さく並び、画面にはヒビが入ったそれを、私は傍に置いて幾度となく隣国の言葉を調べてきた。電池はまだかろうじて動力として使われているが、それらは防災用に備蓄するものであって、普段目にすることはない。
かつて、その電子辞書の空になった電池が、さながら薬莢のように転がるのもそのままに、机に突っ伏して眠り、合鍵を作っていたシャルが部屋に入ってくるのにも気づかないまま夜明けを迎えることもままあった。
デジタルデバイスの中のメモアプリは幾度となく処理落ちし、この日も同期できないまま3日前のログを表示させて、その中に隣国の言葉で綴った詩が何篇も連なっているのを読まれたこともあった。
CCに聞かせたことはないのに、シャルはCC相手に詩を朗読し、作曲を任せて節をつけて歌うものだから参ってしまった。歌声で目覚めて抗議の唸りを上げる私の前で、彼は歌いながら即興のダンスを踊って、その弧を描いて宙に伸びた指先は、爪先まで整って美しかった。腰まで流れる灰色の巻毛は身体の動きに合わせて、ふわりと揺れて舞った。
シャルの出自を私は詳しく知らないし、彼自身も多くを語ろうとはしなかったが、その名がこの国に迫られて改名したものであることはすぐに知れた。本名は知る由もなく、彼も語ろうとはしない。愛煙家でもある彼は、食事も取らずに濃いブラックコーヒーをサーバーから勝手に淹れて煙草を吸うのが常だった。
私はその度に彼からコーヒーの白磁のマグカップを取り上げて、オニオンコンソメスープを注ぎ直して突きつけた。食事というものに関心のない彼は、私の作るトマトリゾットに辟易とした目を向けるのだった。
「よくそんなものを食べる気になれるな」
「君がここ2日ほどコーヒーと煙草だけで過ごしているのはCCから聞いている」
シャルはCCを鷲掴みにして喰ってかかった。
「僕のバイタルデータは収集するなと言ったはずだ」
「ソレハ、不可避デス。アナタ方ノデータハ、アナタ方ノ耳ニ装着サレタLUXニヨッテ管理サレ、ソノ収集ハ、我々AIノ責務ノヒトツデス」
ワイヤレスイヤフォンのような形をしたLUXは、水濡れも衝撃にも強く、ノイズキャンセリングの役割も担っている。
その普及に当たっては聴覚の異常をきたす可能性などが指摘されたが、近年では健康上の理由からつけざるを得ない人々への配慮や、音楽のみならず、音声配信コンテンツが広がりを見せていることから、むしろ歓迎する人間が多かった。
ただしLUXには連続音声コンテンツの再生時間に限度があり、一日一時間を超えると、生体データの収集のみに活動を抑える仕組みになっている。
私はそのセキュリティに小細工を加えて、五時間ほど連続再生ができるようにしているが、このためLUXからのすべての正確な情報はCCも把握しておらず、ましてや政府にも流れていない。つまるところ私が電子図書館へのアクセス権を失っているのにはこうした背景があってのことだった。
自ら世捨て人となり、この安普請のアパートに転がり込んで、大家に時折家賃の滞納をせっつかれながら売文業をしている私の部屋には、接続を拒むようにしてうずたかく積まれた本が散乱し、その上にCCが鎮座しているのだった。そうした部屋に半ば同棲という形で入ってきたシャルは、多くを語る代わりに煙草の煙を吐き出した。
彼の愛飲するメンソールフレーバーの煙草は、依存性が高く、脳卒中のリスクを上げる、とCCが読み上げるのを横目に見ながら、窓辺でその煙草を吸い、
「それはいつの時代のデータだ?」
とからかうのがシャルの常だった。LUXをいじって細工を加えているであろうことは彼も同様であって、煙草もまたこのラルシュミールではとうに禁止されている。
隣国では戦争の混乱に乗じて、煙草が出回っているという噂を聞いてはいたものの、実際のところこうして頻繁に目にするようになったのはシャルと出会ってからのことで、その紫煙に眉をひそめたのも、今となっては懐かしい。
シャルのような流れ者は数多くこの国に辿り着いたが、十分な支援を得られることはなく、その多くが締め出され、あるいは隔離されて、おそらくここに来るまでの間に彼の肉体は毀損されてしまった、ということは、シャワールームの中で知ることとなった。
シャルの肉体の奥に、癒えぬ心の傷口があることを、私は知ることとなったが、その晩彼は食事を拒んで、煙草を二箱空けたのだった。その頬に、静かに涙が伝うのを、私は見ていることしかできなかった。そうこの国多くの人間たちと同様に。
接続を絶ってなお、私はどこまでもこのうとましい国の人間でしかないのだ、ということをまざまざと突きつけられて、その晩は彼が一向に眠る気配もなく、煙の香りが部屋に満ち、吸い殻が溜まっていく気配を、背中越しに感じていることしかできなかった。
シャルに対してかけるべき言葉を私は持たなかったし、CCもまた同様に沈黙を保った。その夜を、今なお忘れたことはない。我々の接触はしばらく途絶え、彼はその日からしばらくこの部屋を訪ねては来なかった。
隣室の物音と、LUXから流れるニュースの音声だけが饒舌で、隣国の終わらない戦禍のさまを淡々と伝えるキャスターの声に苛立ちを隠し切れず、その晩はたっぷりのシチューを作った。冬季に差し掛かろうとする晩秋のことだった。
私は鍋を抱えて隣室の扉をノックし、鍵が開けっぱなしになっていることを確かめて部屋に入り、灰皿から吸い殻がこぼれているのを目にしつつ、その横で舞う彼を見つめていた。
シャルのLUXからかすかに漏れて流れる音楽は、隣国の古典音楽だったと記憶している。私はふたたび言葉を失い、シチューの鍋を静かに木製のテーブルの上に置いた。古びた床に敷かれた絨毯を蹴ってひらりと舞い上がり、高く交錯させて花のつぼみのようになった美しい手が、やがて花開くように下ろされた、と思ったところで、彼はふたたび重力のあるこの国へと着地した。踊りに合わせて舞っていた長い巻毛が彼の身をふたたび包む。
戻ってきたくなかった、とこぼして、彼は少し伸びた髪をかきあげた。
「コンロを借りるよ、食べないのは君の勝手だなんて、私は言いたくない」
「いらないんだ。帰ってくれ」
「君の嫌いなパンはないよ」
「……」
シャルは舞踊のために纏っていた薄紫色のショールを肩から下ろして丁重にベッドに置くと、よろめきながら椅子についた。頬がこけて、青白い腕には血管が浮き出ている。この分では相応の間食べていないらしい。
私はシチューをかき混ぜて、温まったところで火から下ろし、部屋の隅に置き去りにされた器を手に取って、そこで少し動きを止めた。
隣国の伝統紋様が縁にあしらわれた皿は、その端が少し欠けていて、年季を感じさせた。銀器のスプーンは磨かれることもないまま、赤銅色に染まっており、持ち主の食事への関心のなさを物語っている。
「磨き粉はどこにある?」
「わざわざそんなことをしなくていい」
「いや、さしたるものではないが、これは君には必要な食事だ」
「……戸棚に」
その品だけ磨き抜かれた銀細工の指輪をはめた長い指が、小さな木製の棚の引き出しを指し示す。そこを開けるとぎっしりと煙草の箱が詰まった奥に、磨き粉の小瓶とくたびれたウエスがあり、私は両者を手に取ってひとしきりスプーンを磨いた。赤銅色だった表面は、やがて光沢を帯びた銀色に変わり、私はそれをシャルの前に置いて、シチューを器に注いだ。
「……具は、いらない」
私は無言で鶏肉と玉ねぎを加えて皿を差し出す。
「肉は、嫌いだ。食べ慣れないんだ」
シチューを作るという固定観念に支配されるがあまり、隣国は魚食文化であったことを失念していた。隣国には要衝となる港があり、そこも先日破壊されたと聞いていた。私は慎重に肉を取り除き、玉ねぎのみが入ったシチューを差し出す。
「……」
シャルは静かに磨かれたスプーンを手に、シチューを掬って口に運んだ。ゆっくりと一口含み、やがてもうひと匙シチューへとスプーンが沈むのをじっと見つめる。
「CCはどうしたんだ。いつも一緒なんだろう?」
「あいつには席を外してもらった。LUXも接続を切ってる」
彼はスプーンを置き、その巻毛に隠れた耳からLUXを取り外した。
「こいつは、ずっと前に手に入れたダミーなんだ。一部の機能はLUXと同じく作動するけども、その大部分は無効化している。ある程度は誤魔化しが効くが、CCにも見破られてもおかしくない代物だったから黙っていた」
「しかし、それでは君は……この国にいられなくなってしまう」
「僕はそもそも流れ者に過ぎない。故郷はあの有様で戻れそうもない。これ以上ここに留まる理由もない」
「私に止める資格などないが……、しかしその身では保たない。せめてしばらく休んだ方がいい」
「この国に休める場なんてどこにもない。僕の魂はとうに殺されて、肉体ばかりが息をしているのを煙草で生き繋いでいるに過ぎない」
「踊りは?」
「投げ銭を得る程度の役には立つんだろうよ」
「その身でどこに行くんだ。君の魂はたしかにもうすでに死んでいるかもしれないが、さらに殺されに行くようなものじゃないか」
「きみの詩は悪くなかった。それだけは伝えておく」
シャルは椅子を引いて立ち上がろうとしたが、その痩せ細った身は、すぐに立ちくらみを起こして傾きかける。心身を削り、癒えぬ身をさらに自ら損なおうとする姿が痛ましかった。
「待ってくれ、私はみすみす君がこれ以上傷つけられることは看過できない」
私はLUXを耳から外し、警告音が鳴り響く中、隣人の手を取った。
「魚が美味いところに行こう。この先出会えるかもしれない」
「CCはどうするんだ?」
「あいつとはここでお別れだ。アンティークというものは、元々預かり物に過ぎない。あいつにはまた別の主が見つかるはずだ。そして私たちも新たな安寧を見つけなくてはならない。今夜発とう」
「路銀はないぞ」
「君だけに舞わせるつもりはないよ。リュシーヌを持っていく。昔、土産に買ったものだ」
それは隣国の伝統楽器である弦楽器だった。郷愁を感じさせる柔らかな音色が特徴的な品で、ボディには隣国の象徴的なモティーフでもあり、シャルの纏うショールと同じ色の花をつけるフィリナの紋様が刻まれているものだった。
「弾けるのか」
「ある程度ならね。あとは君が教えてくれ」
「……シャワーを、浴びたい。傷に、触れてほしい。きみだけなら、許してもいい」
「やさしくするよ。銀のスプーンを磨いたみたいに」
「これは祖母の形見の品だった」
「それじゃ、ますます丁重に扱わないとな」
私はベッドに置かれたショールを手に取って、シャルの灰色の巻毛をヴェールのように覆った。ゆっくりとその痩せ細って軽い身を抱え上げ、シチューで少し濡れたくちびるに口づけを落とす。それからLUXの警告音の鳴る中、扉を開け放った。
それから先のことは、まだ書き綴ることができない。ただ私はひとりきりでこの国に戻ることとなり、ふたたびCCを携えて、LUXの管理下に厳重に置かれたまま、統制下にある文章を書いては売り捌く日々を送ることとなった。
シャルの傷の痕の感触が、まだ肉体に残っている。私は蜂の巣になり、破れたシャルのショールの端切を、彼の遺髪とともにロケットペンダントに収めて胸に下げている。
「アイ、トハ、ナンデスカ」
「それに対する答えを、もう私は持ち合わせていないよ、CC。ただお前はせめて記憶しておいてほしい。私たちの旅を、そしてリュシーヌの音色を、シャルの踊りを、それから……彼の、いや、これだけは私の秘密にしておく」
「ヒミツ、ソレハ我々ガツイゾ持チ得ナイ物カモシレマセン」
「そう、LUXにもね」
私はそっとロケットペンダントを開いて、その巻毛に指先を絡めた。
翼あるものたち 雨伽詩音 @rain_sion
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