小杉哲也の死に関する何か

桜田様。

いつもお世話になっております。

小杉哲也です。


お探しの『涅槃未知果』を発見しました。場所は都内の一軒家です。ひどく古い家です。敷地内は草だらけで、手入れの形跡がありません。隣家には人の気配が無く、静まり返っています。虫の声すらしません。


まるで死の世界です。


一軒家の玄関ドアは施錠されていましたので、窓から侵入しました。なぜか開いている窓が直感で分かったのです。室内は暗く、照明器具の電球がことごとく外されていました。


廊下を手探りで進むと、すぐに真っ暗闇になりました。さらに進むと、靴の下で何かが音を立てました。


床をなでるように拾ってみると、それは細かい粒でした。すぐに米だと分かりました。


桜田様。

いつもお世話になっております。

小杉哲也です。


この米が真っ黒に消し炭のように真っ黒に染まっている気がしてならないのです。米がたくさん落ちています。私は廊下を進みました。


誰かの吐息が耳にかかった気がするのですが、妄想でしょうか。肩が重いです。働きすぎです。私はどうしてこんなことをしているのでしょう。


明かりが見えました。半開きの扉から明かりが漏れています。黄色い光です。黄泉の国など信じません。


そこで、ここで、見つけたのです。涅槃を。涅槃未知果。


彼は執筆デスクに着いて仕事に勤しんでおりました。黄色い光は素晴らしいことに、ただのデスクライトでした。演色性というステータスの高い良いライトは黄色く光るそうです。彼の周りにはどす黒い米が散乱していました。まるでネズミのフンのようです。


彼が私を見ました。


まるで骨のようです。でも確かに、生きた人間です。ああ、私はこれに会って何がしたかったのでしょう。私は編集者なので彼の原稿を見る権利があります。彼の横に回って覗き込むと、黄色いワンピースの女が描き込まれていました。演色性の高い黄色の光に照らされた白い原稿は、すなわち黄色く見えます。


なんと美しい女性だろう。思わず言った私に、涅槃未知果は何も言わずに筆を進めます。線を何度も塗り重ね、やがて美しい女の顔が肥大し、穴だらけの蓮コラの化け物づらに変わります。私は前の顔がいいなと思いました。


桜田様。肩が重いです。ずっしりと重い。私は自分の肩に乗った手をつかみました。


振り向いた私の目の前に、美しい女性の顔がありました。涅槃未知果の原稿と同じ顔です。私は彼女に抱きつきました。ドライアイスのように凄まじく冷たい。涅槃未知果がガタガタ震え出しました。私は冷たくも柔らかい彼女の体を強く抱きしめたのです。彼女の顔から、米を踏むような音が聞こえました。


桜田様。彼女の顔に穴が空いていきます。おびただしい数の、細かく、黒い穴です。黄色い光に照らされているのに、穴は闇のように黒い。私は理解しました。この女は中山美歩とは違う。中山美歩のような人間らしい憎悪や悲しみは、毛ほども持ち合わせていないのです。即ちこの女は、人間じゃない。


美しい体と顔は、単なるエサなのです。アザバラ様。いえ、アザバラノスクナ。そういう名前の何かなのです。こいつは人間の天敵です。私は柔らかい素晴らしい抱き心地を感じながら、自分の中の何かが壊れる音を聞きました。桜田様。もう生きてお会いできないでしょう。


これにて終いです。

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