第56話 エピローグ - キヨのお守り

 橙色の布地は、ずいぶんとくたびれている。

 僕は、キヨのお守りをまじまじと見つめ、ぎゅっと握りしめた。


 キヨの父から手帳を預かった時に、実は僕はこのお守りを返そうと思っていた。

 遺品として、遺族のかたが持っていた方がいいと考えたのだ。


 キヨの父にそう話すと、


「わざわざ悪かったねぇ。聖彦は、これ、まだ持っていたのか」


 キヨの父は、愛おしそうに年季の入った布地を両手で撫でた。

 聞けば、このお守りはキヨが幼い頃から持っているものだという。


 玄関先でそんな話をしていたところ、僕は家の中に招かれた。


 キヨの父は、おもむろにお守りの紐をほどく。すると中から一枚の紙が出てきた。

 父はそれをちゃぶ台の上にそっと載せて広げてみせた。

 長年の劣化のためか、A4用紙ほどの紙の端は、崩れそうなほどに弱くなっていた。

 戸惑う僕に、


「これが聖彦のお守りなんだよ」


 そう言った。


 そこにはびっしりと文字が書き込まれていた。

 人の名前の一覧のようだった。


 拙い子供の字で、


『よしもとせんせい』

『はらださん』

『まゆみさん』

『きしたにおばさん』

『二かいのおじいさんのおくさん』


 などと書かれている。

 リストの一番上には『おかあさん』とあった。


「これは……」一体何だろう。

 僕はじっとそれを見つめた。


「森沢くん、聖彦が幼少期に大病を患ったことは知ってるかい?」


「はい、少しだけ……」


「これは、聖彦が入院中に書いたものなんだよ」


「入院中に……?」


「聖彦は半年ほど入院していたんだけど、三階の病室から駐車場が見えてね。聖彦はそこから人々の姿を眺めていたんだ」


 父は懐かしそうに目を細める。


「この紙は、聖彦が見た人たちの名前なんだ。あの子は毎日、窓の外を眺めては、この紙に名前を書き込んでいた」


 父は優しく紙を撫でる。

 よく見ると、名前の横に丸がついているのに気がついた。


「この丸は……?」


「ああ、それはね。聖彦がその人を見かけたら丸をつけていたんだ。出席簿みたいにね」


 病院の担当医師が出勤する様子を見つけたら『よしもとせんせい』の右にマルを、担当看護師が見えたら『はらださん』の右にマルを書く、といった具合らしい。

 出勤してくる人のマルは、必然的にずらっと連続していく。


「どうしてそんなことを?」


 父の目は、遠い記憶を手繰り寄せるような懐かしさが宿っていた。しわの刻まれた顔に苦笑が浮かぶ。


「母親を待っていたんだ……」声にかすかな苦さが混じっていた。


「恥ずかしながら、聖彦の母は、あまり家庭を顧みないタイプでね……、彼女は、息子が入院する前から、家を出ていたんだ。別の男性と……」


 父は、静かに目を伏せる。


「でもそれを聖彦は知らなかった。知らずに、毎日、母親が来るのを待っていたんだ。駅から駐車場を横切ってくる人々を、一日中見てたよ」


 幼いキヨの姿を想像すると、胸が痛んだ。

 僕は改めてリストを見てハッとする。

『おかあさん』と書かれた欄のずっと右に、一つだけマルがついていた。

 真っ黒なボーリング玉のようなマル。鉛筆で、穴が空くほど何重も円を重ねて描いたような力強いマル。


「ええ……。彼女はたった一日だけ聖彦を見舞ってくれた。私が何度も頼み込んだんだ。一度でいいから息子を見舞ってやってくれと。

 やがて彼女は来てくれた。聖彦の喜びようったらそれはもう……」父の声がかすれた。


「だけどね、その数日後……、彼女は交通事故で亡くなってしまった。酔っ払い運転の車に轢かれてね……」


 父は小さく嘆息した。


「どうしてだろうねぇ……。そんなことって」


 それでもキヨは母を待ち続けたという。退院するまで、毎日窓の外を見続けた。

 幼い彼が事故をどう捉えたのか、母の死を受け入れられたのか、それは分からない。


『おかあさん』以外の人にマルはたくさんついた。

 だけど母はもう彼の病室にやってくることはなかった。


 それでも待ち続けた。

 彼はずっと窓に張り付いていた。

 はるか遠くに医者の姿を見かけたその一瞬で『よしもとせんせい』の右にマルを書いた。

 いつしかキヨは、人の歩き方だけでそれが誰かを一瞬で識別できるようになっていたという。


「森沢くん、息子は幽霊とかそういう話が好きだっただろう?」


 キヨの父が柔らかく笑う。


「あの子はね、母親の存在を信じたかったのかもしれない……。母は幽霊という存在になって、自分のことを見守ってくれていると思いたかったのかもしれない」


 キヨがこの用紙を、お守りとして大切にしていることが、少しだけ理解できた気がした。

 遍路の前に僕に託してくれた意味を思うと、胸に熱いものが込み上げてくる。

 彼は僕に最も大事な魂を託したのかもしれない。

 鼻の奥がツンとした。


 そんな僕の様子を見た父が、キヨの用紙を丁寧に畳んで、お守りの中に再び収納した。


「これは君が持っている方がいいだろう」そう笑った。


 僕は、キヨの能力は先天的なものだと考えていた。いわゆる、神様からの贈り物のような。

 だけど彼の父の話を聞いて、それは違うかもしれないと思い直した。


 きっとキヨは、あの能力を努力によって獲得したのだ。

 努力と言うには少し違うかもしれないが、お母さんに会いたいという想い、もしくは執念が、自然と歩行パターンを識別する才能に昇華されていったに違いない。

 僕はそう信じている。



 キヨの家を出ると、夕暮れの空が目に入った。オレンジ色に染まった雲が、ゆっくりと流れていく。


 ふと、遠くから、スーパーの袋を下げた女性が歩いてきた。僕の前を通り過ぎる。


 その人の歩き姿をそっと横目で追ってみる。

 足の運び方、腕の振り方、体の傾き、骨格。キヨなら、この人の歩き方の特徴を一瞬でインプットするのだろう。

 でも僕には、やっぱりただ普通に歩く人にしか見えない。歩行パターンどころか、その人の顔すら、通り過ぎた後ではもう記憶から消え去っている。

 自分のごくごく普通の感性に、思わず苦笑いを浮かべる。


 ポケットの中のお守りに手を触れる。

 布地の質感を指先で確かめながら、夕日に向かって歩き出した。


<了>

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