3:責任

「蛇呑先生、薬丸のお兄様。」


 音湖の声が震えた。

 頭が、最悪だと、あり得ないと訴えてぐるぐる回る。

 

「神御成、一旦横に、」


 音湖を気遣ってそう言いかけた薬丸を静止し、被せるように口を開く。


「まさか。まさか、お姫様が亡くなったことが、世界が滅びかけた理由だ、なんて、仰いませんよね!?」


 音湖が震える声で叫んだ。


「そんなこと、いくらなんでもそんな、そんな大事にはならないでしょう?きっと、そうです、大丈夫なはず。きっと、きっと。」


 必死に息を吸い込んで、音湖は自分自身を落ち着かせるためだけにそう繰り返した。


「音湖さん、一旦落ち着こう。息を吐く方に集中してごらん。大丈夫だから。」


 蛇呑の声が一層優しくなって、背中のあたりが温くさすられる。

 音湖は、自分が生きているんだか死んでいるんだか、はたまた卵になったんだか分からないような気分だった。瞬きすれば零れ落ちて止まらなくなりそうな右目からの涙を、必死にこらえる。

 少しだって信じたくないが、一方で、そうなんだろうな、と確信めいた思いがあった。


「まさか、まさか、神御成のミスが、大失態が、世界をおかしくしたの?それで、それでここねは……!?」


 最悪だ、と思った。

 最悪だ。最悪だ。最悪だ。

 息がひきつって、心臓が暴れる。

 服がくしゃくしゃになってくっきりと跡がついてしまうほどに、音湖は胸のあたりをぎゅっと掴んだ。

 神御成家なら十分あり得る話だった。いつも詰めが甘く、気づいたときには取り返しがつかないあの家ならば。

 でももしそうだとしたら、音湖はもう自分を許せない。許せない。


 音湖の脳裏でフラッシュバックして、止まらない光景がある。


 あの少し涼しい夏の夕暮れ、点滅する信号。横断歩道の向こう側、元気に手を振る志津丘心猫しづおかここねに、手を振り返した次の瞬間のことだ。

 ここねの身体がふわりと宙に浮いて、間髪入れずコンクリートの地面に叩きつけられた。

 道路が大きく抉れる。ほんの十数センチ浮かんだだけだというのに、まるで超高層ビルの屋上から飛び降りたかのような音と、速度と、衝撃。

 だというのに、ここねからは血の一滴も零れず、身体はどこまでも綺麗なまま、二度と目を開かなかった。


 覚えているのは赤色だった。燃えるような赤。あるいは、それ以外の景色の異様な無彩色さ。ここねのセーラー服の赤いリボンと、それから赤に変わった信号だけが、酷く鮮やかで。

 何が起こったのか、考える必要もなくすぐに分かった。よく知っていた。そこら中で頻発している事件だったから。


 志津丘心猫は、人ならざるものの力でその命を奪われた。


 珍しい話ではなかった。

 ここねのように唐突に地に叩きつけられる以外にも、急に土の中に転移したり、何かに憑かれて発狂したり、身体の一部が人以外の生物に変化して、そのまま二度と目覚めなかったり。

 よくあった。日常だった。

 

 それでも音湖はここねだけは大丈夫だろうと思っていた。

 単に慢心していたわけではない、現実から目を背けていたわけでもない、お守りを、渡していたから。


 神御成音湖は名門神御成家の跡継ぎだ。

 魔の手を退けるお守りを売ることも家業の一つであったし、音湖自身も守護の御札やお守りの作成には自信があった。


 後でわかったこと、音湖が心猫に送った夕焼け色のお守りは、その日ここねが音湖にかけてくれたカーディガンの、ポケットに入っていた。


「これ着て帰りなよ。もう日も落ちるし、もっと涼しくなるからさ。」


 思い出す。


「音湖は寒がりだねー。私が上着持ってて良かった!」


 思い出す。


 音湖が生まれる少し前の世代では、そんな事件は滅多に起こらなかったという。

 だから音湖は世界を恨んだ。もしもここねと音湖がもう五十年早く生まれていたなら、ここねがあんな終わり方をすることはなかったのだから。

 その恨むべき世界が、神御成の失態から生じたものであるならば、それはもう、それはもう。

 志津丘心猫を殺したのは、神御成音湖自身なのではないか。音湖はどうしても、そんな風に……。


 静寂。


 ふいに、音湖は打って変わって落ち着いた溜息をついた。

 動揺して、思考がどうにも極端になっていた。

 音湖自身にどうこうできたことではない。カーディガンのことは悔やんでも悔やみきれないが、世界のことまで責任を感じたって辛くなるだけなのだ。

 神御成家の次期当主として、常に冷静であるようにと鍛えられていたのが、遅効性の薬のように効いてくる。

 湧き上がった強い嫌悪と悲しみと後悔がある一点を越えたらしく、今度は急に身体が冷めていく。

 そういう教育を受けた。今だけは神御成家に感謝したい。

 筋とか、常識とか、そういうのがどうでも良くなる程に、何かを恨みたがっていた自分がいた。冷静な頭で、そう気づいた。

 

「お見苦しいところをお見せしました、もう大丈夫です。」


 もう声は震えない。ただ、酷く身体が怠かった。




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