5:『元』人間
「は……?」
音湖の喉から、目の荒い箒で床を掃いたときのような酷く掠れた声が漏れた。
今、蛇呑はなんと言った?
「人類が……滅んだ、と、仰いましたか?」
「うん。人類だけじゃなくて、生き物もね。動物も植物も、みーんないなくなっちゃったんだよ、千年と少し前に。微生物とかのあたりは、ちょっと分かんないけど。」
いっそ不謹慎なほどの明るいトーンで、蛇呑が生物絶滅宣言を繰り広げる。
動物も、植物も、皆いなくなった。
しかも、千年以上も前に。
「待って、待ってください。じゃあ今は一旦何年だというのですか?私は、千年間ずっと眠っていたと?」
音湖が取り乱す。生まれてこの方、こんなに取り乱し続けるのは今日が初めてかもしれない。
受け止められない情報の数々に、動揺を隠しきれない時間が続く。どうにかしようと深呼吸して、努めて声のトーンを落ち着かせた。
「今はちょうど
「最後の生き物が滅んだタイミングに関しては、正確なことは分かってないんだけどね。人類が滅んだ年は大体分かってて、
値があまりにも大きくて、吹雪出した冬景色のように視界がすーっと白く染まって気が遠くなる。
あの日から千二百年が経っている。人類が滅んだのも、それから十年経つか経たないかのあたり。
何があったというのだろう。
確かに音湖が覚えている範囲でも諸々とんでもなかったが、それでも、社会システムは生きていたし、ある一定の生活水準は保たれていた。
それが、僅か十年で滅びきったという。信じられない。
「そんな、ことが、あり得るのですか。」
肺に溜まった空気を押し出すように呟いて、音湖は静かに顔を覆った。
手が小刻みに震えている。情報の重さが、多さが、許容量を遥かに超えていて、喉の奥から瞳の奥から、溢れ出しそうだ。
「じゃあ、もう皆いないというのですね。家の皆も、クラスの皆もー」
お父様も。
音湖は、属していた神御成学園高等部二年一組の面々のことを思い出した。
高等部では三年間クラス替えがない。二年間ずっと一緒に過ごしたクラスメイトはかけがえのない友人であったし、音湖はクラス委員長を務めていたのもあり、クラスの誰とでもある程度仲が良かった。
その誰にも、音湖は自身のたくらみを明かさないままここに来てしまった。皆の笑顔が脳裏にちらつく。
「いや、そんなことはない。確かに人類の殆どは既にいないが、神御成のクラスメイトは皆いる。」
頭の中にまた新たなクエスチョンマークが浮かんで、音湖はガバと顔を上げる。
皆いるから、そこは安心していいぞ、と薬丸が笑う。
何がどうなっていて、誰がどこで何をして私は誰でここはどこだ?
いよいよ収集がつかなくなりだした音湖の脳内を察したように、蛇呑がよーし、と楽しげなトーンで切り出す。
「気になることがいっぱいだと思うけど、とりあえず最低限知るべき内容を列挙するから、一旦聞いていてね。」
音湖がコクコクと素早く頷くと、薬丸は右手の人差し指を立てて、数字の一を表現してみせた。
「一つ目!生物は千年以上前に滅びました。」
今度はゆっくりと頷いて、続きを促す。
千百年以上前のことを千年とまとめてしまっているあたり、何となく、蛇呑はもう随分と長いこと生きているのではないかと感じられた。
「二つ目!今この地球上には二種類の元人間がいます。一つは僕らみたいな二つお願いごとをしちゃった
今はとりあえず聞いていて。と、蛇呑が重ねる。
音湖のような殻になった人間を、卵殻者、と呼んでいるらしい。
元人間、という言い方も気になった。
確かに、皮膚が殻のように割れて内側に己の血肉でない別の何かがある、それはもう人間ではないのかもしれない、と、思う。
人ならざるもののことを、音湖は恨んでいた。自分自身がまさしく
時々現れる正規の『機械』適用者というのは、ちゃんと一つを願って消失した人間のことだろう。願いの規模や本人の適性によって、再出現して願いが成就するまでの時間はまちまちだったはずだから、相当な時差をもって現れる者がいるのだろう。それより。
もう一つ、が、あまりに気になる。しかしとにかく、今は言うことに従うことにした。
仮にもここは高校で、音湖は生徒、蛇呑は先生だし。
「三つ目!うちのクラス、つまり二年一組の生徒は全員卵殻者になってて、既に目覚めてる。音湖さんが一番最後だよ。薬丸くんのクラスも全員目覚めてて、教員もチラホラと。」
「少し付け加えると、神御成学園高等部の二年一組と三年一組以外の生徒は今のところ一人も目覚めていない。何故クラス単位で卵殻者なのかは、今のところ不明だ。」
心当たりが少しあった。
神御成学園はその名の通り、神御成傘下の教育機関だ。音湖は実家通学だったが、生徒の大多数は寮生である。
もし、神御成家が一人分の命で複数の願いを叶える方法を探していたとしたら、親元を離れた子供たちは格好の餌食だったのではないかと、そういう風に思えた。
「もしかして、生徒達の大多数は、戦闘に優れた何かを願って……いえ、願われて卵殻者になったのではありませんか?あるいは、祈りや、術式。」
音湖が感情を読み取らせない平坦な声音で尋ねると、薬丸がそれを肯定した。
「ああ。だから、役立っている。」
であればやはり、神御成家の企みだろう。世界を週末から救うこと。対処のしようのない人ならざるものを打ち倒すこと。それが父の、当主の願いであったから。
どういう感情になればよいか分からない。申し訳ないと思うべきだろうが、今、ここに皆がいるという喜びもあって、身勝手だ。
そこまで考えて、少し遅れて追いついてきた疑問がある。
役立っている、とは、どういう意味だろうか?
順当に考えるなら人ならざるものと今も戦い続けているということだが、念の為確認したい。
瞬時に問おうと息を吸い込むと、言わせまいとの気概で蛇呑が割り込んでくる。先に割り込んだのはこちらなので、文句は言えない。
「四つ目!基本的にこの殻は、どんなに割れても二十パーセント程度。それ以降はどれだけ叩いても多少痛いだけ、ついでにいうと今のところ不老不死。皆ね。」
不老不死。なんということだ。
とんでもない情報だが、もはや動揺しない。割れない殻を、傷つかない殻を見て、そんな気がしていた。
「五つ目!所謂化け物、怪異とかおばけとか神仏の類とかそういう人ならざるものは、卵殻者が能力として操っている場合を除いてもうどこにもいない。」
ああ、いないのか、どこにも。
あの子を奪った理不尽は、もう、どこにも。
拍子抜けして、溜息をついて、そのまま勢いよく吸い込んだ。
だとしたら、先程の薬丸の発言はなんだというのだろう。
「六つ目!これがさっき保留したもう一つの元人間の話で、能力が何に役立つかの話にもなってくる。」
蛇呑が一転して神妙な顔をするから、思わず音湖も姿勢を正す。
少し怖いような気もした。知りたい思いのほうが強いので問題はないが。
「『機械』の禁忌、覚えてるよね。僕らが破った方じゃない、もう一つの禁忌。生物を願っちゃいけないんだ。」
音湖は頷く。
一つ目の禁忌は二つを願うことで、それを破ると未来で再出現して卵殻者になることは分かった。
そう考えると当たり前か。もう一方の禁忌を辿ったパターンもあるはずだ。
「音湖さんみたいに、ダブル禁忌破りは正直初めてなんだけど。見たところ、両方に違反した場合は二つを破った場合でカウントされるのかな。それとも、生物側が殻の内側にあるからってこと?だとしたら運が良い。」
話の内容から、トーンから察せられるだけでも、明るい話題ではないことは分かった。
生物を願った、あるいは願われた人間。その、末路。
「生物を願う禁忌に触れて、『機械』に弾き返されず実行はできちゃう場合っていうのが、故人を願ったときなんだよね。それ以外はそもそもエラー。で、あの頃は故人を願うと消失するって話だったけど、実際は、ずっと未来で再出現する。」
つまり、今、再出現している者がいるということだろう。音湖が賭けたのもちょうどそこだった。単に消失するのではなく遥か未来まで再出現がないだけではないかと踏んでいたのだ。
「再出現して殻が割れきると、故人が全盛期の姿で現れる。でも、姿だけ。心は元の状態では戻ってこない。具体的にはー」
パリン。
蛇呑がそこまで言ったとき、鋭く耳を裂く音がして、音湖のちょうど右側、すぐそこにあった硝子窓が割れ散った。
思わず腕を翳して破片から身を守り、それからはっとして、小麦色の肌に傷がつかなかったか確認する。
音湖の殻の割れた部分を硝子が直撃するのを確かに見た、見たというのに、ここねの肌には傷一つついていない。
ほっとした。怪我をしないというのは、どうやら殻の内側にも適用されるらしい。
音湖は破れ窓の外を覗いた。
破片をまるで気にせず、いつの間にか薬丸がベッドに身を乗り出して外を見ている。小さな声で、低く唸るのが聞こえた。
「蛇呑先生!薬丸委員長!」
保健室のドアが勢いよく開く音がして、誰か、少女の声が聞こえた。
「
声の主は、三年生の生徒らしかった。おそらくは薬丸のクラスメイトだろう。
成り損ないとやらが何なのかは大方推察できた。先程話に出てきた、故人を願った元人間。
「ああ、分かった、すぐに行く。先生も。」
「うん。」
二人が何の準備もせず駆け出していくものだから、音湖は呆気にとられてしまう。
部屋を出る直前、蛇呑が音湖の方を振り返って言った。
「音湖さん。多分、見たほうが早い。でも、決して気分の良いものじゃない。今からやるのは、見方によってはただの殺人だ。だから、見なくても構わない。」
それだけ言うと、蛇呑は薬丸の後を追って走っていく。
ただの殺人。
ああ、卵殻者でない方の元人間は、殺されるのか。
心臓がバクバクと鳴って、酷い恐怖と、動揺とでめちゃくちゃな神御成音湖は、それも仕方がないな、と、思った。
窓の外に見える、黒髪ボブカットの少女は、まるで獣のように駆けずり回っている。
手当たり次第に見えるもの全てを攻撃しているようで、焦点の合わない瞳は尋常ではない様子だ。意思を、知性をまるで感じない。暴走、破壊衝動、そんな言葉で表すのが相応しく思える。
それが、どんなに良く見ようとしてもただの化け物にしか見えなかったから、音湖は、一人足を抱えた。
「怖い、なぁ……」
もう隠しきれない震えを、一人きりなのを良いことに呼吸とともに受け入れる。
それから、ごめんなさい、と呟いた。
成り損ないと呼ばれた少女の姿が、ここねに重なって見えて、たまらなかった。
※このお話は、小説家になろうにも投稿しております
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