卵殻はいつか剥がれて

@ior1ori

プロローグ:神御成音湖は割り切れない

 勝った。

 開いた瞼に飛び込んでくる薄緑色の天井が、見知ったものだと気づくその前に、神御成音湖かみなりおとこはそう確信した。


 目覚めたてには酷なほどに心臓がバクンバクンと鳴って、痛い。だが気分が良かった。これはポジティブな興奮だ。

 右手をぎゅっと握りしめる。質の良いシーツは滑らかで冷たい。脳の奥のほうで温度が僅かに下がって、冷静さの戻って来る気配があった。

 あの日。自分はもう二度と目覚めないかもしれない、音湖は本気でそう考えていた。父の、当主の、あのくだらない願いの代償に使われて、何もかもが終わるところだった。そうなる可能性の方が、ずっと、ずっと、高かったはずだ。

 だが今、意識がある、身体が動く。音湖の賭け事は、現時点で確実に半分成功している。


 ではもう半分は?


 徐々に覚醒する意識がそう問いかけて、喉の奥がギュンと締まる。今度の鼓動は明確に嫌な早撃ちで、それが呼吸を巻き込むから、酸素が遠のいて、頭も胸も何もかも痛む。

 賭けに半分だけ勝ったって、何の意味もない。大事なのは、大切なのは、この命よりも人生よりも重要なのは、もう半分の方だから。

 うまく動かない腕を無理矢理掲げて、音湖は、ベッドのフレームに向かって勢いよく振り下ろした。



 カシャ。



 あるいは、クシャ、みたいな音がした。気の抜ける音。知っている音。卵の割れる音。

 それが肌の割れる音であることを、音湖は知っていた。腕の皮膚が殻のようにひび割れて、剥がれて、その内側から別の皮膚が覗く。

 部屋の中で本を読んで、外に出るときは日傘に日焼け止めを欠かさなかった音湖の、色の薄い肌とは違う。

 外で駆け回って、日焼け対策には少し、というかかなり無頓着だからいつも小麦色の肌の、あの子、あの子、あの子。


 音湖は再び腕を振り上げて、まだ『殻』のついた部分を何度もベッドフレームに打ち付ける。

 打ち付ける度にヒビが入って、少し古くなった朝食のゆで卵のように、殻はつるつると剥がれた。初めの方は。

 

 右の手のひらの殻は綺麗に剥げて、内側の小麦の手があらわになった。左手の人差し指で触れてみると、音湖のひんやりとして脈のない肌とは違い、ぷにぷにとしていて、温もりがある。

 思わず涙が溢れた。触れた感触だけがあって、触られた感覚は、音湖の脳には欠片も伝わってこない。

 ぽた、ぽたり、と滴が零れるのに構わないまま、右手首の方の殻も剥がしていく。つるり、つるりと殻が剥げて、胸のあたりに降り注いだ。


 つる、つるり、ぽた、ぽた。


 パリ、パリ、パリ。


 そうしてしばらくして、まだ肘に届かない辺りで、カリ、カリ、に、変わった。



 上手くいかない。殻が上手に剥がれない。左手の指で殻を剥がそうと試みたが、薄くて脆いはずのそれが、ピクリともしない。


「どうしてっ……!」


 胸が早鐘を打つ。息が上がって、パニックを起こしたように思考がぐちゃぐちゃと乱れて止まらない。

 汗の一つもかいていないはずなのに、焦りが左手を滑らせる。

 苛立ちで左のこめかみから瞳にかけての辺りを思わずぐっと掴む、あるいは押さえる。


 カシャ。クシャ。


 手のひらのその内で、殻の割れる音が鳴った。

 左手に力を込める。

 求めていた音がした。皮膚の崩壊して、内側のあの子がまた少し外に出る音が。ああ、どうかもっと、もっと。


 剥げた殻がパラパラと落ちる。その内側はやはり温かい。柔らかい。

 怯えた子どものように恐る恐る表面をなぞる。強く触れると、どくん、どくんと脈打った。ぽろぽろ流れていた涙がぼたぼたに変わる。ああ、生きている。震える手を上にずらすと毛の感触があった。長くて、細くて、それは触り慣れたあの子のまつげだ。

 更に指を動かす。ほんの少しの段差の向こう、ぬるりとしたような触り心地。

 はっとして手を引っ込める。この感触は確実に瞳だ。眼球だ。

 思わず口角が上がる。音湖の心臓が、今日は忙しいですねと一層脈打ってまた、痛い、痛い。


 音湖は両の手のひらを握りしめた。小麦色の右手も色の薄い左手も、音湖の意思で同じように動作する。しかし皮膚……もしくは殻に爪が食い込む感触は、やはり左手にしか感じない。そしてそれだけ力を入れても、左手の殻が少しもひび割れない。

 素敵な確信と、最悪の予感が入り混じって気分が悪かった。二つ目の賭けが、百パーセントの成功ではない、そう感じさせる全てを、どうにか頭から追い出したくて、堪らない。


 努めて、呼吸を落ち着かせる。


 左目の下にある感覚のない『新たな皮膚』は、文字通り音湖の皮膚の内側に、音湖でない誰かがいることを示していた。

 それが誰だかは知っている、分かっている。他でもない音湖が願ったのだから。

 あの子だ。

 あの子、あの子、志津丘心猫しづおかここね

 音湖が世界一愛していた、愛している、同い年の女の子。


「ここね……。」


 震える声で呟く。

 あの子を取り戻すために、ただそれだけのために音湖はなった。

 魔法の『機械』があったのだ。一人の命と引き換えに、人一人を眠れる殻に変えてしまう変わりに、ルール内ならどんな願いでも叶えてくれるらしい機械が。

 大人たちが狂ったように執着し、神御成家の当主で優秀な霊術師であった父すら虜にしたその『機械』を、音湖は正しい方法では使わなかった。

 やってはいけない、と聞かされた方法を利用して、ゲームでバグを利用するように、あるいは本来想定されていなかった方法でステージをクリアするように、音湖は自分の願いを叶えようとした。

 それが正しかったのかどうかなど、知らない。というかきっと間違っていた。ただ、ただ、無我夢中。音湖にとってそれは、唯一無二の選択肢だったから。

 事実、ずっと前にあの世に逝ったはずのあの子が、彼女が今、音湖の肌を模した殻の内側で脈打っている。

 問題は……。


 またカリ、カリと右腕を掻く。

 ところどころ殻が剥げて、けれどそれは今度は新鮮な卵のように妙に剥がれづらくて、そしてやがて欠片も剥けなくなってしまう。

 

(この皮膚の内側に、ここねはいる、確実に。でも殻が上手く剥がれないのは何故?)


 音湖は震える呼吸で溜息をつく。


(始めに右手を割ったけど、そのうち殻が剥がれなくなった。その後に左顔面。こっちも同じ。それから、左手を握りしめてもヒビが入らなかった。足は…。)


 誰かがかけてくれたのだろう白くて肌触りに良い掛け布団を剥いで、ズボンを捲し上げ、現れた右のふくらはぎを思い切り叩く。


「痛っ……。」


 ただ、ただ、痛いだけ。

 そこにヒビの姿はない。

 痛いのを我慢して何度も叩く。

 割れない、割れない、割れない。


(どうして割れないの?おかしい、おかしい、段々剥けなくなってきてる。それとも、まさか、まさか。)


 ふくらはぎを叩いていた手が止まり、宙に漂う。

 右の手も左の手もゆらゆら漂ったあと、やがて口の前で止まった。


「ああ…………っ!」


 言葉になりきらない叫びが、金切り声が、音湖の喉から飛び出した。

 あり得ない。最悪だ。こんなの、こんなの、許容できない。

 音湖の呼吸は乱れに乱れて、もはや息と呼べるのかすら分からなかった。

 首をブンブン横に振って、幼子のようにいやだ、いやだと駄々をこねて泣きじゃくる。

 それは最悪の予想だった。予感だった。


(もし、もしも、この殻の全部を割ることが、不可能なら。)


 ここねを覆う無意味な卵殻を、一部ならともかく八割以上も、剥がしきることが不可能なのだとしたら。

 もし、そうならば。


(ここねの全部が外側に出てくることは、まさか、まさか。)


 あり得ないのではないか。不可能なのではないか。

 音湖は再び金切り声を上げた。

 音湖はずっと音湖のまま、このままあり続けて、その内側のあの子はずっと眠ったまま、音湖の内側で、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。

 今度こそ両手で顔を覆った。

 最悪だった。最悪だった。

 賭けは失敗だったのだ。

 音湖の考えは間違っていた。誤っていた。ただでさえここねの意思も問わぬまま決行したというのに、それなのに、ここねを内側に閉じ込めたまま、己の身勝手で、あの世で眠るはずのあの子を、こんな場所に!

 例え確実にあの子がここにいて、ドクンドクンと脈打っていたとしても、そんなことはどうでも良い、音湖はただもう一度、あの声が聞きたかっただけなのに。

 そのためならば、そのためならばと、音湖は、本気で、ずっと……。


「かえしてよ……。」


 声にならないほどの弱い息で、音湖はそう懇願した。

 泣きじゃくって、泣きじゃくって、それから苛立ちのままに、吐き出してしまいそうな心臓のままに、左手を高く振り上げた。

 それで、振り下ろす。無意味なことだった。



※この作品は、小説家になろうにも投稿しています

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