1話:跡取り二人
「おはよう、
右上から声が降ってきた。
唐突に左手が掴まれて、動きの一切を止められる。
あと少しでベッドフレームに打ち付けられるはずだった手が、力強く掴まれたまま宙で静止した。
「痛いだけだから、止めておこう。な?」
何もかも見透かしたようにそう言われて、音湖は恐る恐る顔を上げる。
緑がかった黒髪、襟足の長い短髪、黒縁メガネ、明るい土色の瞳、右目の涙ぼくろ、それと長身。見知った男が立っていた。
どうしてここに、音湖はそう思った。でも声には出さない。それを問えば、確実に己の事情も話さねばならないだろうから。
「驚かせて悪かった。気分はどうだ?」
「……良くはない、ですね。」
絞り出すように答える。実のところ的確な表現は
「……。」
沈黙が流れる。
その男……
痛いだけ、と、言われた。であればやはり、この殻の全てが割れないのは共通の事実なのかもしれない。
今すぐにでも詳しく聞きたいと思う一方で、どうにも気まずくて、ベッドに横たわったまま目を逸らす。なんだか罪人のような気分だった。
「殻、途中から割れなくなっただろう?」
問われて、頷く。
薬丸はなんだか曖昧な笑みを浮かべていて、それは、新入りをからかうような顔にも見えたし、哀れむような顔とも言えた。
「なあ音湖嬢、内側にいるのが誰か聞いても良いか?」
ああ、そういえばこの男は、音湖の内側から別の肌が覗くことに微塵も驚いていない。
よくあることなのかもしれない、と思った。心の何処かでホッとする。
この子は、と答えようとして、止めた。いくら相手が比較的親しい人間とはいえ、自分から情報を開示するのは抵抗があった。それから、罪悪感。怯え。そういった感情。
我ながら、用心深いというよりいっそ捻くれているような気がして、思わず苦笑いする。
「薬丸のお兄様は?」
音湖は質問に質問で返した。
薬丸の肌も、あるいは殻もところどころが割れ落ちていて、そこから、文字のような紙のようなものが覗いていた。
それが何であるか、概ね検討は付いていた。薬丸家は知識に対し貪欲であったから、概ね、知恵かなにかそういったものを、願ったのだろう、と。
「ああ、悪い。そうだな、俺から答えるべきだ。」
音湖の苦笑いを、突然の問いに対して引いているか無礼がっているか何かのように捉えたらしい、というのが伺えた。ぶっきらぼうな言葉で、しかし心底丁寧に薬丸が詫びる。
薬丸は彼の顔にある割れに触れた。それから、その割れ目から飛び出す文字のような小さくて黒い何かを人差し指と親指とで器用に掴む。ほんの少し引き出すような仕草をすると、文字様のそれは薬丸の殻からぽんと飛び出した。
「取り出せるのですか……!?」
思わず声を出す。
音湖の考えなどお見通しだというように薬丸は薄く笑って、
「小さなものならな。神御成の内側の子は、難しいと思うよ。」
と答えた。いたずらな希望は抱かせないようにという感じで、いつになく優しい声音。
気味が悪い、と、思った。
「神御成、この文字が読めるか?」
薬丸が手のひらに載せて差し出したのは、先程取り出した文字らしきものだった。
黒色、というか、まさに漆黒。光を反射すらせず飲み込みきるその文字は、コンピュータか何かで打ち込んだ文字のように整っていて、その割に手書きのような味わいがある。
例えるなら、手書き風フォント、といった感じだ。
金平糖のような大きさで可愛らしい。
なお質問の答えとしては、読めない、である。
こんな文字見たことがない。
単に読めないのではなく、この文字は地球上に存在しないだろう、と思わせるような見知らぬ形をしていた。
「いいえ、読めません。そもそもこれは文字なのですか?」
問う。
薬丸が、だろうな、と笑った。
「読めないだろう。でも俺は読めるんだ。どうやら、具体性のないものを願うと
「具体性のないものとは?」
「俺の場合は、全知、だな。」
推察は半分当たっていたらしく、薬丸錠佑の一つ目の願いは知恵の類だった。
「俺の内側には、こういった文字の形で情報が存在している。いわば、何でも書いてあって読みたい内容をすぐに取り出せる本……、インターネットの方が想像しやすいか。」
薬丸が顔の、今度は別の割れ目に再び手を伸ばし、もう一文字取り出す。
「一文字一文字が、意味を持っている。単に一音とは違う、感覚的には一単語の方が近いかもしれないな。」
薬丸が続ける。
「例えば、この二つの文字が表すのは、親友、故人、だ。」
息を呑む。それがここねのことだろうことは、明らかだった。
凄い。
けれど同時に、気になることがある。
「失礼かもしれないけれど、全知にしては……」
「曖昧すぎる、だろ。そりゃそうだ、殻の内側にあるんだ。完全に取り出せない以上、百パーセントでは使えない。」
薬丸が続ける。
「で、俺のもう一つはこれ。」
そう言ってパッと開いた手から現れたのは、無数の花びらだった。
「多分、花、かな。」
「花、
「ああ。俺もこれが何なのか、はっきりは知らない。隠す必要もないだろうから言うが、事故なんだ。」
薬丸は困ったように笑った。それから手首をしならせると、指の先から色とりどりの花びらが生まれ出て、鋭く空を裂き、そして空中の曖昧なところで急に止まってひらひらと落ちていく。
「武器にもなる。自由自在。割に便利だ。」
「なるほど。……事故、とは?」
「事故は事故だ。俺は、いや、親父は全知を願ったはずで、この花に該当するような願いは記憶にない。そもそもあの頃、あの願いを叶えてくれた『機械』に二つを同時に願うのは、禁忌だったはずだ。」
薬丸の土色の明るい瞳が、音湖の水色の目を射る。
「神御成も、知っていただろう?」
もちろん、知っていた。知ってはいた、が。
音湖は少し考えた。
神御成家と薬丸家は、もう一つ、
霊術とは、魔法だとか、呪術だとかの類だ。本来は全く別物だっただろうが、音湖が生まれたあたりから、それまで一般社会から秘匿され続けてきた超常的力の存在が大っぴらになったのも相まって、それらの境界は酷く曖昧になっていた。
日本三代霊術家。薬丸錠佑と神御成音湖は、その跡取りにあたる。記憶にある段階……つまり、あの『機械』で眠る前の時点で、音湖が高校二年の十六歳、薬丸が高校三年で十八歳だった。
表面上は仲が良い御三家、しかしその裏側では敵どころの話ではなく、どこまでも嫌い合っていた。とりわけ神御成は邪道も邪道であったので嫌われているどころの話ではなく、故に、音湖には一つ気になることがあった。
「……一度、情報を整理したい、です。神御成家と薬丸家の持つ情報にはきっと、ズレがあります。お互いに秘匿している情報もあったかも。それから、今、ここがどうなっているのかもまず知りたい……その後で、この子のことは、ちゃんと話しますから。」
音湖は小麦色の肌を撫でながら言った。
薬丸にとっても悪い話ではないはずだ。神御成の持つ情報が神御成の良いように歪められている可能性こそあるが、それでも。
という建前で、音湖は時間稼ぎをしたかった。ここねのことを、上手く声にできないから。咎められたら、多分、泣いてしまうし。
薬丸は少し思案して、それから、静かに微笑んだ。
「分かった。それじゃあ、まず俺の知っていることから話そう。」
そう言うと薬丸は少し離れたところにあった椅子を持ってきて、そこに座った。
「長くなるからな。そうだな、どこから話そうか。」
しばし思案して、薬丸がああ、と頷く。
「そもそもの話、神御成は、霊術の存在が何故一般社会に開示されたか知っているか?」
※この作品は、小説家になろうにも投稿しています
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