9:隠し事
ベッドの中、無音と共に音湖は繰り返し追憶する。みあの瞳の動きを、喉の開く様を、自分でも異常だと思うほどにはっきりと覚えていた。
「私、は……。」
どうしてしまったのだろう。音湖は瞼に力を入れて、固く結んだ。その裏でもなお映像は鮮明で、逃れられないらしい。
ならばと、表情だけを無理矢理元に戻して、誰にも気づかれないようにと整える。奥歯に強い力がかかっていたことに気づいたのは、僅かな痛みが生じてからだった。
神御成音湖は、霊術界の名門神御成家の正統なる跡継ぎである。
人ならざるもの、人智を超越する存在。彼らが人間に危害を加えるならば、人間にとって不利益な存在になるならば、問答無用で叩き斬る。それが神御成の家業で、音湖の使命で、疑ったことはない。一度も、だ。
幼い日に、水のように澄んだ気配をした、美しい女性の首を刎ねたことがある。彼女は水の精霊だとか水神だとかその手の類の存在で、とある地域では水姫様と呼ばれていた。人に対し非常に友好的であったと聞いている。
世界がおかしくなった。それをもう少し正確に表現すると、科学的な物事と超常的な物事のバランスが崩れた。
霊術があって、魔法があって、妖怪化け物神仏幽霊精霊その他の言葉で表される存在がいて、それはずっと前からそうであったけれども、あくまで一般社会においては、あるんだかないんだかというラインを越えることはなかった。
特に近現代にそれは顕著で、超常現象は全て科学で解き明かせる、なんて言説が一般的になったくらいだ、それで良かった。
向こう側の存在は、いつだって理不尽で、強くて、普通にやっては敵わない。
だから神御成や薬丸、蛇呑のような比較的その手の理不尽に耐性のある血筋が、家単位で対抗し続けることで平穏が辛うじて保たれていた。
そう、なんとか保てる範囲に、留まっていた。
崩れたのはちょうどそれ。
押し合いをして、どうにか釣り合いのとれていたあれこれが、一気に崩壊した。
向こう側が、人ならざるものがいよいよどうしようもない強さを手に入れて、人間の、生物の負け戦が始まった。
そのきっかけこそが蛇呑達が言っていた、キーパーソンの途中脱落なのだろう。
あの水姫様も、気づけば虜になってしまうような特有の雰囲気を除けば、人にしか見えない容姿をしていた。
人間が丁重に捧げ物をして、彼女はお返しにささやかな幸福を贈る、そういう文化が根付いていた。それなのに、世界の終末に彼女の属する向こう側の力がぐっと増したことで、ささやかな幸福が凶悪な不幸に転じてしまった。
であれば、放っておけない。
せめて安らかに、痛みも苦しみもないように。
そこに彼女自身の善悪は関係なかった。ただ大義があった。
そういえば、彼女は抵抗こそしても、死にたくないなんて風には言わなかった。生者でない彼女にその概念があったのかも分からないが、そのとき、生死に執着するのは、こちら側、生き物だけなのだと漠然と思ったことを覚えている。
「だって、諦めたらどちらも滅ぶのよ。」
音湖はどっと疲れた声音で呟く。
こちら側だけでも、あちら側だけでも、世界は成り立たない。どちらかが潰えればもう一方も滅ぶ、そういう作りだった。光に影が伴うように、影の中では彼らの腹が満たせぬように。
「じゃあ、私たちって、何なんだろう。」
思考を整理するように、音湖は一つ一つ小声に出して考える。
こちら側、つまり生物だけでもダメで、あちら側、人ならざるもの、生者でないもの、怪異の類だけでも、ダメ。
だから生物が滅んで、あちら側も消えた。世界から皆いなくなった。世界が、滅んだ。
でもまだ、ここに音湖達がいる。
どの立ち位置として?どういう理由で?
片方しかいなくなったのに、存在できている理由はなんだろう?
そこまで考えて、音湖はずっと感じていた、向こう側の気配のことを思い出した。
頭を使って考えるなら、生物がどこにもいないのだから、向こう側の存在ももういないはずだ。でも本能がそうではないと告げている。経験が、まだ側にいるよと教えてくれる。
確かにここには音湖達のような術師の、半分向こう側に足を突っ込んだ存在がちらほらいるが、この気配はそういうことではない気がする。
もっと純粋な、化け物としての向こう側の存在を、音湖は、蛇呑からも、薬丸からも、先程再会したクラスの皆からも、感じていた。
そういえば、みあと戦っていた面々の中に、怪異らしき狐を使役している者がいた。やはり怪異はいる。でも何故それを薬丸達からも?
臭う。
突然、音湖はそう思った。
ふと、消耗して無意識のうちに口呼吸になっていたのを、意識して鼻に変えて、すぐ、そう思った。
臭う、怪異の気配が。あちらこちらから、感じる。
同時に、生物の匂いもうっすらと嗅ぎ取る。
どこだろう、なんだろうと意識を研ぎ澄まして、記憶を遡る。それから音湖はやっと理解した。
「ああ、殺人って、そういうことですか。」
吐き捨てるようにも、零れ落ちるようにも聞こえる音で、ぽつりと。
なんだかあまりに腑に落ちて、呆然としてしまって、ただ時間だけが流れていく。
しばらくして、トントントンと鳴って、ギギギと少し古い保健室の扉が空いて、薬丸が入ってきたのが分かった。
土色の瞳と、水色の瞳が交差する。
音湖が何か言いたげに身じろいだのを察して、薬丸はいそいそと扉を閉めた。
「どうした、神御成。」
薬丸が音湖の方へと歩きながら、促す。
音湖は半身を起こし、その目を合わせたまま、少し言葉を選んだ。平常心平常心と意識しながら、気づいてしまったこと、について口に出してみる。
「私たち、化け物になってしまったんですね。」
特に否定される気もしないから、言葉を選んだ割にストレートで断定的な声が飛び出す。
薬丸の顔が、明確に強張ったのが分かった。ああ、図星だろうか。
『成り損ない』を見て、音湖はその姿に、振る舞いに、化け物を感じた。
でも、自分の割れた身体を見たときも、おんなじことを思った。
「はじめは、みあさんが、『成り損ない』が、化け物なのだと思ったんです。だから、うまく言えないのですけれど。」
んー、と音湖はいたずらっぽく微笑んで、それから続ける。
「薬丸のお兄様なら、分かってくださるかしら。直感なんです本当に。なんとなく、自分の身体から化け物の気配が臭う気がするだけ。でも……。」
一呼吸置いて、音湖は少し目を逸らす。
そう、単に直感だ。けれども。
「でも、そう思ったんです。」
確かに、『成り損ない』は獣のようで恐ろしかった。でも、獣だ。獣のようだった。生き物のようだった。そうでしょう?
卵殻者か、『成り損ない』かしかいないとして、後者が生者であるならば、もう一方は生者でないということになる。ならばそういうことだ。
音湖ははあと息をついて、震えそうになる声を飲み込んだ。
落ち着け、私。と胸の中で繰り返して、続ける。
「だから蛇呑先生は仰ったのでしょう、殺人かもしれないと。ああ、だとしたら気味が悪い。私は、私を始末するべきなのでしょうか。神御成の人間として、こんなこと。」
努めて己を落ち着けて、音湖はただ言いたいことを淡々とした抑揚のない声で並べる。
良し悪しとかそういう話ではない。単純に、神御成として、この事実は受け付けられない。もし本当に自分こそが化け物側で、今し方倒したみあこそが生物側ならば、だ。
十六年間骨の髄まで染み染みた霊術師としての価値観が、信条が、苛烈な拒否反応を起こして止まらない。
でもだからといってどうできるわけでもなくて、音湖はただ何度も深く溜息をつく。
薬丸は、音湖をしばらく、何もしないまま見つめていた。それからやがて目を細めて、静かに、まるで独り言のように言う。
「俺も、神御成と同じ風に思っている。口には出さないが、蛇呑先生も恐らくそうだ。」
ああ、やっぱり。
肯定してもらえたことの安心感と、否定してほしかった本心とが衝突して、音湖は曖昧に微笑む。
「やはり、そうですよね。私達は……。」
「だが何の根拠もない。そもそも、あちら側だとかこちら側だとか、気にしているのは俺達くらいだ。それに何であれ、やることは変わらない。」
音湖の言葉に被すように、薬丸がそう説く。
やることは変わらない、と、小声で反復しているのが聞こえる。
焦っているように感じられた。動揺しているようにも見える。
考えてみれば、音湖が嫌悪感を抱く話題なのだから、当然薬丸にとってもそうだろう。そこまで考えが回らなかった自分に、音湖は心底幻滅する。
「神御成、この話は―。」
「ごめんなさい、薬丸のお兄様。嫌な話題でした。どうか忘れてください。」
音湖は深く頭を下げて、詫びた。
「謝る必要はない、本当に。」
薬丸も首を横に振って、それから微笑む。
今の空気は明らかに良くなかったから、お互い、どうにか水に流さねばといった感じで、生暖かい時間が流れる。どうすれば良いのか分からなくて、場違いな笑いが飛び出しそうだ。
別にいいか、化け物だし。なんて思って、ダメだと思わず姿勢を正す。きっとそれは、自暴自棄と呼ばれても否定できない行為だから。
「……なあ、神御成。体調はどうだ。」
薬丸が話題を変えてくれて、有り難くそれに応じる。
たいちょう、と音湖は少し考える。考えて、はっとして、今の今まで遠のいていた断末魔が、脳内でリフレインした。
「っ……!!」
「すまない、悪かった、せっかく落ち着いていたのに。大した説明もできないまま、神御成にとどめを刺させてしまった。俺達の大失態だ。」
肩をすくめて、頭を下げて、薬丸は目を閉じた。
謝られても困ってしまう。音湖はそんなこと、一ミリも気にしていないのだから。
「いえ、いえ、いいんです、大丈夫です。どちらかというと、自分が動揺していることそのものに、動揺してしまっていて。」
音湖は窓の外に視線を移して、目を細める。外の景色のあれこれに光が反射して、少し眩しい。
「だって、何も初めてのことではないでしょう?私たちにとっては。……。だからこそ、みあさんのこと、色々、考えてしまったんです。」
もしかして私が化け物で、みあさんは、って。
そのとき、突然のことだった。薬丸の手が音湖の肩を強く掴んで、引き寄せる。
何事かと振り向く。不用意に体に触ってくるような人ではないから、尚更驚いてしまった。
「神御成、みあさん、とは誰のことだ?」
「え?」
ああ、そういえばまだそのことを説明していなかった。音湖は思い出して、ああ、あの、と続ける。
「ええと、さっきの『成り損ない』の子です。中等部の。」
「何故彼女の名前を知っているんだ?知り合いだったのか?」
知り合いではない。もしかしたら学園内で顔を見かけたことくらいあるのかもしれないが、少なくとも記憶にはないし、関わりに関しては皆無だろう。
彼女の名前を知った経緯は、無論、あれだ。
「夢です。みあさんと面識はありませんが、彼女にとどめを刺して私が倒れている間に、夢を見たんです。そこで、ゆうくん、という方に、そう呼ばれていたので。」
「夢……!?」
薬丸は、夢、という言葉を繰り返して、何かを考え込むように顎に手を当てた。
その顔が、どこか紅潮している。
興奮している?喜んでいる?
表情そのものはまるで変わらないからなんとも言えないが、そう見える。強い違和感があって、気味が悪かった。
「薬丸、の、お兄様……?」
音湖が恐る恐る声をかけると、薬丸は酷く驚いたようで、ハッとした表情を浮かべたあと似合わないほどの満面の笑みを浮かべてみせた。
「夢の内容を詳しく教えてくれないか?」
薬丸の態度の理由が分からない。だが深掘りしても碌なことにならない気がする。
ただ注意深く観察するに留める。薬丸のメガネに光が反射して、その瞳がうまく見えないのが一層嫌な感じだった。
音湖は説明のために先程見た夢について思い出す。
「ええ、もちろんです。……正確に表現できるか、自信はないのですけれど。」
音湖は見たままを、できる限り丁寧に薬丸へ伝えた。教室の温かな日常風景からはじまり、落下、そして喪失。
それがきっと、みあの走馬灯のような、最期に見た夢であろうこと。二人は想い人同士であっただろうこと。ゆうくんという人が、みあを願った張本人だと思われること。
「それで、倒れたわけか。」
最後まで聞いた薬丸はそうぽつりと呟いたきり、また押し黙る。長い襟足を指でくるくると触りながら、何かを深く考えているようだった。
「あの、薬丸のお兄様……?夢を、見るものではないのですか?私はてっきり、核を壊したり遺品を破壊したりしたら、決まって見るものなのだなと納得していたのですけれど。」
「神御成。」
名前を呼ばれて、音湖は話すのをやめる。
真剣な目で、薬丸は貼り付けたような笑みを浮かべていた。
「俺達はもう随分と長いことここにいて、『成り損ない』と戦ってきた。神御成一人だけが、目覚めるのが遅かったんだ。」
「それは、どのくらい?」
「ざっと二百年だ。」
二百年。
想像よりもずっと長い時間だ。その間、戦い続けていたのだろうか。それは、音湖達のような
どうにも辛いように感じられて、音湖は少しばかり目を伏せた。
「二百年、決して少なくない数彼らと戦って、勝ってきた。神御成も見ただろうが、遺品を割ってしまえば、『成り損ない』の殻も
薬丸が厳かに息をついて、よく聞いてくれ、と続けた。
「夢を見た、そんな話は聞いたことがない。俺は一度だって、『成り損ない』になる前の彼らを夢で見たことはない。一度全員に聞き取る必要はあるだろうが、十中八九、お前が初めてだ。」
「それは一体何故」
そこまで口に出してから、音湖は薬丸と目を見合わせた。
「あ。」
そうだ、神御成だ。
音湖は神御成の人間で、なにより、女子だ。血筋故向こう側とこちら側―今、どちらがどちらなのかはもはや音湖にもよく分からない、の境界を跨いでやり取りをするなどお手のもので、中でも女性、もっといえば未成年の女子は、その手のものを受信するのに極めて優れている。
「そもそも『成り損ない』になっている時点で相当な思いがあったに違いないですものね。それだけ強い思念ならば、私であれば、受け取れる。」
薬丸もああと頷いて、それから改めて音湖に向き直った。
「なあ神御成……。」
薬丸の瞳が揺れた。
何かを言いたげで、しかし音にしてくれないから、何も分からない。
促すこともできないような雰囲気の中、薬丸は何度か唾を飲み込んだ。それからまた、目を細めて笑う。
どうにも胡散臭く思った。薬丸錠佑は、こんな顔をする人間だっただろうか?
「明日か明後日か、はたまた来週か。神御成の調子が良くなったらお祝いのパーティーを開くと皆が言っていた。」
楽しみにしていてくれ、と、無理に明るいトーンで笑う。
音湖もそれに応じてとびきり明るく笑ってみせた。違和感の理由を探るのは、また今度ということにして。
「まあ、それは楽しみです。でも私、今も体調は問題ありませんよ。」
「だとしてもこっちは心配なんだ。大人しく休んでいてくれ。」
あはは、うふふと笑って、そう、大人達が腐った
ひとしきり話して、ああ、少し前まで楽しく話せていたのに、何だか、嫌な空気と違和感を残して終わってしまったと音湖は寂しく思った。
これが、二百年の空白というやつだろうか?薬丸だけならともかく、クラスメイトともこんな空気になったなら、いよいよどうしたら良いのか分からなくて泣いてしまうかもしれない。
やがて、薬丸が立ち上がって、よく休むようにと言い残して去っていく。
扉に手をかけたその後姿を、音湖は呼び止めた。
「ねえ、薬丸のお兄様。」
薬丸が振り向いて、どうした、と笑う。
音湖は、今度こそ、貼り付けた百点満点の笑みをお返しした。
「何を隠していらっしゃるのか、パーティーで教えていただけること、楽しみにしていますね。」
では、と頷いて、音湖はベッドに横になる。
起きたり、寝たり、忙しい。そんなことを考えながら目を閉じた。
ああ、しかし、初めて見る表情だったな。
まだ頭の内で繰り返し繰り返し再生されるみあの声を表情を上書きするように、出ていく間際の薬丸の表情を思い出す。
まずい、とか、バレた、とか、そういう顔。不器用な人だから、多分、少しだってバレないほどに隠しきれているつもりでいたのだろう。音湖は比較的敏い方だが、それにしても、先程の薬丸の違和感は分かりやすかったと思うのだが。
そういうところは変わっていないのだと思うと、なんだか安心する。隠し事の内容が気になるには気になるが、どうにもシリアスな雰囲気だったから、下手に問いだせば追い詰めてしまうような気がした。ならば、今日は見逃してあげよう。
分かったことは三つ。
音湖はもう化け物かもしれないこと、『成り損ない』の夢を見るのは音湖だけな可能性が高いこと、薬丸が何か隠し事をしていること。
どれも大切なことな気がするが、ひとまずは考えなくていいだろう。休めと言われたのだ、休もう。
音湖はほうと息を吐いて頭から薬丸の表情を消す。
それから、眠りに落ちる前に、ただみあの姿だけを映し出す脳で呟いた。
「安らかに……。」
※この作品は、小説家になろうにも投稿しております
卵殻はいつか剥がれて @ior1ori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。卵殻はいつか剥がれての最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます