翼をもがれた少女が再び飛び立つまで。

ニシマ アキト

第1話

 人間の精神年齢というものは、つまるところ絶望を経験した回数によって決まる。ほとんど絶望を経験したことがない人は身体が成長してもずっと精神が幼いままで、子供の頃から多くの絶望を経験してきた人は精神的に達観するのが早い。

 あのときの私——人生の何もかもが上手くいっていて、学校から出される算数ドリルの宿題ぐらいしかストレス要因がなかった八歳の私は、だから精神的にとても幼かった。一度も絶望したことがなかった。不幸という言葉の意味を知っていても、それが本当にこの世に存在するものだとは思っていなかった。世界の誰もが明日への希望を持って、日々を平穏無事に過ごしているものだと思い込んでいた。この現実は、そんな幸福と平和に満ち溢れた世界なのだと信じていた。

 当時の私は、世間一般の平均的な八歳よりも精神年齢が低かったと思う。普通の人が八歳までに経験するような些細な絶望を、私は一切経験していなかった。買ってほしいものを買ってもらえなかったことがなかった。食べたいものを食べられなかったことがなかった。友達に裏切られたことがなかった。他人に拒絶されたことがなかった。夢や目標を否定されたことがなかった。理不尽に罵声を浴びせてくる大人に出会ったことがなかった。誰かに危害を加えられたことがなかった。

 八歳の割に幼い精神を有していた私は、とにかく甘えん坊だった。自分の思い通りにならないことがあるとすぐに拗ね始めるような、面倒なガキだった。でもそれも仕方がない。私は拗ねることを学習してしまっていた。私が拗ねれば、まわりの大人が私の思い通りになるように事態を修正してくれたから。

 しかし、ときにはどうにもならないこともある。

 大人は子供の要望を叶える力を持っていても、同じ子供が子供の要望を叶える力を持っているとは限らない。

 そのときの私は、自分と同じ子供に対して拗ねていたのだった。

 子供——当時十二歳だった、香織に対して。

「なんで、なんでよぉ……。ピアノなんか、どうでもいいでしょぉ……。どうせ誰が弾いたってそこまで変わらないよぉ……。ピアノなんかより、わたしの演技みてたほうが楽しいでしょぉ……」

 小学校からの帰り道。香織から発表会と私の公演が被ってしまったと告げられた私は、香織の家の前でひたすら駄々をこねていた。

 香織の家——神社の境内の前で。

「ごめんね、すみれちゃん。でも仕方ないでしょう? 私一人の都合で日程を変えてもらったら、みんなに迷惑がかかるんだよ?」

「じゃあ私の公演の日を変えてもらう」

「それだって同じだよ。みんなに迷惑がかかっちゃう」

 香織のピアノの発表会と、私の演劇の公演の日程が偶然にも重なってしまった。つまり香織は私の公演の観劇に来られなくなり、私は香織のピアノの発表会を聞き行けなくなった。でも私はピアノの発表会には興味がなかった。とにかく、自分が主演を務める演劇を香織に観てもらえないことが、とても気に入らなかった。

 だから私は香織に、発表会を欠席して私の公演を観に来るように要望した。だが当然、香織は自分の発表会を優先しなければならない。それで私は拗ねていた。

 香織はただひたすら、私に対して謝っていた。

 謝る理由なんてひとつもないのに。

 そもそも香織の発表会と私の演劇は、同じ天秤の上にのせられるようなものではなかった。私の演劇はせいぜい、そこら辺の小学校の学芸会よりは遥かにハイレベルだけど、都内のプロの劇団に混ざっている子役よりは遥かに程度が低い、くらいの中途半端なものだった。けれど香織のピアノは規模が全然違う。香織のピアノの発表会は、全国の地方予選を勝ち抜いてきた精鋭たちが一同に集まり、その中で誰がより優れた演奏ができるのかを見極めるというものだった。未来のピアニスト候補がそこで決まるといっても過言ではない。性質としては発表会というよりコンクールだ。もちろん当時の私だって一応プロを目指して演劇に励んでいたけれど、香織と私ではプロまでの距離が違った。香織のピアノの発表会のほうが、私の演劇よりもよっぽど重要度が高い。

 しかし、八歳の私にそんなことは理解できない。

 いつだって自分優先で生きてきた当時の私に、もしかすればプロのピアニストになれるかもしれない香織の事情など、考慮できるはずもないのだった。

 とにかく私が演技をしている姿を香織に観てほしい。観終わった後で、すごかったね、かっこよかったね、がんばったね、と褒めてほしい。頭を撫でてほしい。抱きしめてほしい。ただそれだけを望んでいた。

 でも、ピアノの発表会のせいで、香織に私の演技を観てもらえない。

 香織が私の頭を撫でてくれない。

 香織に褒めてもらえる機会を失うことは、私にはとても受け入れ難かった。

 これだけ頑張って稽古をしてきたのに、その成果を香織に観てもらえないなんて。

 私は香織のために頑張ってきたのに。これじゃあ努力してきた意味がない。

 自分の努力が水泡に帰すという今までにない絶望に襲われた私は、香織のお腹をぽかぽか殴りながら、鼻水を垂らしてぐずぐず泣いていた。

「……香織、なんとかしてよ」

「私にはどうにもできないよ……」

「……嫌だ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。香織に観てもらえなかったら、あんなのやる意味ないもん。今まで稽古してきた意味だってない」

「そんなことないよ。私以外にも、すみれちゃんの演技を素敵だなって思ってくれる人はきっとたくさんいるから」

「他の人なんかどうでもいいよ。香織に褒めてもらえなかったら、他の人がいくら褒めてくれたってどうでもいいもん」

 香織は、そっと私の頭を撫でた。そのときの私はずっと香織の胸の中に顔を埋めていたのでわからないけど、きっと香織は眉を八の字にして私を見下ろしていたと思う。

「じゃあ、今ここで見せてよ、すみれちゃんの演技。それで、私が褒めてあげるから」

「ダメ。それじゃあダメなの。だって意味わかんないじゃん」

 私は主役を務めることになっていたから台詞はかなり多かったけれど、それでも私一人だけの演技を見たところで物語は全然伝わらない。物語が伝わらないと、私の演技のすごさも伝わらない。それじゃあダメだ。

 香織は短くため息を吐いた。

「ねぇ、じゃあどうしたらいいの?」

「……私の公演を観に来てほしい」

「だーかーらー、それは無理だって言ってるでしょ」

「無理でも来て」

「無理なもんは無理なの」

「嫌だ! 来て!」

「無理!」

 香織に両肩を掴まれ、胸から引き剥がされる。両肩に手を置いたまま香織は腰を曲げて、私に目線を合わせた。香織の胸のあたりが、私の涙と鼻水で黒く湿っていた。

「ごめんね、すみれちゃん。私だって、すみれちゃんの公演をすっごく楽しみにしてたよ。でも身体が二つあるわけじゃないんだし、どちらかを優先しなきゃいけないのは仕方ないでしょう? 世の中にはすみれちゃんの思い通りにならないことがたくさんあるの。だからどこかで割り切って諦めないと……」

「嫌だ!」

 当時の私はなおも強情だった。両手で瞼を擦って泣きじゃくりながら、香織に向かって張り裂けんばかりの大声で叫んでいた。

「嫌だって言ってもどうしようもないの」

「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! だって、香織、だって、嫌だよ……」

「…………」

 涙でぐちゃぐちゃにぼやけた視界でも、香織が呆れた表情でため息を吐くのが見えた。

私の両肩に添えていた手を自分の腰に据えて、怒ったような表情で私を見下ろす。

「ねぇ。そろそろ泣き止んでくれないと、私、すみれちゃんのこと嫌いになっちゃうよ?」

「……嫌だ」

「嫌なら泣き止んでよ」

「……嫌だ。だって、嫌だよ、香織が観に来てくれないから……」

「……あーあ、もー」

 香織は自分の頭を乱暴に掻きむしった後、私に背を向けた。

「今回ばっかりはいくら駄々こねたって無駄だからね。無理なものはどうしたって無理なの。泣き止まないんだったら、ずーっといつまでもそこで泣いていたらいいよ。私はもう帰るからね」

 私はそこで一瞬、泣き止んだ。香織がそんな突き放すような冷たい態度をとってきたことが初めてで、驚いて泣き止んだ。今までは、私が泣いている限り香織はずっと私に寄り添ってくれていたのに。泣き止むまでずっと私の隣にいてくれたのに。香織が、私を置いて先に帰るなんて。苛ついたような表情で、私を置いていくなんて。

 香織は、私のことが嫌いになったのか。

 そう考えた途端、目の奥がもっと熱くなってきて、涙の勢いは増した。私に背中の赤いランドセルを向けて歩いていく香織を見て、私は立ち尽くしたまま、両目からとめどなく滝のように涙を流すことしかできなかった

 香織は神社の鳥居をくぐって、石段に足をかける。石段を下った先にある、家の玄関へと向かう。薄暗くなり始めた高台の景色から、香織の姿が、石段の下へと見えなくなっていく。

 どうして香織はわかってくれないんだろう。どうして、私がこんなに悲しい気持ちを抱えてるってことをわかってくれないんだろう。香織に演技を見てほしい。香織に褒めてほしい。香織が褒めてくれなきゃ意味がない。私には香織だけいればいい。

 私は香織が大好きなのに、どうして香織はわかってくれないんだろう。

 もちろん、香織が私の公演を観に行けなくなってしまったことは、誰の責任でもない。誰が悪いということはない。運命の悪戯というべきもので、誰かの悪意がこの事態を招いたわけじゃない。八歳だった私でも、冷静になればすぐにそれを理解できたはずだ。

 だけどそのときの私は完全に冷静さを欠いていた。

 身体が熱くて、息が苦しくて、涙が顔をぐちゃぐちゃに濡らしていて、頭の中はぐわんぐわんに揺れていて、平衡感覚が曖昧で。冷静に考えを回せるような状況ではなかった。

 ただ、なぜ香織は私の気持ちをわかってくれないのか。それしか考えられなかった。

 香織は私の気持ちを理解してくれない。香織は私の気持ちを踏みにじろうとしている。

 香織は私に悲しんでほしいんだろう。

 香織は悪者だ。

 そんな考えに支配されてしまった私は。

 足を一歩、踏み出した。

 香織にいくら説得されても地蔵のようにその場から動かなかった身体は、一歩を踏み出しさえすればすんなりと動き出した。パステルブルーのランドセルをかちゃかちゃ揺らしながら、小走りで香織を追う。

 無我夢中で石段を駆け下りる。香織はまだ石段の中腹あたりにいた。

 そして私は、駆け下りる勢いのまま。

 香織が背中に背負った赤いランドセルを、思いきり突き飛ばした。

「香織の馬鹿っ!」

「えっ」

 香織の身体は、石段の上から押し出される。

 宙を舞う。

 首だけ振り返った香織の、驚いたような表情。

 空中の香織と目が合ったその瞬間。

 自分がやってしまったことを、私は理解した。

 しかし理解したところで、もう取り返しはつかない。

 すぐに、鈍く重い衝撃音が私の胃に響いた。

 香織の身体は一度石段の上をバウンドした後、横向きに石段を滑り落ちて行った。ランドセルが引っ掛かったのか、下の道路まであと数段を残したところで香織は停止した。

 香織は目を閉じて、ぐったりと横たわっている。

「ぁ……う、あ、うぁ」

 私はしばらく、その場から動けなかった。

 涙はとっくに引っ込んでいた。

 背中から頭にかけて、さぁっと寒気が上った。

 口の中に苦みを感じる。うまく息を吸えない。

 声が出ない。喉が震えてくれない。

「ぅ……ぇえ」

 下にいる香織は、横たわった姿勢のまま動かない。ちゃんと胸が上下しているか、ここからでは確認できなかった。

 ——死ん、だ?

 死んだのか? 私のせいで?

 私が香織を殺した?

「…………」

 周りの木々がさわさわと揺れる音だけが、耳に入り込んでくる。

 神社には、私以外に人の気配がなかった。石段の下の道路に誰かが通りかかるということもない。自動車のエンジン音すらどこからも聞こえない。

——私が。私が行かないと。

 まだ、死んだと決まったわけじゃない。

 香織が死ぬなんてあり得ないとすら思った。

 八歳の私は『不幸』の存在と同様に『死』の存在も信じていなかった。

 ゆっくりと、石段を下りる。自分のあらゆる感覚が曖昧になっていた。石段を踏む足の裏の感覚も、空気が肌を撫でる感覚も、聞こえる木々のざわめきも、ぐらぐら揺れる視界も、全部が曖昧で不確かで、現実のものとは思えなかった。

 香織のそばにしゃがみ込む。香織は目を閉じたまま動かない。どうすればいいだろう。とりあえず、身体を起こしてあげたほうがいいかな。

 妙に冷静にそんなことを考えて、香織の頭をそっと持ち上げた途端。

「ひっ……!」

 手のひらにべったりと、赤い血が付いた。そして、今まで香織の頭が横たえてあった石段には、小さな血だまりができていた。その赤い水面は私の戦慄した表情をぼんやりと映して、石の隙間から下へと流れようとしている。

「しっ、しに、し、しししし、死んで……!」

 私は自分が恐慌状態に陥る前に、少しでも正気が残っている内に、ランドセルに取り付けてあった防犯ブザーの紐を、思いきり引っ張った。

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