第6話

 がたがたがたがたがた、と、静謐な教室に一定のリズムで響く足音があった。私の貧乏ゆすりの音だった。

 完成した脚本を、もう何度も読み返している。書いてあることを一言一句覚えてしまったかもしれない。それでも、ページを繰る手が止まることはなかった。

 これじゃダメだ、という感覚だけがあった。具体的にどこがどうダメなのかはわからないのに、何かがダメだということだけはわかる。

 煮え切らない感情にイライラする。貧乏ゆすりが止まらない。頭を激しく掻きむしりたい衝動に駆られる。

 あのショッピングモールで佐伯に会ったときからずっと感情が落ち着かない。心の内に黒々とした何かが蟠っている。その黒いものが、私の落ち着かない感情を掻き立てる。

 文化祭当日は明日に迫っていた。うちの高校は珍しく一日目が一般公開日になっているから、明日の公演には香織が観に来る。

 私が脚本を担当していることは、香織にはまだ言っていない。脚本の内容的に、なんとなく言い辛かった。でもたぶん、香織が劇の内容を見れば、私が脚本を担当したことはすぐにわかるだろう。

 香織が観に来るのに、こんな最後で良いのだろうか。

 いや、考えすぎなのかもしれない。香織は私が思っているほど、九年前の事件を気にしていないのかもしれない——そう思って脚本をぱたりと閉じて、悩むのをやめた時間もあった。だけど、あの左目を意識していて九年前の事件を思い出さないなんてことがあり得るだろうかと考え直して、また脚本を開いてしまった。

「ついに明日だね」

 びくっと肩が震えて、同時に貧乏ゆすりが止まった。Tシャツを着た佐伯さんが、いつの間にか机の前に立っていた。

「……リハーサルはどうしたの?」

「もう終わっちゃったよ。すみれちゃん、監督なのに観に来なくて良かったの?」

「私のことを監督だと思ってる人なんていないでしょ」

「そうかもしれないけど、お話を作ったのはすみれちゃんでしょう? 一応、完成形のチェックをしておいたほうが良かったんじゃないかな」

 完成形。この劇は既に完成しているんだ。もう変更することはできない。もしこれから大幅な変更を加えようとしても、誰も賛同してくれないだろう。

 もう悩んだって仕方がないのに。

「もしかして、まだ脚本のことで悩んでるの?」

「……別に、そういうわけじゃない。ちょっと暇だったから読み返してただけ」

「わざわざこの空き教室を一人で占有してまで、暇を潰したかったの?」

「なんでもいいでしょ。いちいち気にしないでよ」

「……すみれちゃん、最近隠さなくなったよね」

「何を?」

「すみれちゃんが私を嫌っているってこと」

 佐伯は微笑んだままで言った。私は思わず目を逸らす。

「なんとなく嫌われてるんだろうなって雰囲気は前から感じてたけど、最近はかなり露骨だよね。私のことはもうどうでもよくなっちゃったのかな?」

「最初っからどうでもいいよ、あんたのことなんか」

「私、すみれちゃんに嫌われるようなこと、してないと思うんだけどな」

「したよ。勝手に脚本係に推薦したり、演劇の個別指導してくれとか言ってきたり」

「嫌だったの?」

「嫌だったよ」

 普段なら言えないはずの言葉が、胸の内にある苛々した感情のせいでどんどん流れ出てくる。

「それはごめんね。すみれちゃんが嫌がると思ってなかったの。だってすみれちゃんは、演劇が大好きな人だと思っていたから」

「演劇はもう好きじゃない。この部活だって、このまま幽霊部員になろうと思っていたのに、あんたのせいで台無しだ」

 吐き捨てるように言うと、佐伯は気を落ち着けるように、一度大きく息を吸った。

「ねぇ、すみれちゃん。どうして演劇をやめちゃったの? 何があなたをそんな風に変えてしまったの?」

「だから、自分の才能に限界を感じて、気持ちがぷっつり途切れちゃったの」

「この前も聞いたけど、嘘だよね? それ」

「嘘じゃない。仮に嘘だったとしても、本当のことをあんたに言うわけないでしょ」

「……もしかして、香織さんが関係しているの?」

 ぷつり、と。私の中で何かが切り替わった。

 逸らしていた視線を、ゆっくりと佐伯に合わせる。佐伯は神妙な顔で、私を見つめていた。

「誠司くんに訊いたの。すみれちゃんがどうして演劇をやめちゃったのか。そしたら、九年前の事件が原因じゃないかって」

「…………」

「勝手にごめんね。ことの顛末は、全部聞かせてもらった。すみれちゃんも香織さんも、とても大変な思いをしてきたんだと思う」

『大変な思い』なんて簡単な言葉で私と香織の九年間をまとめられたくなかった。

 私たちのことを何も知らない部外者に、そんな薄っぺらな慰めの言葉を軽々しく言ってほしくない。

 誠司は、どうしてこの女にあの出来事を話してしまったんだろう。誠司にとっても、あの出来事はショッキングな思い出のはずなのに。危うく姉が殺されるところだったのに。

 どうして誠司は、こんな女と付き合ってるんだ。

「すみれちゃんがあのとき劇団から抜けちゃった理由は納得できたよ。そんな出来事があれば、しばらくは演劇なんてする気になれないと思う。でもね、今になってもすみれちゃんが演劇をやめたままでいることには、私は納得できない」

「…………」

「香織さんもすみれちゃんが演劇をやることに賛成しているし、もう気にしなくてもいいんじゃないかな? 香織さんはきっと、もうすみれちゃんのことを許していると思う。もし今、すみれちゃんが演劇を再開したからって、嫌な顔はしな」

 パチン、と。

 がらんとした空き教室に、甲高い音が反響する。

 我に返ったときには、もう佐伯の顔を平手で打ってしまった後だった。佐伯の頬にくっきりと赤い手形が浮き出ている。自分の手の平もひりひりと痛んだ。

 自分が何をしたのかを理解するのに数秒の時間がかかる。自分が自分ではないような感覚があった。自分が次に何をしでかすのか、予想がつかない。目の奥がちりちりする。喉の奥がきゅうっと絞まる。歯を食いしばる力が勝手に強くなっていく。

 自分の身体を、自分で制御できなくなっていく。

「……なぁ、なんなんだよ、あんた……」

 かろうじて、震えた声が絞り出された。

 佐伯は、ぶたれた頬に手を添えて、放心したような顔をしていた。

「……あのさぁ……誠司はずっと、私のことが好きだったんだよ」

「…………え?」

「誠司は昔からずっと、私のことが好きだったんだ。それなのに、あんたが急に現れたせいで、誠司は私に対して興味を失ってしまった……」

「……それは、すみれちゃんが誠司くんのことを好きだっただけでしょう?」

「違う! 誠司が一方的に私に恋してたんだよ! 私は誠司のことなんか一ミリも好きじゃない!」

「…………」

 佐伯が、信じられないものを見るような目で私を見ている。

 ドン引きしている。

 それでも、一度動き出した私の口は止まってくれない。

「私とあんたは同じなんだ。だから誠司はあんたのことも好きになった。あんたは、あの事件を経験しなかった場合の私の姿なんだよ。もし私があの事件を経験せずに演劇を続けていれば、今頃はあんたみたいにキラキラ輝いていられたんだ。だから私はあんたを見ているとイライラするんだよ。大きな絶望を知らない奴が暢気に演劇やってキラキラ楽しそうにしているのを見ると、本当にイライラする。演劇がしたくてもできない人がいるってことなんか考えたこともないんだろ。道半ばで演劇を諦めざるを得なくなった人のことなんか気にかけたこともないんだろ。成功者は挫折した奴の気持ちなんか絶対にわからない。挫折する奴は努力が足りないとか、忍耐力がないとか思って、見下しているんだろ。ある日突然、何の前触れもなく、夢への道が理不尽に閉ざされることがあるなんて、想像すらできないんだろ。あんたはただ運が良いだけなんだよ。あんたがまだ演劇を続けていられるのは、たまたま理不尽な災難に巻き込まれたことがないからだ。決してひたむきな努力の結果なんかじゃない」

 自分でも何を言っているのかよくわからなかった。頭の中に渦巻く言葉が、次から次へと勝手に口から出てしまっていた。

 しばらくの沈黙の後、佐伯は怒ったような、ともすれば泣きそうになるのを耐えているようにも見える表情で、口を開いた。

「……わからない」

「…………」

「すみれちゃんの言ってること、私には全っ然わかんないよ」

「だろうね。あんたみたいに未来への希望を持って毎日を過ごしている人間には、わかるはずないよ」

「違う。そういうことじゃない。だってすみれちゃんは、夢への道が閉ざされてなんかいないでしょう?」

「だから、あんたに何がわかるんだよ! たとえ香織が許していても、私が許せないんだって!」

「そう、だからこれは、すみれちゃんの気持ちの問題でしょう?」

「だったら何なの?」

「すみれちゃんは、挫折した自分に酔ってるだけなんじゃないの?」

「……はぁ?」

「挫折を経験している自分に特権意識を感じて、まわりの人を見下して、自分の殻に閉じこもって。過去の挫折を盾にして、人生のあらゆることから逃げているだけなんじゃないの?」

「そんなことない! お前は苦労を知らないから、そんな表面的な捉え方しかできないんだろ!」

「あのね、私だって苦労を知らないわけじゃない。すみれちゃんほど大きいものじゃないかもしれないけど、絶望だってちゃんと知ってるの」

「はぁ? 嘘つけよ!」

「ねぇ、あの頃——八歳の頃、すみれちゃんと同じ劇団に所属していた私が、どうして今はこんなカスみたいな高校の演劇部にいるのか、理由を考えたことはある?」

「……知らないよそんなこと」

「中学生のときにね、親に無理矢理、劇団を辞めさせられたの。どうせ才能ないんだから、将来何の役にも立たないことやってないで、そろそろちゃんと勉強しろって言われて。だけど私は、俳優になる夢を諦めてない。高校卒業してから上京すれば、まだ全然巻き返せるって思ってる。こうやってさ、挫折しても自分にできることを探していくんだよ。すみれちゃんみたいに自分の世界に閉じこもってじーっとうずくまっていても、ただ時間を無駄にするだけ」

「あのさぁ、甘いんだよ。そんなのは苦労って言わない。それだったら私だって演劇をやめてなかった」

 佐伯の苦労は佐伯一人だけで完結している。誰かを巻き込んだものではない。私の場合は香織を巻き込んでしまったんだ。私の苦労とは性質が全然違う。同列に語れるような話ではない。

「これは、すみれちゃん自身の気持ちの問題なんじゃなかったの?」

「それでも、香織の気持ちが一切関係ないわけじゃない」

 はぁ、と佐伯はため息を吐いた。さっきから口調こそ落ち着いているけど、佐伯の目はうっすらと赤らんでいる。

「あのね、こんなことを言うと、人の心がないのかと思われちゃうかもしれないけど、どうせすみれちゃんにはもう嫌われちゃってるから、言うね」

「なに?」

「香織さんがピアノを辞めたのは、すみれちゃんのせいじゃないよ」

「……は?」

「確かに左目を失明したことがきっかけにはなったのかもしれないけど、辞めた直接の理由ではないと思う。だって両腕がなくなったわけでもないんだし、今でも趣味で弾いているんでしょう? 世の中には全盲のピアニストだっているんだから、左目を失明したことがピアノを諦める理由にはならないはずだよ。きっと香織さんは、そのときより前から、どこかでピアノを諦めるつもりだったんじゃないかな」

「……そんなわけ、ない」

 意固地になって、ほとんど反射的に否定してしまう。

 そんなこと、考えたこともなかった。香織がピアノを辞めたのが、私のせいじゃなかったなんて。私は香織がピアノを辞めた理由を直接聞いたわけじゃない。ただ「片目だけで楽譜を見ると頭痛がする」と言っていたのを聞いて、だからピアノを弾けなくなったんだと私が勝手に解釈しただけだ。

「もちろん、本当に左目の視力を失ったことが原因でピアノを辞めた可能性もある。実際のところは香織さん本人にしかわからないけど、その可能性は限りなく低いと思う。香織さんは、夢への道が閉ざされていないのに、怖気づいてその道を進むのを諦めてしまったのかもしれない。でも、すみれちゃんは、怖気づいたから諦めたわけじゃないでしょう?」

「…………」

 私が演劇を辞めたのは、香織の夢を奪った自分に、夢を追う資格などないと考えたからだった。

 でも、もしも本当は、私が香織の夢を奪ったわけではないとしたら。

 そのとき私は、演劇を再開するのだろうか。

「香織さんがピアノを辞めたのは香織さん自身の問題なんだから、すみれちゃんの人生まで影響される必要ないんだよ。香織さんみたいな弱い人に合わせて自分まで弱くならなくたっていい。いつまでも弱い人に配慮していたら自分の人生がなくなっちゃうよ。すみれちゃん、昔はあんなに自己中だったのに、どうして今は病的なまでに他人を気遣うの?」

 危うく説得されそうになっていたけれど、佐伯が私と香織を心底馬鹿にしているらしいことは確かだ。私が佐伯を気に入らない事実は変わりない。こいつは本当にいけ好かない。

「馬鹿にするのもいい加減にしろよ」

 もう一度、今度は明確な意志を持って、私は佐伯の顔を平手打ちした。思いのほか力が強かったようで、佐伯は床に蹲ってしまった。

「いったぁ~……」

 私は佐伯には目もくれることなく、教室の扉へと向かう。

「この腐れ外道が! 死ねーーーーーーーー!!!!!!!」

 両手で中指を立てながら、息が続く限り叫んで、教室の扉を力いっぱい閉めた。今までで一番大きな音が廊下に響いた。

 このときはせいせいして良い気分になっていたけれど。

 まさか翌日になって、自分の行いがあんなしっぺ返しをしてくることになるなんて、思いもよらなかった。


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