第5話
やっと脚本の最後のシーンを書き終わった。達成感は微塵もない。納得できるようなものは書けなかったからだ。文化祭当日まで一週間を切ってしまって、さすがにそろそろ書き上げてくれないと困ると演劇部員数十人に詰め寄られて、追い詰められた私は何も思いつかないまま無理矢理書き殴ったものを渡した。正直酷い出来だったと思うけど、納得できていないのは私だけのようで、他の部員から脚本の出来について何か言われることはなかった。
とにかく、これで私の仕事はほぼ終わった。あとは、脚本担当として文化祭当日の本番を見届けるだけだ。最近は文化祭準備期間のおかげでほとんど授業はなく、クラスに居場所がない私は出し物の準備をサボっていても誰にも咎められないので、放課後は気楽に過ごしていた。
だから、私は完全に油断してしまっていた。
その日の放課後、書店に行きたいという香織に付き合って、私は駅前のショッピングモールに来ていた。眼帯を付けた香織の後ろについて、店内を回る。香織が時折、本を私に手渡してくるので、それを籠に入れていく。会計の直前に私が香織からお金を受け取って、私がレジでのやり取りを代行する。
香織が人と顔を合わせずに買い物を済ませられるように、サポートしてあげる。そのために、私は頻繁に香織との買い物に付き合っていた。
買ったものを香織に返して、香織と手を繋いで書店を出る。こういう、人が多く集まるショッピングモールが香織は大の苦手なのだけど、近所に書店はここにしかないので仕方がなかった。
香織は俯いて、自分の髪で顔を隠しながら歩く。今日の香織は白いワンピースを着ているから、その姿勢だとなんだか貞子みたいに見える。平日の午後なのであまり人は歩いていないけれど、そんな女の人と手を繋いで歩くのは、少し恥ずかしかった。
出入口に戻るため、エスカレーターで下の階に下りる。洋服店が立ち並ぶ通りを歩いていると、聞き覚えのある話し声が聞こえて来て、私は思わず足を止めた。
演劇部らしい、よく通る大きな声。
制服姿の佐伯が、男と二人で洋服を見ていた。ハンガーにかかった洋服を自分の身体にあてて「どう? 似合う?」と問いかけている。男が「とっても似合うよ」と答えると、佐伯は朗らかに笑った。
そんな反吐が出るようなやり取りを眺めていると、佐伯と目が合ってしまった。「あ、すみれちゃんだ」と佐伯が言うと、こちらに背を向けていた男も振り返る。
その男——誠司が私を見て、ひいては香織の姿を見て、ぎょっと表情を変えた。
「な、なんでお前らがここにいるんだよ」
「それ、私の台詞だけど。文化祭の準備は?」
「いやいや、それこそ私の台詞だよ! すみれちゃん、文化祭の準備、一度も参加してないよね?」
故意にサボってるんだよ。いちいち説明させるなよ。いや、今はそんなくだらない質問に答えている場合じゃない。
どうして佐伯と誠司が、こんな場所で、二人きりでいるんだ?
「何してんの、二人は」
「……ぶっ、文化祭の買い出しだよ」
誠司がぶっきらぼうに言う。文化祭の買い出しで、なぜ佐伯の洋服を買う必要があるのか。もうクラスTシャツは出来上がっているのに。
「買い出しのついでに、ちょっとデートでもしよっかってことになって。誠司くんが何か一着買ってくれるって言うから」
「デート?」
「だって、私たち付き合ってるから」
言って、佐伯は誠司の腕を抱いた。誠司は満更でもなさそうに頬を掻いた。その頬は、徐々に紅潮していく。
「じ、実は、そうなんだよ、ね」
どさ、と音がした。見ると、香織が手に持っていた本を地面に落としてしまっていた。
香織の右目は、驚きのあまり見開かれている。
「どうして?」
と言ったのは私だ。香織がそう言いたそうに見えたから、私が代わりに言ってあげた。
「どうしてって……お互い好き同士になっちゃったんだから、付き合わないと仕方ないでしょ?」
佐伯はきょとんとした顔で、首を傾げる。
舌打ちしてしまいそうになるのを堪えるのに必死で、私は何も言えなかった。
誠司は照れくさそうにしているが、特に動揺しているという風ではない。
これは何か、性質の悪い冗談というわけではないのだろか。
佐伯と誠司が付き合っていることは、本当に事実なのか。
「あなたが誠司くんのお姉さんですか~? いつもお話は聞いてます~」
佐伯が香織に近寄って、私が握っていないほうの手を両手で握った。それまで呆けていた香織ははっとして、香織の手をさっと振り払った。
「あ、あれ……?」
佐伯が気まずそうに苦笑いする。香織は俯いたまま、私の後ろに隠れてしまう。
「ああ、姉貴は初対面の人が苦手なんだよ。いつもこうなんだ」
「そ、そうなんだ。ごめんなさい、急に距離近かったですよね?」
「…………」
香織は俯いたまま何も言わない。
「……あの、今度改めて、ご挨拶させてください。ご両親とも一緒に」
「…………」
香織は私の手をぎゅっと強く握った。その手が少し震えている。
「……もう、私たち行くから」
そう言い残して、私は香織の手を引いて大股で歩き出した。香織が少し足をもつれさせながらついてくる。背後から佐伯の呼ぶ声が聞こえたけど、一切振り返らなかった。
なんだか無性にイライラする。なぜだろう。別に何も不快なことなどないはずなのに。
恋人が欲しいと思ったことは一度もない。恋愛なんて煩わしいだけだと思っている。だから、あの二人に嫉妬しているわけではないはずだ。あの二人が付き合っていようが心底どうでもいい。
じゃあ、どうしてこんなに、腹の奥が熱いんだろう。
私は何がそんなに気に入らないんだ?
「ちょ、ちょっとすみれ!」
慌てたような香織の声で、私は足を止めた。振り返ると、私と手を繋いだままの香織が、肩で息をしている。
「あ、歩くの、速すぎるから」
「……ごめん」
無意識に大股で早歩きしてしまっていた。香織は普段引きこもりがちだから、こんなスピードで歩いたらすぐに息が上がってしまう。
「ねぇ、すみれ。別にそんなにショック受けることないよ」
下を向いて息を整えながら、香織が言う。
「自分の弟をこんな風に言うのはおかしいかもしれないけど、誠司はあんまり良い男じゃないよ。素直じゃないし、甲斐性もないし、優しくない。すみれは温かい心を持ってる素敵な人だから、誠司とは全然釣り合わないよ。すみれにはもっと良い人がいるはず」
「……何を言ってるの?」
「すみれ、誠司のことが好きだったでしょう?」
私は思いっきり眉を八の字に歪めた。香織の前で演技をしなければならないことを忘れて。
「うちに頻繁に来てくれるのは、誠司に会うためなんでしょう?」
「……は?」
開いた口が塞がらなかった。一瞬、頭が真っ白になってしまった。
この人はずっと、私がそんなつもりで香織に会いに来ていると思っていたのか?
そんなくだらない理由で、私が何年もあの家に足を運び続けていると思っていたのか?
どうして、そんな風に考えられるんだろう。
仮に私が本当にそんな理由であの家に来ていたとして、香織は私を平気で受け入れられるものなのだろうか。
自分から左目を奪った女が、今度は自分の弟を奪うために頻繁に自宅を訪れてくる状況を、香織は平然と受け入れられるのだろうか。
香織は、私を何だと思っているんだ?
数秒間の沈黙の後、私は誤魔化すように微笑みながら、やっと口を動かした。
「……ねぇ、香織。どうしてそんな風に思ったの?」
「だって、すみれって、好きな男の子のことをぞんざいに扱っちゃうタイプの女の子でしょ?」
好きな男の子に限らず、私は大抵の人間のことをぞんざいに扱う。丁寧に扱うのは香織くらいだ。
「私が香織の家に来てるのは、香織のことが大切だからだよ。誠司のことなんかどうでもいいの」
私がそう言うと、香織はなぜか不服そうに唇を尖らせた。意味が分からなかったので、私は笑顔のまま何も言わずに香織の手を引っ張って歩き出した。
香織は私の考えていることを少しも理解していない。でも同様に、私も香織が考えていることを何も理解できていないのかもしれないと思った。
ショッピングモールからの帰り道、やっぱり脚本の最後のシーンを大幅に書き換えなければならないかもしれないと、私はずっと悩む羽目になった。
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