第4話

 体育館の天井あたりの高度から、体操着姿の佐伯の身体が落ちてくる。床につく前に、走高跳に使う大きなマットが佐伯の身体を受け止める。佐伯はそのままマットの上に横たわって、目を閉じた。銀髪のウィッグを被った女の子がゆっくりと床に降り立って、横たわる佐伯に駆け寄る。マットの上の佐伯を抱きかかえながら「アロマ! アロマ!」と泣きそうな声で連呼する。

 こうして実際に見てみるとだいぶシュールだな、という感想を抱く。全く緊張感がない。役者の二人が体操着姿で、シーンの中盤あたりからずっと下に大きなマットがあるのが見えていたからだろうか。本番では二人とも衣装を着るし、床のマットは照明を調整してできるだけ客席からは見えないようにする。本番同様に場を整えれば、それなりに見栄えするのかな。

 いや、そもそもの脚本に問題があるんだろう。白い女の子が急に飛び始めるのがあまりに唐突でついていけないし、アロマが落下してしまうのも急展開すぎる。

 でも、こういう不慮の事故は、急展開だからこそリアリティがあると思う。現実に起こる事故に伏線なんか張られていない。

 あのときだって、そうだったから。

 まさか香織が左目を失明するなんて、あの日の誰に予想できただろう。

 不幸は、何の伏線も前触れもなく、突然やってくる。

「お前、昨日俺ん家来てたの?」

 壇上から少し離れたところでしゃがみ込み、頬杖をつきながら佐伯たちの演技を眺めていた私の隣に、誠司が座ってきた。

 私は誠司に顔を向けないまま「うん」と答える。

「昨日、姉貴がやたらいい匂いになってたからすぐ気付いたわ。すみれが風呂入れてくれたんだなって」

「姉の匂いなんか嗅ぐなよ、きっしょ」

「はっ? い、いや、同じ家の中にいるんだから、匂いが変わってたら嫌でも気付いちゃうだろ。別にいつも嗅いでるわけじゃねえよ」

「どうだかね」

 演出担当の子が「カットー!」と響く声で言うと、佐伯は目を閉じて無表情だったところからすぐに笑顔に転じた。銀髪の女の子と何かを話しながら、マットから出ようと、足を大きく上げて歩いている。演出担当の子に何かを言われた後、私の視線に気付いたのかこちらを見て、控え目に手を振ってきた。

 私はやはり、苦笑いを浮かべて手を挙げるだけで応じる。

 今日になるまで、私は自分が書いた脚本がどのように演劇として形になるのかを、一度も見たことがなかった。

 今日はバスケ部の練習が休みで、壇上がある側の体育館の半分を演劇部で借りられることになった。緑の網で隔てられたもう半分ではバドミントン部が練習に励んでいるので、激しい足音やシューズと床が擦れる甲高い音で騒々しい。

 せっかく体育館で稽古ができる貴重な機会だから、ワイヤーを使った大掛かりなシーンの練習をしようということになった。さっきまでいつものように空き教室で脚本と睨めっこしていた私は誠司に「体育館を借りられる機会は今日が最後かもしれないから、さすがに今日くらいは来てもらわないと困る」と説き伏せられ、しぶしぶこの場に参加している。

「この脚本、どう思う?」

 私は正面を向いたまま、独り言のように言った。

「んー、まあ、いいんじゃねぇの」

「情報量ゼロの感想をどうもありがとう」

「あーいや、まあ、普通に面白くて良いと思う」

「まだ情報量がゼロのままだけど」

「なんていうか、高校の文化祭で見せても恥ずかしくないレベルではあると思う」

「本当に?」

「本当だよ。すみれがこんなしっかりした脚本書けるなんて、ちょっと意外だった」

「あのさ、私たち、もう他人行儀にお世辞を言い合うような間柄じゃないと思ってたんだけど、そう思っていたのは私だけだったのかな?」

「お世辞で言ってねぇよ。お前がお世辞だと思ってるからお世辞に聞こえるんだろ」

「じゃあ訊き方を変えよう」

 私は誠司に顔を向けた、ペットボトル飲料に口をつけていた誠司は、一瞬私と目が合うと、すぐに顔を背けた。

「この脚本の悪い部分ってどこだと思う?」

「悪い部分?」

 誠司はペットボトルの先端を顎にあてながら、天を仰いで少し思案した。

「う~ん……なんか、ひとつ思ったのは、アロマの考えてることがよくわからないなって」

「……へぇ。あんたにしては、なかなか鋭いね」

 ちょうど、私が最後のシーンについて迷っている理由と通ずる部分だった。

「アロマは天涯孤独の身だけど、お金はあるから生活には困ってない。街の人とも良好な関係を築けていて、一見すると幸せそうに見える。でも実は大きな寂しさを抱えていて、一人で生きていくことが不安で、毎日悩んでいる。そんなとき、あの白い女の子が現れて、アロマと一緒に暮らすことになる。女の子と暮らしていく中で寂しさを忘れ、アロマは本当の幸せを手に入れる。だけどある日、白い女の子は誤って上空からアロマの身体を落としてしまう。女の子に怪我を負わされたアロマは、女の子と口を利かなくなってしまう。しかし、実は白い女の子はアロマの母親の生まれ変わりで、正体は白鳥で、人間に化けてアロマに近づいていた。その真実を告げてもアロマは心を閉ざしたままで、ついに白鳥はアロマの家から出て行こうとする。そのときアロマは白鳥の手を取って引き止めて……、で、その後はまだ書いてないんだったよな。こういう認識で合ってるか? この話」

「うん」

 長いあらすじを語り終えた誠司はふっと息を吐いて、後頭部を手で掻いた。

「なんかさぁ、アロマが女の子を拒絶する理由が、あんまりわからないんだよな。アロマは大きな寂しさを抱えていて、女の子は唯一の家族なのに、ちょっと怪我させられたくらいで、なんで口も利かなくなっちゃうのかなって」

「怪我って言っても、アロマは左足が二度と動かなくなったんだよ? すごい大怪我じゃない?」

「それでも、たった一人の家族のことは大事にするだろ。母親の生まれ変わりだったっていうなら尚更だ。左足が一生動かなくなっても、俺は許しちゃうけどな」

「……そんなに不自然かな、そこって」

「うーん、アロマに一貫性がないように思えるんだよ。アロマは他人を求めているのか、他人を排除したいのか、どっちなんだかわからん」

「…………」

 きっとアロマは、今まで孤独だったからこそ、女の子を拒絶してしまうのだ。アロマは女の子にいなくなってほしいわけじゃない。今まで通りの関係性を維持していたい。でも、『怪我』という確執を抱えてしまって、以前までと同じようには関われなくなって。どうすればよいかわからず身動きが取れなくなった結果、拒絶してしまっているだけだ。

 アロマは女の子とともに暮らしたい。それがアロマの本心なら、最後のシーンではアロマが女の子に向かって気持ちをぶつけて、女の子と和解する展開にすればいい。アロマは寂しさを埋めてくれる存在として女の子を求める。そのまま、二人は森の中の屋敷で、末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし。

 あまり印象に残りづらい物語にはなってしまうけど、ハッピーエンドの形としては良いだろう。この終わり方に違和感を持つ人はたぶん少ない。誠司も、アロマが女の子を許してあげる展開のほうが自然だと思っているようだし。

 でも、もしもアロマが、女の子を憎んでいたとしたら。

 左足を奪った女の子のことを、アロマが心の底から憎んでいて、二度と顔も見せないでほしいと願っていたら。

 アロマは自分のもとから去っていく女の子を止めはしないだろう。いや、最後に憎悪の言葉を目いっぱい浴びせるために引き止めるかもしれない。そして、自分の屋敷からとぼとぼ離れていく女の子の姿を、せいせいした気持ちで見送るのだ。

たぶんこんな展開を見せられたら会場はざわつくだろうな。主演の女の子が最後にありとあらゆる罵詈雑言を言い放って、そのまま終劇、だなんて。あまりに高校の演劇部らしくない。

 しかし、納得できない展開というわけではない。アロマの立場になって考えれば、この展開も十分に自然だ。左足が動かなくなれば、アロマの生活はものすごく不便になる。何か支えがなければ立って歩くことができなくなる。女の子に抱きかかえられて見下ろしていたあの平原を、アロマは二度とまともに歩けないのだ。

 いくら肉親の生まれ変わりと言われても、一生消えない大きな傷をつけた相手のことを許せるだろうか。

 人生を大きく歪められたのに、許すことなんかできるのか。

「ていうかさ、この話ってもしかして——」

「なんだか楽しそうにお喋りしてるんだね。私も混ぜてよ」

 誠司が何か言おうとしたのを遮るように、佐伯が声をかけてきた。佐伯は微笑んで、私の隣に腰を下ろす。

「二人は本当に仲が良いんだね」

「え、いや別に……」

「でも、すみれちゃんがそんなにたくさん喋ってるとこ、私初めて見たよ?」

「は?」

「すみれちゃんは本当に誠司くんのことが好きなんだね」

 反射的に右手の拳を握ってしまったが、すぐに深呼吸をして心を落ち着ける。危ない危ない。こんなわかりやすい手に乗せられてはならない。

「誠司とは、高校入る前からの知り合いってだけ」

「そうなの?」

「ああ、まあ……」

 佐伯に目を向けられた誠司が、曖昧に頷く。

「な~んだ、私てっきり、二人は付き合ってるのかと思ってた」

「はぁ? こいつと付き合うなんて絶対あり得ないから」なんてベタベタな反応をしてやれるほど私はサービス精神旺盛じゃないので、私はその発言を無視することにしたのだけど、隣の誠司が「いやいや、こいつと付き合うなんてあり得ないって」とへらへら笑いながら言いやがったから、全てが台無しになった。

「あはは。そう言いつつ、本当は照れくさいだけだったり?」

「本当にないから。俺らは今更そういう雰囲気になれねぇよ。なぁ?」

「……知らない」

 付き合ってられなかった。二重の意味で。

「そういえば誠司くん、さっき演出の子に呼ばれてたよ」

「お、そうなの? じゃ、ちょっと行ってくるわ」

 誠司は立ち上がって、駆け足で壇上の演出担当のもとへ向かっていった。

 佐伯は、ずっと微笑んだままだ。

「で、本当は?」

「何が?」

「誠司くんのこと。本当はどう思ってるの?」

「ねぇ、そんなくだらない話をするために声をかけてきたの?」

「おぉ~。今日のすみれちゃんはちょっと怖いね。やっぱり図星だから?」

「……いい加減にしてくれる?」

「あっはは。ごめんごめん。許して~」

 佐伯は両手を合わせておどけたような口調で言った。私は引きつった苦笑いを返す。

「本当に聞きたかったのはね、私の演技のこと」

「…………」

「すみれちゃんが私の演技を見たのって、なんだかんだ今日が初めてだよね?」

「……一応、初めてではないけど」

「あ、昔はノーカンとして! 高校に入ってからは、初めてでしょ?」

 演劇部としては、佐伯の演技をちゃんと見たのは今日が初めてだ。この部活は大会での勝ちにこだわらないためか、年功序列の風習が根強い。だから、いくら佐伯が私より美人で演技が上手くても、一年生の頃はちょっとした端役でしか出演させてもらえていなかった。私がたまたま部室に顔を出したときにちょうど佐伯が演技をしているという場面に立ち会うこともなく、今日まで来てしまっていた。

「ねぇ、どうだった? 久しぶりに見た私の演技」

 ……まあ、その質問は確実に来るよな。

 これが嫌だったから、私は脚本担当でありながら今まで部室に顔を出していなかったのに。

 どう、と言われても。普通に上手いなぁとしか思わない。でも佐伯は「普通に上手かった」なんて言葉は望んでいないのだろう。「昔の私には及ばないけどなかなか良かったよ」と変な強がりを見せれば佐伯は笑ってくれるかもしれないけど、心は笑えないだろうから言いづらい。

「……私の思い描いていたアロマに、ぴったりハマってた」

 少し考えた末、脚本担当の立場から意見するのが最も無難だという結論に至った。

 しかし、無難な答えで満足してくれる佐伯ではないようで。

「もっと技術的な面から、どういうところがアロマにハマってると思ったの?」

 佐伯は身を乗り出すように私に質問してくる。

「声の抑揚のつけ方、とか?」

「……あ、あとは?」

「あとはー……本当に空を飛んでるんだなっていうのが、伝わってくる感じだったかな」

「だって実際に空中に浮いてるんだから、そう見えるに決まってるじゃん」

「め、目線の動かし方とか、良かったと思う。本当に下に森とか街の景色が広がってるんだなって、よくわかる感じだった」

「……な~んか、無理して言ってる?」

 佐伯がじとっと私を睨む。私は目を逸らしながら、身を乗り出す佐伯から身を引いた。

「だって……わかんないよ、演技の技術とか。あの頃だって、あんまりそういうの考えながらやってたわけじゃないし」

「え? でも、演技指導の先生が、そういうのきちんと教えてくれてたよね?」

「ああ、あれ、あんまりちゃんと聞いてなかったんだよ。人から指図されるの、嫌いだったし」

 あの頃の私には素直さというものが決定的に欠落していた。誰の話にも耳を傾けていなかった。世界の物事の全てが、自分の中だけで完結していた。

「……私は、あの頃からちゃんと教えられたことに従って、しっかり努力してたけど」

 ぼそりと、か細い声で吐き捨てるように佐伯が言う。私に聞こえないように言ったのかもしれないけど、ばっちり全部聞こえてしまった。

「い、いや、でも、昔とは見違えるような演技だったよ。ちゃんとあれから努力してきたんだなっていうのが、しっかり伝わってきた」

「本当にそう思う?」

「うん。佐伯さんは本当に上手くなったと思う」

「でも、今のすみれちゃんのほうが、私より上手いんじゃないかな」

「いや、私はもう役者やってないから」

「……本当にやってないの? 演劇部ではやってないだけで、他の劇団に所属していたりは……」

 佐伯は、少し悲しそうな目で私を見る。

「何もやってないよ」

 私がはっきりと答えると、佐伯は悲しげな表情のまま俯いた。

「ねぇ、すみれちゃん……あのね」

「うん。なに?」

「すみれちゃんは、あのときどうして、劇団を抜けちゃったの?」

「…………」

「私てっきり、もっとハイレベルな人たちが集まる劇団に移ったのかと思ってた。すみれちゃん、私たちとは比べものにならないくらい上手かったから。……でも、違うんだよね」

「……うん。私は完全に演劇をやめた」

「どうしてなの? あなたほどの才能がありながら、急にぱったり辞めちゃうなんて……」

「あのときは、自分に才能があるなんて思ってなかったから」

 嘘だ。あの頃は自分のことを天才だと信じ切っていた。それでも夢を諦めなければならないことが起きたのだ。

「あるとき、自分の限界がなんとなく見えちゃったんだよ。私はこれ以上演技が上手くなれないのかもしれないって思ったら、なんか全部どうでもよくなっちゃって」

「……嘘だよね? すみれちゃん、そういうタイプじゃなかったでしょ。自信家で、孤高で気高くて、まわりを寄せ付けずに我が道を行く人だった。ある日突然熱が冷めるような人だとは思えない」

「…………」

 私が押し黙っていると、佐伯は上目遣いで私を見上げた。その静かな湖面のような双眸に、私の仏頂面が映り込んでいる。

「本当は、何があったの? 何があったら、あなたが演劇をやめるなんて天変地異にも等しいことが起きるの?」

「…………」

 しばらくの間、黙って佐伯と見つめあう。

 嘘じゃない。私は本当に、自分の才能に限界を感じたから演劇を辞めたんだ——さっさとそう口にしてしまえばいいのに、なぜか声が出てこない。

 まさか、私は迷っているのか? この女に、あの出来事について——私が香織の夢を奪った事実について話すのを、迷っているのか? いや、話すなんて選択肢はもとよりないはずだ。どうせ話したってこいつには理解できない。「なんでそれが夢を諦めることに繋がるの?」と、本気で不思議そうな顔をして首を傾げるだろう。香織が、私は俳優を目指しているものだと思い込んでいることまで話したら、無理矢理にでも私に演劇を再開させようとするかもしれない。

 どうせ、何も経験していないこいつには、私の気持ちは理解できない。

 佐伯は、私を馬鹿にしたいわけじゃないのかもしれない。本当はただ、私と演劇の話がしたいだけなのかもしれない——話している内にそんな考えが胸の内に生まれて、危うくあの出来事のことを話してしまいそうになった。

 それとこれとは話が別だ。

 佐伯が私の味方だったとしても、私の気持ちを理解できるとは限らない。

「……別に、何もないよ。私は本当に、自分の才能に限界を感じたの」

 私が言い終わるのと同時に、壇上のほうから「佐伯さーん!」と誠司の呼ぶ声が聞こえた。

「ワイヤーの準備できたから、とりあえずもう一回やってみよーって!」

 誠司が声を張り上げて、佐伯を呼んでいる。

「ほら、行ってきなよ」

 佐伯は壇上と私の顔を何度か交互に見た後、不満げな表情のまま、壇上のほうへと走って行った。私も立ち上がって、体育館から出ていく。

 校舎への連絡通路を歩く。グラウンドのほうから、運動部たちの掛け声や笛の音が、ぼんやりと聞こえた。

 テニスコートのほうをふと見やる。ラケットを持った女の子三人が寄り集まって、楽し気にお喋りしていた。

 高校の部活なんて、九割以上の人は人生をかけて取り組んでいるわけじゃない。

 高校生が部活に励むのは、友達がほしいとか、思い出作りがしたいとか、モテたいとか、そういう理由が大半だろう。

 本気で夢を追って活動している人は、ほとんどいない。

 私が演劇部に入ったのも、ただなんとなく、学校生活の中で、帰宅部だと何かと不利になることが多いかもしれないと考えたからだった。

 別に私は、もう一度俳優を目指そう思って入部したわけじゃない。

 それなのに、佐伯や香織は、私がまだ演劇に未練があるかのように思っている。

 私に、演劇を続けてほしいと願っている。

 当の私には全くその気がないというのに。

 結局、人は他人の気持ちを想像することしかできない。他人の気持ちを理解することなんてできない。たまたま想像が実際と合致したときに、理解できたと勘違いするだけだ。

 佐伯に、今の私には演劇ができないといくら言って聞かせても、佐伯は私の演劇ができない理由を理解することはできないだろう。

 もう、何も言わないでほしいと思った。

 これは私の人生なのだから。

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