第2話

 本当にこんなので大丈夫かな、と思う。

「脚本、何か変更点があったら、教えてね」

 突然、背後から声をかけられて、びくっと肩が震えた。

振り返ると、体操着姿の佐伯が微笑んでいた。私が机の上に広げた脚本の原稿を覗き込んでいる

 佐伯は普段から少し声が大きめだから、ちょっと声をかけられるだけで普通よりびっくりしてしまう。

「まだ本番まで一か月くらいあるんだから、今なら大きく方針転換しても大丈夫だと思うよ」

「いや、別に変更したいところがあるわけじゃなくて……」

「じゃあ、どうしたの? そんなに難しい顔しちゃって」

「……なんか、この話、あんまり面白くないような気がして」

 私が言うと、佐伯さんは優しげに目を細めた。

「私は面白いと思ったよ、すみれちゃんが考えた話」

 まるで一切の嘘偽りが含まれていないかのように見える佐伯の不気味な笑顔を見ていられなくて、私は顔を俯かせた。

「それに、今回は大会のための脚本ってわけじゃないんだし、そんなに肩肘張らなくてもいいんじゃないかな」

「……でも、人に見せる以上は、しっかりしないと」

「あはは。すみれちゃんって本当に真面目だよね」

 佐伯は言いながら、私の手から脚本を奪い取って、原稿用紙をぱらぱらと捲った。最後のページに差し掛かったところで、その手が止まる。

「最後のシーン、まだ書き終わってないんだ」

「まあ……ちょっと色々、考えることがあって」

「いや、別に急かしてるわけじゃないよ。まだ時間はたっぷりあるわけだし、好きなだけ悩んだらいいと思うけど」

 ぱたりと脚本を閉じて、私の机に戻す。

「脚本の変更点だけじゃなくて、私の演技について何か要望があったら、遠慮なく言ってね。ほら、私よりすみれちゃんのほうが、演技上手いわけだし」

「今は、そんなことないと思うけど」

「そうかな? でも、今度すみれちゃんに私の演技をしっかり見てもらいたいな。もう演劇はやめちゃったのかもしれないけど、アドバイスはできるでしょう?」

「……まあ、気が向いたら」

「そう? じゃあよろしくね。私はもう部室にもどるから。またね」

「うん……じゃあ」

 佐伯さんは教室の扉の前で立ち止まり、こちらに向かって笑顔で手を振った。私は苦笑いを浮かべて、片手を挙げるだけでそれに応じる。しばらくしたあと、廊下を覗き込んで佐伯の姿がないことを確認してから、教室の扉を力いっぱい閉めた。バン、と想像以上に大きな音が鳴って、自分がどれだけ苛々していたのかを知った。

「だるいな、あいつ」

 昼間の教室。窓際の席の一つに座りこむと、思わずそんな独り言が口をついて出た。教室には私以外に誰もいない。黒板に書かれた日付は、七月の二十七日で止まっていた。今はその日付から約一か月後、八月の終盤。そろそろ夏休みが終わる。二学期が始まってから更に一か月が過ぎると、いよいよ文化祭だ。

 高校に入ってすぐの頃、私は演劇部に入部した。昔に演劇をやっていたことは別に関係ない。中学ではソフトテニス部に入って地獄を見たから高校では文化部に入ろうと考えて、唯一やっていけそうだと思えたのが演劇部だった。しかし、今ではその選択を少し後悔している。

 私は未だに、演劇部に馴染むことができていなかった。

演劇部では大きく分けて二つの派閥がある。即ち、役者志望でキラキラ華やか路線を目指している連中と、オタクっぽくてシナリオやら演出やらに異常にこだわる連中。私はそのどちらにも迎合できずにいた。私は役者を一度諦めているから役者志望の人たちには近寄りづらかったし、オタク趣味なわけでもなく特有のノリも理解できない私にはもう一方の派閥に入ることも厳しかった。

だから一年生の後半あたりから部室に顔を出すことは徐々に減っていたのだけど、今年の七月頭に行われたミーティングの際、文化祭で行う劇の脚本を、なぜか私が担当することになってしまった。

そんな面倒な役回りに、私が自ら立候補するわけがない。佐伯が私を推薦したのだ。ミーティングの終盤、脚本を担当する人だけがなかなか決まらなかった。そこで何の仕事も担当していなかった私を佐伯が目ざとく見つけて、「すみれちゃんは国語の成績が良いから」と、私に何の相談もなしにその場で急に私を推薦した。私が反論を用意する暇もなく、私が脚本と監督を務めることがとんとん拍子で決定してしまった。

 佐伯は、私が脚本を担当することになってから頻繁に私に喋りかけてくるようになった。部活では劇についての相談をしてくることが多いけど、普段の教室では友達とするような雑談を私に吹っ掛けてくる。一年生の頃はクラスが違ったし、佐伯さんはキラキラ華やか派閥の中でもさらにキラキラしている部類だから、私たちはほとんど話したことがなかった。でもきっと、佐伯は一年生の頃から私に目を付けて、近付く機会を窺っていたのだと思う。

 佐伯は、私が幼少時代——八歳のときまで所属していた劇団の元メンバーだった。あの頃の私は、出演する劇では必ず主演かそれに準ずる重要な役を演じていた。劇団の中で、私より演技が上手い子は一人もいなかった。私が一番上手かった。なのに、八歳のとき、私は何の説明もなしに突然劇団を辞めた。

 あの劇団にいた頃、佐伯は私に次いで二番目に上手い子だった。自分より演技が上手くて、かつ自分勝手に振舞っていたあの頃の私に、佐伯が良いイメージを抱いていたとは思えない。

 今の演劇部の中では、佐伯が最も演技が上手い。いわばエースだ。対する私は役者ですらない。裏方で重要な役目を担っているわけでもない、ただの平部員。

 佐伯はきっと、私のことを馬鹿にしたいんだろう。一度諦めて、全てを投げ出した私に対して、今まで腐らずに続けてきた自分の演技を見せつけたいのだろう。あの頃さんざん見下してきた私を、今こそ見返してやりたいのだろう。

 だから佐伯に脚本が面白いだとか性格が真面目だとか言われても、私はただただ不快でしかなかった。佐伯からの褒め言葉はすべて、私を馬鹿にしているようにしか聞こえない。

「……はぁ」

 せっかく部室から遠い教室を選んで一人でゆっくりと脚本の推敲をしようと思っていたのに、佐伯に邪魔されたせいでなんだか集中力が切れてしまった。脚本と筆記用具を鞄にしまって、席を立つ。

 本来は一度部室に立ち寄って何らかの挨拶をしてから帰るべきなんだろうけど、私はそのまま昇降口に向かった。どうせ部室に戻ったって、役者の連中が稽古だか遊びだか曖昧なことをキャッキャと笑いながらやっているだけだろうし、そこに私が来たら楽しい空気を壊すことになってしまう。それなら、何も言わずに帰ったほうがいい。

 夏休みで閑散とした駐輪場から、自分の自転車を引っ張り出す。すると、前かごに見覚えのないビニール袋があるのを見つけた。

 思わず舌打ちが漏れる。

 ビニール袋の中には、ペットボトルのミルクティーに、可愛らしい丸文字が書かれた付箋が貼ってあった。

「たまには直接演技指導してほしいです、佐伯……」

 私は付箋をぐちゃぐちゃに握りつぶした。紙屑をスカートのポケットに突っ込んでから、ミルクティーを半分になるまでがぶ飲みした。炎天下に晒されたペットボトルは結露によってびちゃびちゃで、生ぬるくなっていた。

 どれだけ人のことをおちょくれば気が済むんだろう、あの女は。

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