第3話

 緩やかなカーブを描く山沿いの坂道を、自転車のペダルから足を離したまま下っていく。雲一つない快晴の青空からの熱波を受けて、アスファルトの表面では陽炎がゆらゆらと揺れている。こうして自転車で滑走していれば、少しはその暑さから身を逃れることができたけど、土の香りと湿気を多く含んだ風は肌触りが悪くて、心地よくはなかった。

 石段が見えてきたところで、両手でぐっとブレーキを握った。足の裏と地面を擦り合わせながら、徐々に減速していく。ちょうど石段の前で停止して、私は自転車から降りた。

 山の木々の間を縫うように、ピアノの音色がうっすらとここまで届いてきた。軽やかで美しい、楽し気な音色。

 自転車を押しながら、石段の脇にある獣道を進んでいく。山林の中にひっそりと佇む日本家屋の前に自転車を駐輪して、インターホンを押し込んだ。

「…………」

 いつもと同じく、返事はない。ただ、ピアノの演奏は依然鳴り止まなかった。

 私は鞄の中から鍵を取り出して、扉に差し込んだ。建付けの悪い横開きの玄関扉を、一度引っ掛かりながらもなんとか開く。

「お邪魔します……」

 形骸化した挨拶を呟いて、靴を脱いで框から上がる。玄関はがらんとしていて、セミの鳴き声とピアノの音色以外には何の気配もなかった。

 玄関から正面にある階段を上る。ピアノの音はどんどん近づいている。二階に上がってから廊下を進み、最奥の部屋の扉を開けると、冷房の冷気が一瞬で私の身体を包み込んだ。

 同時に、ピアノの演奏も止まる。

 部屋の中心でひと際強い存在感を放つ、黒いグランドピアノ。その鍵盤の前に座っている女性が、こちらを振り向いた。

「……来たの」

「うん。さっき連絡したんだけど」

「携帯、あんまり見ないから」

 彼女——香織は言って、一度大きく伸びをしてから、ピアノ椅子の上に仰向けに寝転んだ。長い足を椅子から投げ出して、ゆらゆら揺らしている。

「何か買ってきてくれた?」

「うん。香織が好きなやつ」

 私は自分の鞄の中から、チョコレートの箱を取り出した。ホワイトチョコレートの四角い粒が九つ入っているもの。香織は昔からこのチョコレートが大好きだった。昔は年上のお姉さんらしく、年下の私にいくつか分けてくれたものだけど。

「ありがと」

 香織は私の手から箱を受け取ると、箱の中のチョコレートを全て一気に自分の口の中に流し込んだ。ハムスターのように頬をでこぼこと膨らませて、ぼりぼり咀嚼する。既に見慣れた光景だけど、そういえば香織がいつからそんな豪快な食べ方をするようになったのか、よく思い出せない。

 少なくとも、『あれ』が起こった以後のことだとは思うけど。

「……香織、またお風呂入ってないの?」

「何? そんなに臭かった?」

 長い時間をかけてチョコレートを呑み込んだ香織に問うと、香織は自分の腕を鼻に近づけた。臭いを感じたわけじゃない。冷房の効いたこの部屋に一日中いれば身体はそれほど臭くならないだろう。三日前に訪れたときから香織の着ている服が変わっていないのと、その長い髪が明らかにパサついていたからだった。

 今の香織はほとんど引きこもりになっている。私か香織の母親が一緒についていれば外に出れるけど、一人じゃ近所のコンビニすら行けない。今の香織は何年も美容院に行けていないせいで、髪が長くなりすぎていた。定期的に私が少し切ってあげているけど、本格的に切ろうとすると素人の私では最終的におかしな髪型に仕上がってしまうかもしれないから、いくらでも修正が利くような長い髪をキープしておくしかなかった。

「臭いわけじゃないけど……」

 いくら一歩も外に出ていないからって、シャワーは毎日浴びないとダメだよ——と、そう後に続けようとしたけれど、声には出さなかった。私にそんなことを言う資格はない。

 いったい誰のせいで、香織が一人で風呂に入れなくなったと思ってるんだ。

「私が身体洗ってあげるから、お風呂場、行こう?」

 ピアノ椅子に寝転んだ香織は、こちらに視線を向けて、少し顔をしかめた。たとえ私が面倒な工程を全て引き受けたとしても、香織は風呂場を嫌がる。

 鏡のある部屋を、香織はとても嫌がる。

「鏡が見えないように、ずっと下を向いていても大丈夫だから。私が全部やってあげる」

 香織は仰向けの状態から身を起こして、消え入りそうな声で言った。

「うん、まあ……いいよ、全部すみれがやってくれるなら……」

 私は香織の手を握った。軽く引っ張って、香織を立ち上がらせる。あの頃は下から香織を見上げるばかりだったけれど、いつからか私たちの視線の高さは同じになっていた。

 なんとなく香織の目を見つめていると、香織は少し怯えたような表情で、私の目を見つめ返した。

 しかし香織の左目は、私を見つめ返すことはできない。この先ずっと、私と目を合わせることはできない。

 私のせいで。



 裸になった香織が、鏡と私に背を向けて風呂場の椅子に座る。香織は顔を下向けて床を見つめていて、丸まった白い背中に骨がくっきりと浮き出ていて痛々しかった。私と香織の体格はほとんど同じだけど、たぶん体重は香織のほうがずっと軽い。私も年頃の女子としてそれなりに体重を気にしているけれど、香織を羨ましいとは思えなかった。

 香織がここまで痩せてしまったのも、元をたどれば私に責任があるのだろうから。

 制服を脱いで、上半身は下着のみで下半身は体育着の半パンというよくわからない格好になった私は、香織の頭からシャワーを浴びせた。長い髪の間に指を通しながら、満遍なく水を通していく。

 シャンプーを手の中で少し泡立ててから、香織の髪に触れる。頭皮を指の腹で撫でるように擦りながら、泡を大きくしていく。充分に泡立ったら、頭皮から髪の毛先にかけて、髪全体に泡を馴染ませていく。

 その間、香織は一言も喋らない。身じろぎひとつしない。この時間が早く終わることだけを考えて、私の集中を乱さないようにしているのだろう。でも香織は自分の身体を洗われるのが嫌いなわけじゃない。身体を洗った後はいつもすっきりした表情になるから、むしろ身体を洗うのは好きなんだと思う。

 香織はとにかく、一秒でも早く風呂場から出ていきたいのだろう。

 鏡のある部屋にいたくない。

 香織は自分の顔を見ることをトラウマ的に恐怖している。

 それは主に、私のせいだった。

 私が香織に与えた傷のせい。

 香織の髪を指で挟んでトリートメントを染み込ませながら、あれからもう九年も経つのかと、ふと感慨にふける。

 九年前——私が八歳で、香織が十二歳だった、あの日。

 あの日、私に石段の上から突き落とされた香織は、頭から血を流して意識を失った。防犯ブザーを鳴らしてからのことは、あまり記憶にない。きっとあの後、防犯ブザーの音を聞いた大人がやってきて、救急車によって香織は病院に運ばれたのだろう。それから大人たちによる複雑なやりとりがあって、色々な人の協力があって、香織は一命をとりとめた。その過程を私は何も確かなものとして覚えていないけれど、とにかく。

 次に蘇る記憶は、香織の部屋で——大きなグランドピアノのせいで窮屈なあの部屋で私と対面した香織の、ひどく悲しげな表情だった。

 香織の左目は、白くなっていた。

 以前のような、くっきりとした日本人らしい黒い瞳が、なくなっていた。眼球全体が白く濁っていた。

 香織は、左目を失明していた。

 視界の半分を失っていた。

 私は誰に言われずとも、すぐに理解した。

 私のせいだ、と。

 香織から左目を奪ったのは、他ならぬ私なんだと、すぐに理解した。

 ベッドの上で、悲しそうな表情で私を見つめる香織の前で、私はみっともなく泣き喚いた。神社で香織に向かって駄々をこねていたときとは全く違う泣き方だった。八歳の私は、香織の左目を取り戻すことはできないのだと理解していた。私がいくら泣いて駄々をこねたって、大人たちはこの問題を解決できないのだと理解していた。だけど私は泣いた。泣いても意味がないとわかっていても泣くしかなかった。

 そのすぐ後、私は演劇を辞めた。香織が観に行けないと言っていた公演への出演も辞退した。所属していた劇団から抜けた。二週間ほど学校を休んだ。その間、家でじっとしていることもできず、学校に行く気力も湧かず、私は毎日香織の部屋を訪れていた。香織は私を歓迎するわけでも迷惑そうにするわけでもなく、ただ無言で受け入れた。私は香織のそばで、ずっと泣いていた。

 香織はピアノの演奏会を欠席した。それまで通っていたピアノ教室も辞めてしまった。片目だけで楽譜と鍵盤の両方を見ようとすると、強烈な頭痛に襲われるらしい。しばらく学校を休んだけれど、香織は眼帯を巻いて学校に復帰した。卒業式の日も眼帯を外さないまま、香織は小学校を卒業した。

 中学校に入ってからは、コンタクト型の義眼を付けて登校していた。それでも、ふとした瞬間に、いつ自分の白濁した左目を見られるかわからない恐怖に苛まれて、学校は休みがちになった。三年生の頃には一年の半分しか登校できなくなっていた。卒業後は通信制の高校に進学して、今は地元の大学に通っている。大学でも授業に出ることは難しく、二年生から三年生に進級することができず、今は二度目の二年生として大学に通っている。

 九年前のあのとき、あの瞬間から、香織の人生は歪んでしまった。

 私が香織の人生を歪めてしまった。

 香織は私のせいでまともに学校に通うことすら叶わなかった。なのに、私は普通に中学校を卒業して、普通の公立高校に通っている。その事実が、何か大きな間違いのように思えることがある。

 高校の授業中、自分が教室の席に座っていることがとんでもなく罪深い行為のように思えて、何度も吐きそうになる。

 香織は私のせいで高校に行けなくなったのに、どうして私は平然と高校で授業を受けているんだろう。

 私みたいな悪人が、どうして普通の学校に平気で通っていられるんだろう。

 本来、私はこんな人生を歩んでいい人間じゃないはずなのに。

「ねぇ、すみれ」

 トリートメントを乾かしていると、香織が不意に話しかけてきた。両膝に肘をのせて背中を丸めた姿勢のまま、背後の私に向かって。

「すみれは、高校卒業したらどうするの?」

「えっ……えっと、なんで?」

「最近、誠司が大学をどこにするかで悩んでるみたいだから、少し気になって」

 誠司、というのは香織の弟のことだ。私と同い年で同じ高校に通っていて、演劇部に所属している。

「まだ二年生なのに?」

「もう二年生だからじゃないの? 普通の高校生のことは、私にはよくわかんないけど」

 うちの高校は二年生の三学期を『三年生ゼロ学期』と呼んだりするような学校ではない。実際、クラスの同級生を観察していても、あまり進路に積極的な印象は見受けられない。

 特に誠司なんて、将来のことを真剣に考えているとは到底思えなかった。演劇部に入ったのも、新歓のときに美人な役者の先輩を見つけて、その人に少しでも近づきたいからという短絡的な理由だった。

「誠司は、県内に残るか県外に出るかで悩んでるみたい」

「へ~」

 高校を卒業したらここから出ていく選択肢があるのか、とそこで初めて気付いた。子供の頃からなんとなく、自分はこの土地で働いてこの土地で家庭を築いてこの土地で死んでいくのだと思っていた。ここではない土地——東京や関西で生活している自分を今まで想像したことがなかった。今改めて考えてみても、全然具体的なイメージが湧かない。

 そもそも、この土地を出ていかなければならないような、確固たる理由がない。

「誠司は、たぶん東京に行くんじゃないかな」

「まあ、うん。私もそう思う」

 誠司は思慮が浅くて刹那的で計画性がないから、県外に出る選択肢があったら、ただ面白そうだというだけでそれを選び取るだろう。

 逆に、この土地に留まらなければいけない理由もないのだし。

 誠司はおそらく県外に出ることは以前から既に決めていたのだろう。最近悩んでいるように見えるというのは、親を納得させるために、きちんと悩んで決めたというポーズをとろうとしているだけだ。あいつはそういう無意味で気色悪い段階を踏む男だから。

 そろそろいいかな、と思って、私はトリートメントを洗い流すために、シャワーヘッドから水を出した。

「すみれも、東京に行くんでしょ?」

「えっ、な、なんで?」

 なぜか断定するように言われて、少し驚く。私、上京したいなんて言ったことあったっけ。

「すみれは、俳優を目指してるんだから」

「え……」

 俳優?

「俳優を目指すんだったら、東京に出ないとだよね。上京した先で養成学校に通ってオーディション受けて、みたいな感じでしょ? あまりよく知らないけど」

 まるでなんでもないような口調で、香織は続けた。そんな、まるで当たり前の前提みたいに言われても。

 俳優になりたい、と言ったことは一度もない。

 香織の前で、そんなことを言えるわけがなかった。

 いや、わからない。今から九年以上前は——あの出来事が起きる以前には、言ったことがあったかもしれない。劇団に所属していた頃の私は、確かに将来は俳優になりたいと考えていた。まわりの同級生がプロスポーツ選手やアイドルに憧れるのと同じように、私は俳優に憧れていた。

 でも九年前のあのとき、私は演劇を辞めた。あのまま演劇を続けるには、私の気持ちが追い付かなかった。

 香織から「プロのピアニストになりたい」という夢を奪った私が、そのまま自分の夢を追い続けられるはずがなかった。他人から夢を奪った人間が、自分の夢だけはずっと大事に抱き続けるのはおかしい。そんなのは間違っている。その間違いを間違いと認めたまま、それでも夢を抱き続けられるほど、私は図太い神経の持ち主ではなかった。

「……私、俳優になりたいなんて、喋ったことあったっけ」

「高校で演劇部に入ったって言うから、また俳優を目指し始めたのかと思ったんだけど。違った?」

「演劇部では、役者をやってるわけじゃないよ」

「そうなの? どうして?」

 どうしてと言われても……。香織なら容易にその理由を察せられるだろうに、なんでそんなことを訊くんだろう。

 正直に答えてもいいけれど、なんとなく言い出しづらかった。香織とあの出来事についてちゃんと話したことは一度もない。いちいち口に出さなくても、香織の左目が象徴としてそこにあるからだ。香織が私に白濁した左目を見せれば、何か言葉を交わさなくても、二人の間であの出来事についての認識を共有できる。

 私に頭からシャワーを浴びせられている香織の顔は、長い黒髪と水で出来たカーテンによって覆われていて、どんな表情なのかは窺えない。

 香織は、あの出来事についての話になるとわかっていて質問したのだろうか。

「……下級生は、役者として立候補してもなかなか出させてもらえないんだよ。それに、裏方も、やってみると案外楽しくて」

 私はそう言ってはぐらかした。あの出来事については言及しなかった。香織はほとんど間を空けずに「そうなんだ」と相槌を打った。

「でも、すみれは絶対役者に向いてると思うけどなあ。昔、劇団にいた頃はほんとに演技上手かったし、今はこんなに美人さんになったし」

「…………」

 香織はどういうつもりでそんな皮肉を言ってるんだろう。

 確かに私は演技が上手い。劇団を辞めた後だって、私は演技が上手いままだ。演技をしていなければまともに会話が成立しないような相手の家に、何度もこうして訪ねてきているのだから。引きこもりの香織の話し相手になっていれば、嫌でも演技は上達していく。

 それに、香織に美人だと言われても全然嬉しくない。私より香織のほうが美人だからだ。本人は左目から黒い瞳が失われてしまったから自分の美しさは地に落ちたと考えているかもしれないけど、私にはそう思えない。

 ……いや違う。深読みのしすぎだ。冷静になれば、香織が皮肉のつもりで言ったわけじゃないのはわかる。佐伯とかいう性悪女のせいで、人の発言の裏を考える癖がついてしまったかもしれない。

「……演劇部には、もっと美人な女の子がたっくさんいるんですよ~」

「でも、すみれより美人で演技が上手い子は、きっと一人もいないんじゃないのかな」

 いる。あの佐伯とかいう女は、私より美人で演技が上手い。本人もそれを自覚しているからこそ、私にしつこく絡んでくるんだ。

「演劇部にもそういう子はいるし、東京に行ったら掃いて捨てるほど多くいるだろうね」

「……すみれ、本当は俳優になりたくないの?」

 私が消極的なことばかり言ったせいか、香織が不安げに言った。

 正直にない、と答えることはできなかった。ここまでの発言から、なぜか香織は私に俳優を目指してほしいらしいことが伝わったからだ。でも、俳優になりたいと答えることもできなかった。香織の夢を奪った人間として、それを言うことはできなかった。

 私は黙ったまま、タオルの中でボディーソープを泡立てた。たっぷり泡が付いた両手で、後ろから香織の胸を鷲掴みにした。

 ずっと丸まっていた香織の背中が、一瞬でピンと伸びた。

 そのときの香織の色っぽい声をネタにして笑っていたら、自然と話題は逸れて、もう香織が演劇の話を振ってくることはなくなった。

 もし、本当に香織が、心の底から私に俳優を目指してほしいと思っていても。私が夢を追うことを、香織が許していても。

 私が俳優を目指すことは、絶対にない。自分の中で、そう強く断言することができた。

 香織の気持ちがどうなのかは、きっと本質的な問題ではない。

 これは、私の気持ちの問題だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る