第8話
衣装から制服に着替え終えて体育館に戻ったが、香織の姿はどこにも見当たらなかった。すると後ろからついてきた誠司が「姉貴ならもう帰ったぞ。こういう人混みは嫌いだからな」と教えてくれた。まだ午前中だったけど、私は荷物をまとめて駐輪場に向かった。いつもより騒がしい校門付近を抜けて、自転車に跨る。
一刻も早く、香織から劇の感想を聞きたかった。
どんなことを言われるのかはわからない。真顔で「全然面白くなかった」と言われてもおかしくないし、気まずそうな苦笑いで「まあ、良かったんじゃない?」と言われることもあり得る。あれ、悪い想像しかできないぞ。
山沿いの坂道を滑走して、赤い鳥居が見えてきたところでブレーキを握る。石段の脇にある獣道を進んで、インターホンを押した。案の定返事はない。鍵のかかっていない玄関扉を開いて、階段を上がる。
そして、廊下の奥にある扉を開けた途端。
ジャーン、と。グランドピアノの派手な音が響いた。曲のフィナーレを示すような、終わりの音。
「文化祭、行かなくていいの?」
ピアノ椅子に腰かける香織が、首だけでこちらを振り返った。
「いいの。どうせ行きたい展示ないし、一緒に回る友達もいないし」
「誠司と二人で回ればよかったのに」
「佐伯に悪いでしょ」
「私は、あの佐伯って女よりもすみれのほうが好きだよ」
香織の右目は、真っ直ぐに私を見つめている。茶化すような雰囲気はなかった。
「でも誠司は、私より佐伯のほうが好きなんだよ」
小学生や中学生の頃は、なんとなく誠司は私のことが好きなんだろうと思っていた。私が香織を訪ねるたびに誠司は頻りに私に話しかけてきたし、学校でも誠司からの視線を感じることが多かった。誠司から好意を向けられていることを感じて、私は傲慢になってしまっていたのかもしれない。一人の男から好意を向けられるほど自分には価値があるのだと、勘違いしてしまった。だから私は、自分を省みることを怠ってしまった。
今の私は、まだまだ幼い。視野が狭くて、くだらないことに意固地になって、拗ねて、まわりの人に八つ当たりをして、自分の思い通りにならないことに苛立つ。私はそういう、幼稚な人間だ。
だから佐伯みたいに、まわりに気を遣えて、私みたいな人間にも居場所を与えようとしてくれて、逆境に屈せず自分の力で道を切り開こうとしているような人間が、私は気に入らないんだ。幼稚な私は、そういう人に対して、どうしようもなく嫉妬してしまうから。
佐伯のほうが私よりも大人で、良い女だ。だから誠司は正しい選択をしたと思う。
「ねぇすみれ、こっちおいで。一緒に弾こうよ」
香織が椅子の端に尻を寄せて、空いたスペースをとんとんと叩いた。私は香織の隣に腰掛ける。
「私、ピアノ弾いたことないんだけど」
「大丈夫。別に楽譜通りに弾かなきゃいけないルールはないから。今日だってアドリブしてたんだし、こういうの得意でしょ?」
「いや、あれはアドリブっていうか……」
どうしてあれがアドリブだってわかったんだろう。
「私が何か弾くから、すみれはなんとなく合いそうな音を出してみて」
香織は何かの合図のようにジャンと両手で鍵盤を叩いた後、鍵盤の左側から右側へと指を走らせるようにしてどんどん音階を上げていって、綺麗な音色を奏でる。私もなんとかタイミングを見つけて、一音ずつ音を挟み込んでみた。
「うん、センス良いね、すみれ」
香織の演奏は、いつも雄大で壮麗だ。香織は、ピアノ弾いているときだけは自信満々な様子を見せる。
あらゆる縛りから解放されて、真の自由を謳歌しているような。そんな笑顔で、香織はピアノを演奏する。
左目を失明した後も、香織はこのグランドピアノを部屋から撤去しなかった。この九年間、香織は暇さえあれば鍵盤に触れていた。だけど、香織がコンサートホールのグランドピアノに触れたことは、あれから一度もなかった。
——香織さんがピアノを辞めたのは、すみれちゃんのせいじゃないよ。
ふと、佐伯の言葉を思い出す。
私のせいじゃないとしたら、何が原因なのだろう。
「香織は、ピアノが嫌いになったの?」
「嫌いじゃないよ。ピアノは好き」
「じゃあ、どうしてピアノを辞めたの?」
「ピアノが好きだったから、私はピアノを辞めたの。私は、自分の大好きなものを嫌いになりたくなかった」
好きなものだからこそ、手放す。
アロマが白鳥を突き飛ばした理由と、それは同じなのだろうか。
「私、大学やめることにした」
ピアノの演奏が終わった後、ピアノの残響に紛れて、香織が不意に言った。
「どうせ今年はもう留年確定してるし、このまま大学に籍を置いていても意味がないように思えるから。それで、この家も出て行くことにした」
「…………」
「私ももう、いい加減に一人で生きていく術を身に付けるべきだと思う。いつまでも、家族やすみれに迷惑をかけていたくないから」
「……迷惑だなんて、思ったことないけど」
「別に、無理してそんなこと言わなくていいよ」
「無理してない!」
思いのほか大きな声が出てしまって、自分でも少し驚く。
「ど、どうして急に、そんなこと言い出すの。家から出て行くなんて」
「急ってわけじゃない。けっこう前から考えてはいたの。このままずっと大学生の身分に甘えていても、一歩も前に進めないなって」
「香織が一人暮らしなんて、できるわけないよ」
「すみれは、私にここを出て行ってほしくないわけ?」
「…………」
私は俯いて押し黙ることしかできなかった。
香織と離れたくないというのは、紛れもない私の本心だった。
いや、離れたくない、なんて柔らかくて簡単な言葉で表現するべき感情ではない。
私はあれからずっと、香織のために生きてきた。あの事故の責任をとることを生きる理由にしてきた。香織の世話をすることが、私の生きる理由だった。
なのに、香織が私の前からいなくなったら、私は急に自由になってしまう。
生きる理由がなくなって、歩むべき道を見失う。どこに進んでも許される自由という名の平原に急に放り出されて、どこに進むべきかわからなくなってしまう。
そんな状況になるのが、私は恐い。
だから香織には、ずっとここにいてほしい。
香織のために生きる人生で、私は満足だったのに。
「すみれだってわかってるんでしょう? 私たちは距離をとるべきだって。だから舞台上で、あんな演技をしたんでしょう?」
「……現実とフィクションは、違うよ」
俯く私の頭に、香織はそっと手をのせた。
「正直に言うとね、あのとき、あの事故が起きた直後は、すみれのことを殺したいほど憎んでた。一生消えない傷をつけられて、もう二度と顔も見たくないと思ってた。だけど今は違う。今は、あの事故が起こる前よりもずっと、すみれのことが好き。すみれだって、私を傷つけたかったわけじゃないってわかるから。もちろん、故意に階段から人を突き落とす行為は、世間的には許されることじゃないのかもしれないけど、私が許してるんだからもういいんだよ」
香織はゆっくりと、慈しむように私の頭を撫でる。そこに憎悪の感情は一切ない。
「でも、これ以上長い間すみれと二人でいたら、今度はすみれが私を殺したいほど憎むようになるかもしれないんだよ」
「……そんなこと、ありえないよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「だって、ありえないから」
香織は呆れたように、ふっと息を吐いた。
この感じ、すごく久しぶりな気がする。私が拗ねて、香織がそれを窘める。九年前まではほとんど会うたびに繰り広げていた問答だったけど、あの事故以来は一度もこんなやり取りをしたことはなかった。
「私は一応、すみれよりお姉さんだからわかるんだよ。いつかすみれは、私に人生の大事な時期を丸々全部奪われたと考えるようになるかもしれない。何か大きな失敗をしたときに、私に十代の貴重な時間を奪われたせいだと考えるかもしれない。そのときすみれは私を憎む。その憎しみは私のとは違って、絶対に覆らないものなんだよ」
「…………」
「人は最後まで自分で責任をとろうとしない生き物だから。最後の最後まで、自分ではない何かのせいにしようとする。すみれもそれはわかるでしょう?」
「……私は、そんな人間じゃないよ」
「すみれがどんな人間かなんて誰にもわからない。すみれ自身にも、私にも」
「…………」
私が黙っていると、沈黙を納得と受け取ったのか、香織が私の手を取って立ち上がった。
開いたままになっていた部屋の扉の前で、私と香織は向かい合う。
「今までありがとう、すみれ。私、これから頑張るから。すみれも自分の人生を自分のために生きて。頑張ってね」
「えっ。ちょっと待っ——!」
香織に強く胸を突き飛ばされて、私は廊下の床に尻もちをついてしまった。すぐに香織に扉を閉められて、廊下に一人で取り残されてしまう。
尻餅をついた体勢のまま、私はしばらくの間ずっと、もう二度と開くことはない扉を見つめていた。
ピアノの音色は、もう聞こえてこない。
翼をもがれた少女が再び飛び立つまで。 ニシマ アキト @hinadori11
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