海の底より昏い場所

秋犬

海の底より昏い場所

 海上は霧が立ち込めていた。レイスは櫂を握る手に力をこめる。西の海域には化け物が住むから行ってはいけないと強く言われていた。実際、何人も若い漁師が海に出たまま帰ってこないということが何度もあった。


 そこに住むのは女の化け物だと言われている。美しい歌声で漁師をおびき出して、海の底に引きずり込んで食ってしまうという。その声を聴いたものは二度と陸に上がれないと村では恐れられていたが、昨年から漁を始めたレイスはどうしてもその歌声を聴いてみたかった。


 レイスが舟を進めると、霧の向こうから妖しげな声が聴こえてきた。それはまるでレイスを包み込むように、やさしく響いてくる。レイスは迷わず歌のほうに舵をきった。歌に誘われるように舟を進めると、海の上に女が浮いていた。


「かわいらしい人の子、愛されるべき人の子。私と共に行こう」


 それは女の形をしている化け物だった。赤くて長い髪、青黒い肌、どろりとした緑色の目はレイスを見据え、裂けた口から長い舌が覗いている。下半身は鱗に覆われていて、海中で妖しくゆらめいている。


「ようやく会えた」


 レイスは化け物にまっすぐ向かって行った。化け物は両手を広げて、レイスを迎え入れる。


「美しい声に魅入られたか、愚かなる人の子よ」

「ああ、お前の歌声はとても美しい。魂までも溶けてしまいそうだ」


 レイスの顔には歓喜の表情が浮かんでいた。レイスは舟を止めると、化け物の腕の中に飛び込んだ。


「さあ行こう、海の底は明るいぞ」


 化け物はすっかり歌に魅了されているレイスを抱きしめ、陸への暇乞いを促す。


「いいや、とても暗いだろう」


 化け物は首筋に熱いものを感じた。レイスが隠し持っていた小刀が彼女の首に刺さっていた。


「貴様……私の歌が聴こえなかったのか!?」

「よく聴こえていたさ、陸にいる頃からな」


 レイスは化け物の血を浴びながら、恍惚の表情を浮かべる。


「お前は10年前に食った男のことを覚えているか?」

「そんなもの、覚えているわけがないだろう!」

「そうだろう、だからお前と話すことはこれ以上ない」


 レイスは腕に力を込め、化け物の首筋を掻っ切った。恐ろしい悲鳴と共に化け物は事切れ、海の底へ沈み始めた。化け物の腕から逃れることができなかったレイスも共に海中へ沈んでいく。


「キサ兄……今行くよ」


 レイスの呟きは海の中で泡となり、弾けて消えた。


***


 10年前、村で一番の漁師だったキサトの舟の残骸が流れ着いたときにレイスの心は海へ流されていた。人気者だったキサトの死に村人たちは大いに悲しんだ。


『いいか、このことは俺たちの秘密だからな』


 幼かったレイスはキサトと二人きりになることが嬉しかった。両親を海に取られて村の厄介者のように扱われていたレイスにとって、キサトは特別な男だった。


『わかった、内緒にする』


 レイスはキサトとの逢瀬を、律儀に内緒にした。キサトの家で、網小屋で、誰もいない海岸で、レイスはキサトの言うとおりにした。それはとても素敵なことだと、レイスは思っていた。


 キサトがいなくなって、レイスはただ海を見つめていた。そして自分を置いて海の向こうへ行ってしまったキサトを恨み、おそらく西の海域に住むという化け物のせいだろうということも聞いて、化け物も激しく恨んだ。


 その他にも境遇や運勢など様々なものを恨んだが、レイスにとって一番恨めしかったのはやはりキサトであった。陸に自分という大事なものを置いたまま、どこのものとも知れぬ化け物に心酔したキサトのことを許すことができなかった。


 俺も、化け物に会いに行こう。


 それだけを胸にレイスは生きてきた。化け物に会ってその歌声を聴いて、キサトの魂に少しでも近づこう。最初からレイスの心に化け物の歌声は届いていなかった。


***


 今、レイスの眼前には化け物の亡骸がある。そいつには何の感慨もなかった。レイスはただ化け物と共に海の底へ沈んでいくことが嬉しくて仕方がなかった。キサトを食った者はレイスにとってキサトそのものだった。こわばった化け物の腕は漁師のたくましい腕、鼓動の止まった冷たい肌は汗をかいた後の柔らかな肌に思えた。


 大人になって、レイスも当時キサトが何を思っていたのか考えないこともなかった。それでも、やはりレイスはキサトが好きだった。彼のことを考えて死ねるなら本望だ。そうしてレイスは光の届かないところへ沈んでいった。きっとそこにキサトがいると最後まで信じていた。


 それ以降、西の海域から歌声が聞こえてくることはなかったという。


<了>

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