天正十年のサロメ

 時をさかのぼって天正てんしょう十年六月十三日。山崎の合戦当夜、深更しんこう

 光秀みつひで隊伍たいごを組んで進んでいる。向かう先からして、どうやら居城である坂本さかもと城へと落ち延びようとしているらしい。

 光秀とともに勝竜寺しょうりゅうじ城を抜け出た者どもはおとりを買って出たのか、援軍を請いに駆けるのか、それとも光秀に見切りをつけ離散したのか、いずれにせよくしの歯が欠けるように次々と隊列を離れていく。

 その離れた随従ずいじゅうどもを影は闇の中で静かに狩る。

 闇夜の中であっても面差おもざしを見違えるつもりは毛頭なかったが、念には念を入れる。取り逃すことは万に一つも避けねばならなかった。

 この機を逃せばその身柄は早晩、羽柴の手に陥ちてしまう。そうなってはもう手出しが出来ない。

 明智あけち惟任これとう日向守ひゅうがのかみ光秀みつひでの命運は今宵こよい、この時に、この手で定める。影は、そう決めた。

 行く手を読んで先回りし、小栗栖おぐりすやぶで光秀を待ち受ける。ほどなく、そこへ馬の鞍音くらおとが響いてきた。その馬上に光秀を認めると影は弓を取り出し、馬の腹を目掛けて射かける。矢は命中し、光秀は馬の背から放り出された。その光秀の元へ影はゆっくりと近づいていく。闇より発する足音に光秀が勘づいた様子で誰何すいかを問うた。

羽柴はしばの手の者か?」

 地を低く覆う雲に月光は遮られ、闇の中に佇む影が誰のものか光秀には判然としないらしい。闇に慣れた影の目からは光秀の様子が手に取るように窺える。光秀は額に汗を浮かべ、警戒を強めている。既に腰の刀には手が添えられていた。あの明智十兵衛じゅうべえおびえている。そのことがなんだか無性に可笑しくて仕方がない。

ともまわりもつけず、どうなさったというのです。明智殿」

 影の声に光秀は背が凍ったように身震いした。

「――その声は、いや、まさか、そんなはずは……」

「よもや、お忘れか? 同じ主をいただいた仲だというのに」

 風は声に宿った不吉をはらんで藪を渡る。

 暗闇にうごめく影の正体を見極めようとでもいうように光秀が目をらした。そこへ不意に月が雲間から顔を出し、闇の底となった藪を照らす。月に暴かれた影の本性を悟ったのか、光秀の喉が鳴った。その総身は驚愕にあわつように見える。それでも光秀は声に恐れをにじませることなく、再び誰何を投げた。

「――森、殿か?」

「明智殿のおかげで、このような姿となってしまいました」

 顔を焼いた火傷やけどに指を這わせると袖が落ちて腕があらわになった。その腕にも無惨な火傷が大きく走っている。顔や腕ばかりではない。全身が今や焼いた魚の皮目かわめのように、膨らみ、ひび割れ、赤黒くんで、ひどい有り様となっている。信長に愛でられた容貌の面影は今となっては求めようもない。

 光秀は眼前の光景が信じられない様子で呟いた。

其方そなたは……」

「灰に帰ったとお思いか? 死んだはず、と?」

 影、いや蘭丸は笑う。これ以上の皮肉はないとばかりに。

九死きゅうしを出でて参りました。十万じゅうまん億土おくどの彼方より、戻って参りました明智殿!」

 怨嗟えんさの呪言を蘭丸は浴びせかける。しかし、その言葉に光秀は己を取り戻したように立ち上がった。

「……そうか、森殿か。……其方、如何いかにしてあの死地を抜け出た?」

 光秀の問いを一蹴するように蘭丸は吐き捨てる。

「一つ覚えにどきを吠える阿呆どもの目を盗むなどわけもないことにございます」

 打ち捨てるように重ねられた骸の中から動き出した蘭丸を見咎める者はあの場にはいなかった。だからこそ、こうして蘭丸は光秀の前に立っている。

「……なるほど。しかし、亡者でないのならば恐れる必要はない。死に損ないの織田の残党。切って捨てればそれまでのこと」

 光秀はおもむろに刀を抜き放ち、正眼に構えて切っ先を蘭丸に据えた。

「無粋な真似をなさるな、明智殿。私が参ったのは一つ確かめたい儀があったまで」

 蘭丸からは言葉とは裏腹に隠しようもない殺気が漏れ出ている。

「聞くだけは聞いておこう」

「流石は明智殿、懐が深い。冥途の我が殿とのへ良い土産となりまする」

 湿り気を帯びた風が止み、蘭丸と光秀の間に静寂が落ちた。

「――何故なにゆえ、上様にそむかれた?」

 その問いに蘭丸は万感の情を込めた。しかし、光秀は動じることもなく答えを返す。

「上様は、いや、信長は、殺しすぎた」

 即答だった。短いその言葉が光秀の答え。

 幾度となく繰り返した問答のように光秀は答えた。蘭丸だろうと、他の誰にそしられようと、その答えを曲げるつもりはないらしい。聞く者にそう思わせるだけの重みがその響きにはあった。

「力なくば世を築くことは出来ぬ。信長に力はあった。有り余るほどに。しかし、心がなかった。束ねた力でもって築いた世は、他ならぬ力によって再び乱れよう。泰平の世を造るには奴を討つほか手立てはなかった」

 もっともらしい光秀の言い分にもしかし、蘭丸は納得しない。出来るはずがない。

 気紛れな月は雲隠れし、藪は再び夜の底へと沈んだ。その闇の内より修羅しゅら妄執もうしゅうが放たれる。

「……そのような些事さじのために上様を討ったのか」

「些事だと?」

「そのような下らぬことのために――」

「天下泰平が下らぬと申すか。鬼の子よ」

「――私から殿とのを奪ったのか!」

 つんざく怒号に藪はさざめき、蘭丸から発せられたこの世ならざる妖気が辺りに満ちる。闇から繰り出される刺突を油断なく光秀はかわした。さらに閃く白刃はくじん。交わった刃が夜闇に火花を咲かせる。

 剣戟けんげきの響きが何度も藪にこだました。

「殿の大恩を忘れた不忠者め!」

「恩義を忘れたわけではござらぬ。それに勝る道を望んだまでのこと」

わめくな下郎げろう!」

 大上段から振り下ろされた蘭丸の太刀は光秀に見切られた。刃は受け流され、柄を握る蘭丸の手に容赦ない峰打ちが当てられる。蘭丸はうめき、刀を取り落とした。うずくまる蘭丸に光秀は刀を向ける。

「其方のような者はひと思いに葬ってやらねば。――恨むでないぞ」

 刀を振り上げた光秀を蘭丸はきっと睨みつける。

「なぜじゃ。なぜじゃ明智! 何故なにゆえ、貴様なのじゃ……」

 蘭丸は落涙らくるいする。その言葉を聞きとがめたように光秀が尋ねた。

「……何を申す?」

「上様に尽くし、上様の為に生きてきた。けれど、上様は私を見てはくださらなかった」

「何を馬鹿な。其方ほど寵愛を受けた者は家中かちゅうに二人とおるまい」

「そうであろう。そうであろうとも。……だが、上様は『わしとともに死ね』とは言ってくださらなかった――!」

 みにくゆがんだおぞましいまでの執着。

 蘭丸の心の内には底の見えない深い穴が穿うがたれていた。底知れない蘭丸の心の空洞。その穴の醜悪な暗さにひるんだのか、光秀は黙っている。

そむいたのが明智、貴様であると知って上様はどんなお顔をなされたと思う?」

 火傷により醜く無惨な面相となった蘭丸に憎悪の心火が灯る。光秀は貝のごとく押し黙ったまま蘭丸を見据えていた。

「それが怒りであれば良かった。焦りであれば、諦めであれば……しかし、しかし! そうではなかった――! そうではなかったのじゃ……」

 月を隠した雲が蘭丸の頭上にいつしか雨を連れてきた。そぼ降る雨が藪を揺らす。しずくは蘭丸の身を浸し、傷を苛んで記憶をありありと蘇らせる。

「上様は、我が殿は、信長様は……この上もないほど、満ち足りたお顔をされておった。上様にあのお顔をさせたのは貴方だ、明智殿。貴方の他に一体誰が、上様にあのようなお顔をさせることが叶おうか」

 蘭丸は滂沱ぼうだの涙を流す。悲しみではない。嫉妬の涙であった。

「――なぜ、私ではないのだ」

 蘭丸が主君信長に抱いてきた感情は崇拝に近い。だが、それは崇拝とは似て非なるもの。

「上様は、貴方であれば本望だとでもお思いのようであった。……あの死に顔。嗚呼ああ、どうして他の者に見せられようか」

 蘭丸が欲したのは肥大化した自意識の写し鏡としての主君であった。つまり、それは倒錯した自己愛に他ならない。

 理想の主君に仕える自分自身を蘭丸は愛していた。それゆえに憧憬しょうけいする主君の像から信長が逸脱することを蘭丸は許さない。信長もまた生身の人間であることを蘭丸は認めない。蘭丸はそれをことごとく否定し、残らず拒絶する。

「――織田おだ前右府さきのうふ信長のぶながの死に顔が安らかなものであってたまるものか」

 蘭丸の言葉に光秀は呟いた。ぬぐえずにいた言い知れぬ不安の正体にようやく思い至ったように。

「……よもや」

 光秀の胸の内を察して蘭丸は言う。

「ああ、そうです。上様の首は私が頂戴しました。誰にも渡しはせぬ。私があの世の果てまで持ってゆく」

 蘭丸の瞳に宿る魔性が光秀を射竦いすくめた。

 それを見て取るや蘭丸は光秀に組みつき、凄まじいまでの膂力りょりょくでもって、光秀の手に持った刀をその喉に押し当て、掻っ切った。蘭丸の満面に返り血が飛ぶ。その形相は最早もはや、人のものではなかった。

「――これで上様は私だけのもの」

 えぐり取った光秀の首にそう告げると、蘭丸はその首を無造作に藪の中に放り捨てた。

 そして、蘭丸はきびすを返す。その影は闇へと溶け、二度と日の目を見ることはなかった。


 ――天正てんしょう十年六月十三日。明智あけち惟任これとう日向守ひゅうがのかみ光秀みつひで、山崎の合戦に敗れ、居城坂本へ落ち延びる道中、小栗栖おぐりすにて落命。明智の天下ははかなく夢と散った。

 光秀に仕えた明智五宿老は、山崎の合戦の翌日、六月十四日に光秀の死報を受け取ると藤田ふじた行政ゆきまさは敗走していたよどにて自刃。明智秀満ひでみつ、明智光忠みつただ溝尾みぞお茂朝しげともの三名もまた坂本城にて光秀の妻子とともに命を絶った。そして、残る斎藤さいとう利三としみつも四日後、六月十七日に潜伏先の近江国おうみのくに堅田かただの地で捕縛され、京の六条河原にて斬首に処された。ここに明智は滅んだのである。

 しかしながら、光秀の死の全容は未だつまびらかならず。百姓に襲われたとも、落ち武者狩りに行き逢ったとも伝わる。奇しくもそのむくろはかつての主君、織田おだ前右府さきのうふ信長のぶながと同じく歴史の霧の向こうに依然、行方をくらませたままである。

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天正十年のサロメ 秋里ひたき @akisatohitaki

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