天正十年のサロメ
時を
光秀とともに
その離れた
闇夜の中であっても
この機を逃せばその身柄は早晩、羽柴の手に陥ちてしまう。そうなってはもう手出しが出来ない。
行く手を読んで先回りし、
「
地を低く覆う雲に月光は遮られ、闇の中に佇む影が誰のものか光秀には判然としないらしい。闇に慣れた影の目からは光秀の様子が手に取るように窺える。光秀は額に汗を浮かべ、警戒を強めている。既に腰の刀には手が添えられていた。あの明智
「
影の声に光秀は背が凍ったように身震いした。
「――その声は、いや、まさか、そんなはずは……」
「よもや、お忘れか? 同じ主を
風は声に宿った不吉を
暗闇に
「――森、殿か?」
「明智殿のおかげで、このような姿となってしまいました」
顔を焼いた
光秀は眼前の光景が信じられない様子で呟いた。
「
「灰に帰ったとお思いか? 死んだはず、と?」
影、いや蘭丸は笑う。これ以上の皮肉はないとばかりに。
「
「……そうか、森殿か。……其方、
光秀の問いを一蹴するように蘭丸は吐き捨てる。
「一つ覚えに
打ち捨てるように重ねられた骸の中から動き出した蘭丸を見咎める者はあの場にはいなかった。だからこそ、こうして蘭丸は光秀の前に立っている。
「……なるほど。しかし、亡者でないのならば恐れる必要はない。死に損ないの織田の残党。切って捨てればそれまでのこと」
光秀はおもむろに刀を抜き放ち、正眼に構えて切っ先を蘭丸に据えた。
「無粋な真似をなさるな、明智殿。私が参ったのは一つ確かめたい儀があったまで」
蘭丸からは言葉とは裏腹に隠しようもない殺気が漏れ出ている。
「聞くだけは聞いておこう」
「流石は明智殿、懐が深い。冥途の我が
湿り気を帯びた風が止み、蘭丸と光秀の間に静寂が落ちた。
「――
その問いに蘭丸は万感の情を込めた。しかし、光秀は動じることもなく答えを返す。
「上様は、いや、信長は、殺しすぎた」
即答だった。短いその言葉が光秀の答え。
幾度となく繰り返した問答のように光秀は答えた。蘭丸だろうと、他の誰に
「力なくば世を築くことは出来ぬ。信長に力はあった。有り余るほどに。しかし、心がなかった。束ねた力でもって築いた世は、他ならぬ力によって再び乱れよう。泰平の世を造るには奴を討つほか手立てはなかった」
もっともらしい光秀の言い分にもしかし、蘭丸は納得しない。出来るはずがない。
気紛れな月は雲隠れし、藪は再び夜の底へと沈んだ。その闇の内より
「……そのような
「些事だと?」
「そのような下らぬことのために――」
「天下泰平が下らぬと申すか。鬼の子よ」
「――私から
つんざく怒号に藪はさざめき、蘭丸から発せられたこの世ならざる妖気が辺りに満ちる。闇から繰り出される刺突を油断なく光秀は
「殿の大恩を忘れた不忠者め!」
「恩義を忘れたわけではござらぬ。それに勝る道を望んだまでのこと」
「
大上段から振り下ろされた蘭丸の太刀は光秀に見切られた。刃は受け流され、柄を握る蘭丸の手に容赦ない峰打ちが当てられる。蘭丸は
「其方のような者はひと思いに葬ってやらねば。――恨むでないぞ」
刀を振り上げた光秀を蘭丸はきっと睨みつける。
「なぜじゃ。なぜじゃ明智!
蘭丸は
「……何を申す?」
「上様に尽くし、上様の為に生きてきた。けれど、上様は私を見てはくださらなかった」
「何を馬鹿な。其方ほど寵愛を受けた者は
「そうであろう。そうであろうとも。……だが、上様は『
蘭丸の心の内には底の見えない深い穴が
「
火傷により醜く無惨な面相となった蘭丸に憎悪の心火が灯る。光秀は貝のごとく押し黙ったまま蘭丸を見据えていた。
「それが怒りであれば良かった。焦りであれば、諦めであれば……しかし、しかし! そうではなかった――! そうではなかったのじゃ……」
月を隠した雲が蘭丸の頭上にいつしか雨を連れてきた。そぼ降る雨が藪を揺らす。
「上様は、我が殿は、信長様は……この上もないほど、満ち足りたお顔をされておった。上様にあのお顔をさせたのは貴方だ、明智殿。貴方の他に一体誰が、上様にあのようなお顔をさせることが叶おうか」
蘭丸は
「――なぜ、私ではないのだ」
蘭丸が主君信長に抱いてきた感情は崇拝に近い。だが、それは崇拝とは似て非なるもの。
「上様は、貴方であれば本望だとでもお思いのようであった。……あの死に顔。
蘭丸が欲したのは肥大化した自意識の写し鏡としての主君であった。つまり、それは倒錯した自己愛に他ならない。
理想の主君に仕える自分自身を蘭丸は愛していた。それゆえに
「――
蘭丸の言葉に光秀は呟いた。
「……よもや」
光秀の胸の内を察して蘭丸は言う。
「ああ、そうです。上様の首は私が頂戴しました。誰にも渡しはせぬ。私があの世の果てまで持ってゆく」
蘭丸の瞳に宿る魔性が光秀を
それを見て取るや蘭丸は光秀に組みつき、凄まじいまでの
「――これで上様は私だけのもの」
そして、蘭丸は
――
光秀に仕えた明智五宿老は、山崎の合戦の翌日、六月十四日に光秀の死報を受け取ると
しかしながら、光秀の死の全容は未だ
天正十年のサロメ 秋里ひたき @akisatohitaki
ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?
ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます