覆水の行方

 坂本城に辿りついた秀満ひでみつを出迎えたのは光忠みつただだった。

 二条御新造にて籠城した信長のぶながの子、織田おだ信忠のぶただを攻めた際に負った鉄砲による深手が光忠には生々しく残っている。山崎の合戦に加われなかった光忠は京の知恩院ちおんいんで療治に当たっているはずだった。

左馬之助さまのすけ殿、よくぞ御無事で」

其方そなたもその傷でよくぞ参った。して、十兵衛じゅうべえ様は何処いずこにおられる?」

「それが分からぬのです。山崎から退しりぞかれたのならば、こちらにお戻りだろうとそう思っておったのですが……」

「この城に戻られてはおらぬと――?」

 秀満の胸に消えたはずの不安が立ち所に甦った。光忠の表情にも傷の深さ以上にかげが差して見える。憂念に駆られて秀満は静思する。光忠もまた何か思いを巡らせるらしい。そんな二人の下に茂朝しげともが戻ったとの知らせが入った。秀満はその知らせを受けて光忠と思わず顔を見合わせる。

 茂朝は光秀とともに山崎の戦いに臨んでいた。秀満と光忠の知らぬ事情も茂朝ならば了知りょうちしていてもおかしくはない。秀満は光忠を連れだって今し方、坂本へと戻った茂朝のもとへと急ぐ。

「お二方ともお戻りであったか――」

 駆けつけた秀満と光忠を認めて、茂朝は安堵と悔悟かいごぜになったような表情を浮かべた。

庄兵衛しょうべえ、山崎で敗れたと聞いたが十兵衛様は如何いかがした?」

「十兵衛様と同道していたのではないのか、庄兵衛殿?」

 矢継やつばやな秀満と光忠の問いに茂朝は眉をしわめた。その眉宇びうに秀満は茂朝の困惑を見る。茂朝は言い淀むように視線を巡らせて、ようやく短い言葉を返した。

「……分からぬ」

「分からぬとは何じゃ。はっきりと申せ、庄兵衛」

「分からぬのだ、左馬之助殿。それがしには十兵衛様の身に何が起きたのか。……分からぬ。分からぬことばかりよ」

 言って、庄兵衛は片手で自らの顔を覆うようにした。その指の隙間から当惑を滲ませたような茂朝の声が漏れる。

「……山崎での戦で大崩れとなった我らは羽柴のふせや追っ手をかわしながらひたすらに逃げた。山へ逃げる者も、川へと走る者もいた。おそらく十兵衛様は戦況を見てすぐにも本陣の奥、勝竜寺しょうりゅうじ城へと退がられたはずだ」

「では、まだ立て籠もっているのでは?」

 光忠の言葉に茂朝は目を伏せて否やを示す。

「それはない。この目で確かめた。夜明け近く、某はその城へと入ったのだ。そこには既に十兵衛様の御姿はなかった。わけ知りの者に聞くと、夜更けに坂本へと発たれたとのことであった。あの平城ひらじろではとても羽柴の攻めには耐えられまい。十兵衛様の判断に誤りはなかったはずだ」

 茂朝に秀満は頷く。数で勝る羽柴軍に対して平城に籠もるは得策ではない。そして、光秀は夜半には発った。また向かった先は坂本であるという。ならば何故、と秀満はいぶかる。

 何故なにゆえ、十兵衛様の御姿がここにない。

 加えて秀満は先刻、遭遇した羽柴勢を思い浮かべる。大津の地に陣を張るは坂本への城攻めに違いない。その狙いはまさしく光秀の首であろうと秀満には思われた。つまり、羽柴の兵は坂本にこそ光秀がいると思い込んでいる。しかし、坂本城に光秀はいない。

 十兵衛様は羽柴の手にちてはいない――?

 光秀の身柄は敵に渡ったわけではない。茂朝の報告から秀満はそう推測する。しかし、本来なら心安んずるはずのその考えに秀満は凶事の予感を覚えた。その予感を掻きたてるように茂朝がまた口を開く。その声音こわねに常は余りあるほどの覇気がなかった。低い響きが秀満の耳に届く。

「某もまた十兵衛様を追うべく城を発った。羽柴に見つからぬようひそやかに、時に敢えて道を外れながら進んだ。その道々にぽつりぽつりと時折、見えるものがある。むくろであった。某は初め、その倒れた骸は討ち捨て首だと思うた」

「山崎では多くの兵が死んだのであろう。捨て首があろうと不思議ではないが」

 光忠の挟んだ言葉に茂朝が頷く。けれど、それは光忠に同意するだけのものではないようだった。

「某もそう考えた。しかしな、その骸は山崎から坂本へ向かう道すがらに転がっておった。その上、骸はどれもこれも具足もつけず、衣もまとってはおらなんだ」

「それは――」

「落ち武者狩りに遭ったと言いたいのだろう。だが、どうにも妙を覚えてな。ともの者に検めさせた。すると、どうだ。その骸の身体は綺麗なものであった。とても落ち武者狩りに襲われたなどとは思えぬほどに。致命に至ったらしい傷はどの骸も一つきり。あれは手練てだれのわざだ。……おかしいとは思わぬか?」

 秀満は茂朝の含意をもっともだと考える。落ち武者狩りは幾人かで少数の敗残者を囲んで襲うもの。行き逢ったのならば傷が一つや二つで済むはずがない。衣や具足ぐそくを持ち去ったは落ち武者狩りか盗人ぬすびとであろう。だが、命を奪った者は別にいる。

 茂朝の語りは続く。

「さらにな、人相を見ればその骸はどれも十兵衛様の供を仰せつかっていた者どもではないか」

 討ち捨て首、と言った茂朝の声が秀満の頭に巡る。道に残された骸は首を獲られてはいなかったらしい。茂朝の言うように妙な話であった。その骸となった者どもが明智の兵で、襲ったのが羽柴であるならば馘首かくしゅし、光秀とともに信長のかたきとして天下に咎人とがびととしてさらすはず。しかし、その下手人げしゅにんはただ殺すばかり。その殺戮の目的が秀満には読めない。

 続く言葉を待とうと秀満は茂朝に視線を戻す。茂朝の目にはどういうわけか恐怖が宿っているようだった。信長を討つと決めた際にも怖じ気づくことのなかった茂朝が何かを恐れている。秀満の言い様のない予感は茂朝の恐怖に誘因されたものらしかった。

「――そして、最後の骸は藪の中にあった。小栗栖おぐりすの藪の中にだ。ただ、その骸だけが他のものとは違っていた。首だ。その骸には首がなかった。その骸だけが首を獲られていた」

「まさか――」

 秀満は問う。

「――それが十兵衛様だと?」

「分からぬ。確証はない。だが……」

 それきり茂朝は口籠もった。誰にともなく秀満は呟く。

「……首はどこへ行った?」

 道に転がる明智の兵の骸から首は獲られていなかった。その中でただ一つ首が獲られた骸があったのならば、それが光秀である可能性は高い。しかし、光秀の首を獲ったならば、なぜ未だにその首が羽柴の手に渡っていないのか。手柄や功名が目当てではないと言うのだろうか。秀満の頭に鬱念うつねんばかりがわだかまる。

「首はどこだ――?」

 秀満の隣で光忠がひゅっと息を呑んだ。

「……首がない。それは、それは信長と同じではないか! ああ、ああ。あの第六天魔王が十兵衛様を……!」

 正気を乱して周章しゅうしょう狼狽ろうばいする光忠を秀満はなだめる。

「落ち着け。信長は死んだ。仮に! もしも仮に、その骸が十兵衛様だったとしても信長に手出しなど出来ぬ」

「しかし、あの信長なら!」

如何いかに信長の怨霊であろうと十兵衛様の光輝こうき平伏ひれふすことはあれど、祟ることなど出来はせぬ!」

「では一体……」

 消えた首とその行方。秀満にも確たる答えを示すことは出来なかった。

 羽柴でないのならば誰が――。

 黙する秀満の耳にいくさを告げるつつみの音が聞こえてくる。とうとう羽柴の兵が坂本を囲むらしい。既に秀満達には退路も時も残されてはいないようだった。光秀の消息も安否も最早、秀満が知ることは叶わない。

 秀満は観念し、小さな溜息を吐いた。

 我らのこぼした水は黄泉よみへと注ぐ運命さだめであったか。

 秀満は城の者に命じてさかずきを用意させ、そこに酒ではなく水を満たした。

「我ら明智亡き後、天下をべるは羽柴であろうな。であれば、明智の名は主君である信長を討った不臣ふしんとして残されることであろう。……嗚呼ああ、実にくちしい。信長の首さえあれば泰平の世は築けたものを。信長の首さえあれば――」

 無念の内に秀満は光忠、茂朝とともにその永訣えいけつ水盃みずさかずきわす。末期まつごの水を乾かした盃にはもう何も注がれることはない。明智の命脈はここに絶たれたも同然であった。

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