覆水の行方
坂本城に辿りついた
二条御新造にて籠城した
「
「
「それが分からぬのです。山崎から
「この城に戻られてはおらぬと――?」
秀満の胸に消えたはずの不安が立ち所に甦った。光忠の表情にも傷の深さ以上に
茂朝は光秀とともに山崎の戦いに臨んでいた。秀満と光忠の知らぬ事情も茂朝ならば
「お二方ともお戻りであったか――」
駆けつけた秀満と光忠を認めて、茂朝は安堵と
「
「十兵衛様と同道していたのではないのか、庄兵衛殿?」
「……分からぬ」
「分からぬとは何じゃ。はっきりと申せ、庄兵衛」
「分からぬのだ、左馬之助殿。
言って、庄兵衛は片手で自らの顔を覆うようにした。その指の隙間から当惑を滲ませたような茂朝の声が漏れる。
「……山崎での戦で大崩れとなった我らは羽柴の
「では、まだ立て籠もっているのでは?」
光忠の言葉に茂朝は目を伏せて否やを示す。
「それはない。この目で確かめた。夜明け近く、某はその城へと入ったのだ。そこには既に十兵衛様の御姿はなかった。
茂朝に秀満は頷く。数で勝る羽柴軍に対して平城に籠もるは得策ではない。そして、光秀は夜半には発った。また向かった先は坂本であるという。ならば何故、と秀満は
加えて秀満は先刻、遭遇した羽柴勢を思い浮かべる。大津の地に陣を張るは坂本への城攻めに違いない。その狙いはまさしく光秀の首であろうと秀満には思われた。つまり、羽柴の兵は坂本にこそ光秀がいると思い込んでいる。しかし、坂本城に光秀はいない。
十兵衛様は羽柴の手に
光秀の身柄は敵に渡ったわけではない。茂朝の報告から秀満はそう推測する。しかし、本来なら心安んずるはずのその考えに秀満は凶事の予感を覚えた。その予感を掻きたてるように茂朝がまた口を開く。その
「某もまた十兵衛様を追うべく城を発った。羽柴に見つからぬよう
「山崎では多くの兵が死んだのであろう。捨て首があろうと不思議ではないが」
光忠の挟んだ言葉に茂朝が頷く。けれど、それは光忠に同意するだけのものではないようだった。
「某もそう考えた。しかしな、その骸は山崎から坂本へ向かう道すがらに転がっておった。その上、骸はどれもこれも具足もつけず、衣も
「それは――」
「落ち武者狩りに遭ったと言いたいのだろう。だが、どうにも妙を覚えてな。
秀満は茂朝の含意をもっともだと考える。落ち武者狩りは幾人かで少数の敗残者を囲んで襲うもの。行き逢ったのならば傷が一つや二つで済むはずがない。衣や
茂朝の語りは続く。
「さらにな、人相を見ればその骸はどれも十兵衛様の供を仰せつかっていた者どもではないか」
討ち捨て首、と言った茂朝の声が秀満の頭に巡る。道に残された骸は首を獲られてはいなかったらしい。茂朝の言うように妙な話であった。その骸となった者どもが明智の兵で、襲ったのが羽柴であるならば
続く言葉を待とうと秀満は茂朝に視線を戻す。茂朝の目にはどういうわけか恐怖が宿っているようだった。信長を討つと決めた際にも怖じ気づくことのなかった茂朝が何かを恐れている。秀満の言い様のない予感は茂朝の恐怖に誘因されたものらしかった。
「――そして、最後の骸は藪の中にあった。
「まさか――」
秀満は問う。
「――それが十兵衛様だと?」
「分からぬ。確証はない。だが……」
それきり茂朝は口籠もった。誰にともなく秀満は呟く。
「……首はどこへ行った?」
道に転がる明智の兵の骸から首は獲られていなかった。その中でただ一つ首が獲られた骸があったのならば、それが光秀である可能性は高い。しかし、光秀の首を獲ったならば、なぜ未だにその首が羽柴の手に渡っていないのか。手柄や功名が目当てではないと言うのだろうか。秀満の頭に
「首はどこだ――?」
秀満の隣で光忠がひゅっと息を呑んだ。
「……首がない。それは、それは信長と同じではないか! ああ、ああ。あの第六天魔王が十兵衛様を……!」
正気を乱して
「落ち着け。信長は死んだ。仮に! もしも仮に、その骸が十兵衛様だったとしても信長に手出しなど出来ぬ」
「しかし、あの信長なら!」
「
「では一体……」
消えた首とその行方。秀満にも確たる答えを示すことは出来なかった。
羽柴でないのならば誰が――。
黙する秀満の耳に
秀満は観念し、小さな溜息を吐いた。
我らの
秀満は城の者に命じて
「我ら明智亡き後、天下を
無念の内に秀満は光忠、茂朝とともにその
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます