沢野氏の愛

友未 哲俊

・・・ 🖋

 愛する者たちはいついかなる時でも赦されなければならない。愛は何者にも妨げられてはならない。それが沢野氏のロマンティックで幾分過激な思想であった。たとえば、古代神話には洋の東西を問わず近親相姦の罪ゆえに自ら命を絶つ英雄たちのエピソードが好んで謳われるが、それは沢野氏にはどうしても受け入れがたいものだった。男と男が、女と女が愛し合って良いなら、なぜ親子兄妹が愛し合ってはならぬのか。人と人の愛が称えられて、人と犬はなぜならぬのか。

 とはいえ、ひと度自分の身にそれがふりかかってみると、そんな理想論や義憤など幼児の唱える標語の如くはかなくも虚しい薄ぺらなものだという気分を、氏はこの数カ月の間、味わわされ続けている。禁断の愛。沢野氏の相手は同性でも近親でもなく、犬でもなかったが、村上真紀という受け持ちの生徒だった。歳は15歳。子供のあどけなさをそっくり残した美人だ。成績もトップクラスで友人も多い。沢野氏と真紀はいつからか互いの隠し持つ孤独を鋭く見抜き合い、裸の魂を触れ合ってしまう仲になっていた。その気持ちがどんなに純真で穢れのないものかをふたりは知っている。人間としてやましいところなど何一つない。だが、二人は担任と生徒であり、その上、沢野氏には妻と幼い二人の子供がいた。何をどう申し開こうと赦される関係ではない。知られれば間違いなく身の破滅だ。真紀はまだしも、沢野氏は社会的に葬り去られるだろう。倫理的に糾弾されるのみならず、15歳の少女に手を出せば犯罪になる。だから、用心の上にも用心を重ね、決して気取られてはならなかった。校内は言うに及ばず、校外でも親し気に振舞うことは一切できず、かといって余所余所し過ぎてもならない。

 朝から晩まで人目を気にし続け、針のむしろに座り続けていなければならない沢野氏にとって、ただ一つ、大きな救いだったのは、真紀が肉欲に目覚めていないことだった。たとえ欲望があったとしても、彼女が沢野氏に求めて来るのはもっと精神的なものだった。さもなければ、氏が今日まで一線を越えずに踏みとどまれていられたかどうかはわからない。真紀はハグされるだけで沢野氏と完全に交われたので、二人の唇が重ね合わせられたこともない。まだ間に合う。けじめをつけるなら今のうちだ、と、この数週間、何度煩悶を繰り返してきたことだろう。だがそんな氏の意思とは関係なく、餓えた二つの魂は互いの孤独をさらに深くむさぼりり合わずにはいられなかった。


 盆休み。空は青い。ふたりは公園にいた。

 家族はみな里に帰っている。ばれない口実でふたりはうまく自由を得た。

 列車を何本か乗り継いだ場末の駅で落ち合い、そこからさらに何時間か車をとばした見知らぬ町の、名もない小さな公園のブランコに並んで座っている。ここまでして、それでまだふたりを知る者と鉢合わせするような奇跡的な凶運に見舞われるようなら、その時はもう黙って観念するしかない。

 漕ぐともなく漕いでいたブランコを真紀がふと止める。

「先生」

 風が止む。

「セックスしよう」

 ぎょっとした沢野氏の顔を見て真紀は幼く笑いこけた。

「ね、私がもし性悪女で、今すぐ二千万くれないとバラすぞって脅迫したらどうする?それとも、奥さんと別れてくれないとネットで拡散するぞって脅したら?」

「もちろん」

 沢野氏は落ち着きを取り戻す。

「こうしてやる」

 両手で優しく首を絞める。柔らかな肉感が腕から肘へ、肘からさらにその先へと沢野氏の中を這いのぼって来る。

「殺して。いい気持ち … 」

 真紀は氏の膝の上に乗り移って来て身を委ねる。甘やかな静けさがふたりを包む。

「ねぇ、先生。ラプラスの悪魔は私たちのことも知っていたの?」

 ほどかれた身体から剥き出しになった孤独な声が寂しく呟いた。

「私たち、これからどうなるの …?」

 ふたりは悲しくなってしばらくそのまま抱き合った。

「こんにちは …」

 ふと誰かの声がした。

 15歳の少女を膝に乗せて沢野氏が振り向くと、人懐こい愛想笑いを装った若い巡査がひとり、礼儀正しくふたりを見つめていた。

 

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沢野氏の愛 友未 哲俊 @betunosi

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