笛吹き男と真珠の歌

海音まひる

第1話 閉じ込められた真珠

 がちゃりと鍵が差し込まれる音に、少女はわずかに身を縮こまらせた。


 かつて庭具置き場であった小さなボロボロの小屋には、不釣り合いなほど頑丈な鍵。それが回されて、姿を見せたのはでっぷりと太った男だった。

 フォーゲル伯爵。この屋敷の主である。


 彼は小屋の扉を窮屈そうにくぐると、入ってすぐの床に置かれた皿を踏まないようにして、中に置かれた唯一の家具である木の椅子にどっかりと座る。

 部屋の隅にうずくまっていた少女はハッとして、急いで立ち上がり目を伏せた。

 彼女が伯爵の方を見ないのは、ずっと前、彼と目を合わせようとしたら、直接見るなんて失礼で生意気だと言って殴られたから。


 従順な様子の少女を満足そうに見やると、伯爵はエヘンと咳払いをした。


「歌いなさい」


 威圧的な、というよりは、媚びるような猫撫で声に、少女は簡潔に答える。


「はい」


 鈴を鳴らすような、か細い声。


 そして彼女は歌い始めた。



  星の輝く丘の上


  月明かりの下 二本の木


  吊るされているハンモック


  小狐の見る銀の夢



 それは、子守唄だった。

 小屋の小さな窓から見える昼の青空には、全く似つかわしくない。しかし、少女も伯爵も、それを気にかけてはいないようだった。


 少女の歌声は、透き通っていて美しかったが、怯えのせいで震えてしまっていた。

 伯爵は、なぜかニヤニヤと笑みを浮かべながらそれを聞いている。



 短い歌が終わり、小屋の中がしんと静かになった。


 不意に、少女が咳き込み始めた。

 伯爵は椅子に座ったまま、その様子を相変わらずニタニタと見ているばかりで、幼い少女に手を差し伸べるそぶりもない。


 ケホッという乾いた音とともに、少女の手のひらに何かが転がり出した。

 白くて丸い。真珠だった。

 やや歪な形をしているが、正真正銘の宝玉である。


 少女は出てきた真珠を着ている服の裾で拭うと、伯爵に差し出す。それをむんずと奪い取り、間違いなくそれが真珠であることを確認した伯爵は、よりいっそう笑みを深めた。


「ほら、どんどん歌いなさい」


 有無を言わせぬ口調に従って、少女はまた同じ歌を歌い出した。

 伯爵はもう彼女のことを見ておらず、手の上の真珠の輝きに魅入っている。



 それが何度繰り返されただろうか。やがて、少女の声が掠れてきた。

 伯爵が眉をひそめる。

 どうにか歌い終わり、それまでと同じように咳き込み出すのだが、なかなか真珠が出てこない。


 しびれを切らした伯爵は、立ち上がると、彼女の背中をバンバンと叩いた。

 苦しそうな咳と一緒に出てきたのは、さっきよりもずっと小さい真珠である。


「水を飲んできなさい」


 彼の言葉に、少女は小屋から出た。

 逃げないようにとじっと見つめる視線を感じながら、向かうのはすぐそこの井戸である。


 屋敷の庭にはちゃんと庭師がやってきているのだが、少女の住む小屋のあたりはあまり手入れがされない。庭師が近づこうとしないというのが正確なところだ。近づけば、真珠を狙っていると伯爵に思われてしまうから。

 雑草の生えてしまっているのを踏み分けて、少女は井戸にたどり着く。

 それからつるべを落として引き上げようとするのだが、力のない細い腕ではかなりの時間がかかった。


 やっとのことで水を飲み、彼女は小屋の方へ戻っていく。

 伯爵は落ち着きのない様子で待っていた。

 八歳の少女には知る術もないことだが、彼はたばこを吸うのを我慢しているのだ。小屋の中でたばこを吸えば少女の喉に悪い影響を及ぼすだろうと考えていたのだった。

 もっとも、彼が心配しているのは、真珠が取れなくなってしまうことなのだが。


 伯爵はエヘンと咳払いをし、少女はちょっと口元を拭うとまた同じ歌を歌い出した。



 日が傾き、夕暮れ時に差し掛かった頃。

 すでに伯爵の手の上には、あふれんばかりの真珠があった。


「今日はここまでにしておくか」


 彼の言葉に、少女の肩から力が抜ける。

 伯爵は真珠を落とさないように懐から出した袋にしまい込むと、振り返ることなく小屋から出た。鍵も忘れずにかけていった。


 小屋の中に静けさが戻る。


 少女はまた、部屋の片隅に行って最初と同じようにうずくまった。

 小さな窓から見える空の色に、次の食事が運ばれてくるのはいつだろうと考える。


 小屋の扉の下の方にはペットが通る小さな扉のようなものがあって、それが少女の食事を出し入れする場所になっているのだった。

 屋敷の人間が日に三回やってきて、パンと水を置き、空になった皿を持っていく。

 扉の鍵が開くのはフォーゲル伯爵がやってくるときだけ。


 そう、この閉ざされた小屋が、少女にとっての世界の全てだった。


 いつ頃からその小屋に自分がいるのか、少女ははっきり覚えていない。

 さらに言えば、伯爵に買われてここに来るよりも以前の記憶を、少女はあまり持っていないのだった。


 ただ、少女は自分に子守唄を歌ってくれた人がいたことは朧げながら覚えていた。


 そのときのことを思い出すと、少女は辛くなる。

 今とは違って、安心して過ごせていた日々を、懐かしく感じてしまって。


 だから、声が枯れてもなおむりやり子守唄を歌わされることは、少女にとって二重の意味で苦痛だった。



 ピチチという音に、少女は顔を上げる。窓の向こうのどこかに、鳥がいるようだ。

 楽しげな旋律はしばらく続くと、やがて遠ざかっていった。


 鳥は、好きな方に飛んで、好きな歌を歌ってるのかな。

 それともそろそろ日が沈むから、家に帰っていくのかな。


 少女は刻々と色を変える金の空を、小さな窓越しにぼんやり見つめながら、そんなことを思っていた。

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