第5話 アメリーとポール

 規則正しいリズムで鳴る石畳。

 笛吹きは、足早に屋敷から離れ、泊まっている宿までの道を脇目もふらず歩いていた。


 小屋は屋敷の裏手にあるし、小屋の扉も一応閉めてきた。少女がいないことにすぐに気づかれるとは思わないが、一刻も早く彼女を連れ帰るに越したことはない。




 一心不乱に歩く男に背負われながら、少女は自分が歩くよりずっと速く動いていく景色に、目を回しそうな思いだった。

 ついさっきまで、井戸より遠くに行ったことなんてなかったというのに。男が歩みを進めるたびに、世界がどんどん押し広げられていく。

 夜の暗さで、周りの建物といったものはよく見えない。それでも、見たことのないものばかりだということはわかった。

 見知らぬものは子どもの好奇心を刺激し、彼女は目がいくつあっても足りないというような勢いで、過ぎ去っていく風景を見回していた。


 加えて少女に感動を与えたのは、外を吹く風だった。

 もちろん風なんてものの存在は、井戸との往復でも彼女は十分に知っていた。

 でも、風を切ってどんどん進む、その風がなんと清々しいことか。なんと心地よく感じられることか。


 この人についてきてよかった。

 少女は早くもそんなことを考えていた。




「そういえば君、名前はなんていうの?」


 笛吹きが口を開いたのは、二人の間の沈黙が気まずくなってきた頃だった。

 少女はといえば、初めて外の世界に出た感動でいっぱいで、喋ったりしなくても気にしていなかったのだけれど。

 そんなことを知るよしもない彼は、取り立てて変わったもののない道のりでも彼女に楽しんでもらうために、何か世間話をしようと思ったのだ。

 ところが、いざ彼女に声をかけようと思ったところで気づいた。

 自分は彼女の名前を知らない。

 思えば、自己紹介のようなことを何もしていないのだ。

 これから一緒に過ごしていこうというところで、これはちょっとまずい。とにもかくにも、まずは名前を聞いておくべきだろう。


 ところが、背中にいる彼女は答えなかった。


「……もしかして、自分の名前、わからない?」


 続く無言。

 肯定の意味だろうか。


 ——これは大変だ。


 確かに、伯爵はこの子の名前を呼ばなかったのかもしれない。

 奴隷が何人もいれば、便宜上の名前は存在するだろうけれど、あの小屋にいたのは彼女だけ。名前で呼ぶ必要がなかったのかもしれない。


 伯爵に買われるより以前には、名前で呼ばれていたのではないだろうか。


「お母さんにはこう呼ばれてた、とかもわからない?」

「……覚えてない……」


 もしかすると、この子は記憶にないほど幼いときに親から引き離されたのかもしれない。



 笛吹きは、万が一にも少女が落ちてしまわないよう、彼女のことをしっかりと背負い直した。



 しかし、呼ぶための名前がないと困る。

 「君」と呼び続けてもいいが、何かと不便だ。

 それに、見知らぬ子どものような距離感を感じる。

 これから一緒に過ごすとなればきっと、親子のような関係になっていくだろう。やはりここは、名前で呼んであげたい。


 となれば——


 つけるか。名前を。


 ……そうはいっても、名付けなんて慣れていないから、ぱっと考えられる自信がない。

 名付けに慣れている人なんているのか?

 作家とかだろうか?


 せっかくなら、響きのいい名前をつけたい。

 今までに聞いたことのある名前で、何かあるだろうか……


 そうだな……


「……ねえ、君の名前、お兄さんがつけてもいい?」

「うん」


 即答した少女に、どうやら信頼され始めていることに、少し驚きながらも尋ねる。


「……アメリーとか、どうかな?」

「アメリー、アメリー……」


 少女は、自分に与えられた名前を繰り返し口の中で唱えた。


「……わかった、アメリー」


 彼女からの了承が得られたことに、男はほっと息をついた。


 アメリーというのは、子どものときに仲の良かった友だちの、妹の名前だ。

 そんな昔のことを覚えていた自分に驚いた。

 人間の記憶というのは、意外にしっかりしているのかもしれないと思う。


 なんとなく明るい音が彼女に似合うかと思ったのだけれど、アメリーという名前は、考えれば考えるほど彼女にしっくりくるような気がするのだ。

 ——名前を付けるって、いいな。


「ちなみに、お兄さんのことはポールって呼んでくれればいいよ」

「ポール?」

「そう、ポール」


 彼は自分の名前を彼女に伝えた。

 正しい発音は「パウル」の方が近いのだが、まあポールと呼ばれることが大半だ。



 これで、お互いの名前を確認し合ったことになる。

 その他の細かいことは、のちのち聞いていこう。



 不意にわあ、とアメリーが声を漏らした。


「どうした?」

「お星様」


 彼女の言葉につられて空を見上げると、そこには満天の星空があった。

 綺麗に晴れている。


 彼女にとっては、初めての景色なのだろう。


 この子を連れて来れてよかった。

 ポールは改めてそう思った。

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