第4話 悪い人


「……でも、私はここにいないといけない……」


 少女の発言に、笛吹きは尋ねた。できる限りの優しい声で。


「どうして、そう思うの? 誰も怒ったりしないよ?」


 そう口にした途端、彼女は激しく首を振った。


「ううん、怒られるの、あの人に……」


 あの人とは、伯爵のことだろうと笛吹きは考えた。

 少女はつっかえながらも、今日いちばんの饒舌で言葉を繋げる。間違いなく、焦っていた。


「毎日、取りにくるから。私の、あれ、真珠……真珠がなかったら、怒っちゃう。明日、私がいなかったら……」


 やはりこの子は、自分が真珠のためにここにいることはわかっているようだ。

 そして、伯爵に怯えている。


「……それなら僕が守ってあげるよ」


 笛吹きは、少女の手をとって、力強くそう言った。

 すでに彼は、真珠を出す少女を攫いにきた誘拐犯というより、閉じ込められているいたいけな少女を助けにきたヒーローの気持ちだった。

 少女が驚いたように顔を上げる。ガラス細工のように透き通った緑の瞳が揺れている。


「その人が追いかけてこれないくらい遠くに行こう。そうすれば、君は安全だから」


 彼は熱を込めて語りかけた。しかし、彼女は答えない。

 もじもじとしながら、迷っているような様子だった。


 笛吹きは必死に頭を回転させる。

 ……よくよく考えてみれば、俺は今この子に、この屋敷、いや、この小屋での生活を捨てさせようとしている。現状が変わってしまうことに、多少の不安はあるのかもしれない。ちょっと言葉を変えてみようか。


「……君はここで暮らすのが、嫌じゃないの?」


 きっと彼女は嫌だと答えるはずだ。そうしたら、外では嫌な思いをしなくて済むというふうに話を持っていけばいい。


 しかし、彼女の返事は彼の予想に反していた。


「……うん、嫌じゃない……」


 嫌じゃないだって?

 笛吹きは、信じられない気持ちで小屋の中を見回した。


 一日を過ごすにはあまりにも狭い空間。唯一の通気口である窓は小さく、星すらろくに見えない。そこそこ高い位置にあるから、背の低い女の子はなおさら外なんて見えないだろう。

 家具といえば椅子が一つきりで、ベッドすらない。床もむき出しの地面、ただの固められた土だから、なんとなく空気が埃っぽく感じる。


 ずっとこんなところで過ごしているから、もしかするとこの子は、感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。

 笛吹きの中で、少女を憐れに思う気持ちはどんどん膨れ上がっていった。


「いいかい、外ではもっといい暮らしができるんだ。君にこんな暮らしをさせてるその人は、悪い人なんだ。だから、お兄さんと一緒に逃げよう」


 笛吹きは、少女の目を見てそう言った。

 彼女がこちらをじっと見る。思わず気後れしてしまうほど、純真な眼差しで。



「……お兄さんは、悪い人じゃない?」



 少女の小さな声。

 その瞬間、笛吹きの脳裏にフラッシュバックした記憶。



 ——確かに私たちは、悪いことをしているかもしれない。


 ——でも、悪人じゃない。だろ?



 かつてともに過ごした人がかけてくれた言葉。


 ……そうだ、俺がしているのは、確かに悪いことかもしれない。警備の人間を眠らせて伯爵邸に忍び込んで。自分が貧しいからといって子どもを攫おうとして。

 でも……


「ああ、お兄さんは悪い人じゃないよ」


 悪い奴のしている悪いことを止める。それの何がいけないのか。

 この手はとっくに汚れている。でも、心までは汚れていない。


 少女は笛吹きの顔をじっと見つめながら、しばらくの間、彼の言葉の真偽について考えているようだった。

 そして、幼い彼女は結局、その言葉を素直に受け取った。


「それなら、ついてく」


 彼女は笛吹きに握られていた手で、彼の手を握り返した。




「お兄さんは悪い人じゃないよ」


 そう言われたとき、少女は彼の目を見ていた。

 少女と目線を合わせているから、そこには彼女の姿が映っていた。


 普段、自分を見下ろしてくる伯爵の冷たい瞳とは、比べ物にならないくらい暖かい色。

 自分の手を握っている温もり。

 何よりも、耳慣れた猫撫で声とはまるで違う、まっすぐな声。


 突然やってきたお兄さん。この人は、いい人なんだ。

 少女は心の底からそう信じた。



 男がくるりと背を向けてしゃがみ込む。

 少女はそれを不思議そうに見た。


「ほら、乗りな。その足じゃ、歩くのは大変でしょ」


 確かに少女は靴も何も履いていない。

 促されて、彼女はおずおずと彼の背中に体重を預けた。

 彼にしっかりと背負い直される。人とこんなに触れ合うのは久々で、彼女はなんだかくすぐったかった。


「しっかりつかまって」


 その言葉とともに、一気に高くなる視点と浮遊感。彼女は慌てて、よりしっかりとしがみついた。


「それじゃあ、行こうか」


 男が一歩、二歩と歩き出す。彼女の頭がぶつからないように注意して、小屋の出入り口を通る。

 それから彼は片手で小屋の扉を閉めた。

 夜の静寂に、微かな音が響いた。

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