第10話 空っぽの小屋


 フォーゲル伯爵は、至極上機嫌であった。


 昨日彼が出席したパーティーは、遠方で開催されたものであったため、確かに疲れはあった。だが、隣の領主であり親しくしているクラウゼ侯爵と会話が弾んだのが嬉しかったのだ。

 クラウゼ侯爵には若い娘がいる。伯爵は、あわよくば自分の息子に彼女と結婚してもらいたいなどと考えているのだった。


 その機嫌の良さで、彼は鼻歌混じりに屋敷の玄関を出た。


 手には金色に光る鍵を持っている。

 向かう先はもちろん、真珠の少女のいる小屋だ。


 ——うむ。私には十二分に収入がある。人脈もある。貴族として、私はなんと恵まれた男なのだろう……


 彼はそんな幸せな考え事をしていた。


 そして小屋に着くと、いつものように小屋の鍵を回し……



 小屋の鍵は、かかっていなかった。


 扉だけが閉まっていて、鍵は開いていた。



「……は?」


 思わず、乾いた声がこぼれる。


 小屋の鍵は、自分が今握っている、これしかない。

 また自分は一昨日、間違いなく、鍵を閉めて小屋を出てきたはずだ。


 いったい、何が起きている……?


 力任せに扉を開け放つ。



 ——そこには誰もいなかった。

 空っぽだった。



 自分が座るための椅子だけが、ポツンと置かれていた。


 足元を見ると、そこにはパンの載った皿と水の入ったコップがある。

 手はつけられていなかった。


「……は?」


 伯爵は再び、困惑と苛立ちを込めて呟いた。




「あれは一体全体、どういうことだ」


 数十分後。

 屋敷中の召使いが、玄関ホールに集められていた。


「誰か私の留守中に、小屋の鍵を開けたか?」

「そんな、滅相もございません」


 年配の執事が答える。


 その答えは、もっともだった。


 小屋の鍵を含めて、召使いに触られたくない重要なものというのはいくつか存在する。

 伯爵はそういったものを、自分の机の引き出しに入れていた。もちろん鍵をかけて。彼はこの引き出しの鍵を、外出先であろうと肌身離さず持っていた。

 だから、伯爵のいない間に小屋の鍵を使うことは、伯爵の部屋を掃除する召使いであっても不可能なのである。


 伯爵自身も、それをよくわかっていた。

 思わず聞いてしまっただけだ。


「……あの小屋に、食事を持って行ったのは誰だ?」

「我々でございます」

「小屋の鍵が開いていることには、気づかなかったのか?」

「は、はい……あの、食事を通す場所から皿を出し入れするだけですので……」


 ——だが、召使いは知っていた。

 小屋の扉の感触がいつもと違っていたことにも。出し入れする食事や水が減らなかったことにも。


 ただ、怪しいと思いながらも、彼女たちはそれを言い出せなかった。

 自分たちが疑われてしまうかもしれないから。

 第一発見者を疑えとは、この時代から言われていることである。


「門の見張りはどうした? 何か、怪しい奴はいなかったのか?」

「は、はい……! 今日まで、異常はありませんでした!」


 また別の召使いが答える。


 ——だが、彼らは隠していた。

 自分たちがあの夜、警備中に眠ってしまったことを。


 もちろん、普段であれば、問題にならない程度のうたた寝ではあった。

 でも、このタイミングでそのことが明るみに出れば、自分たちに責任が降りかかることは間違いなかった。

 最悪の場合、解雇されてしまうかもしれない。


 そういうわけで召使いたちは、まるで何も知らない者も合わせて、皆揃って口を閉ざした。

 玄関ホールが、しんと静まり返った。


 だから結局伯爵は、推理に必要な情報を得ることができなかった。

 彼には、いつから少女がいなかったのかを予想する術もなかった。


 ——だがもちろん、彼とて何も手を打たないわけではない。


「領地の門を警備する衛兵に、今から言うことを伝達しろ。八歳ほどの少女がもしも街から出て行こうとしたら、門を通さないで、この屋敷に連れてくるように」


 ——ここで彼にとって問題になるのは、少女を求めて大っぴらに街の中を捜索させるわけにはいかない、ということだった。


 伯爵も、屋敷の片隅の小屋に少女を閉じ込めていることに対して、後ろ暗い思いがないわけではなかった。

 もし領地内の民に事実が知られたら……


 まあ、もっとも、人の口を完全に閉ざすことはできない。

 そうして笛吹き男は少女の噂を聞きつけたのだから……


 そんなことを知る由もない伯爵はとにかく、少女が自分の領地から出て行かないようにするため、門の衛兵という一部の人間に向けて命令を下した。これなら、そこまで民に怪しまれることもないはずだ。

 不可解な点は考えればキリがないが……領地の中にさえあの子どもがいればよい。

 彼女は何らかの手段で攫われてしまったのか、あるいは魔法のようにひとりでに姿を消したのか……その手がかりが、いつかは見つかるはず。彼はそう考えた。




「門から出るときに、女の子がいないか確認された、ですか……」


 ウィルバーは店のカウンターに座りながら、今しがた商人の仲間から聞いた内容を繰り返した。

 自分以外、誰もいない空間に、独り言が消えていく。


 ——いつも通り、よその領地に行こうと、門から出るときのことだった。衛兵から、集団に女の子が混ざっていないか確認された。

 そう聞かれた彼らは商人の集まりであり、もちろん少女なんているはずもなかったので、それが不思議だったとのことだ。


 しかし、ウィルバーには心当たりがあった。


「……あの子を探しているのか」



 ——ポールに伝えなくては。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

笛吹き男と真珠の歌 海音まひる @mahiru_1221

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ