3、2019年の記録的高潮、半地下の家に襲い来る!?

 異変が起きたのは夜になってからだった。南風が強まり、窓をガタガタと鳴らし始める。


 嵐の夜を不気味に彩るように、減七の不安定なサイレンが鳴り響く。


「ひとつ、ふたつ、みっつ――」


 私は一人で夕食を取りながら、サイレンの数をかぞえていた。


「よっつ!?」


 サイレンは音の数によって潮の高さを示す。四回鳴ったということは、百四十センチを超えたことを意味する。


「だって満潮時刻の二十三時まではまだ時間あるじゃん!?」


 最大潮位は百四十五センチ程度ではなかったのか?


 アクア・アルタの予報は、予測可能な潮の満ち引きに深く関係する。だから日本の台風進路予報より外れにくいのだ。しかしこの夜は違った。


 私はリアルタイムに潮位を確認できるアプリをひらいて、息を呑んだ。


「もう百五十センチ、超えてる!?」 


 同時にメッセージアプリから通知が届いた。


『大変だ。今夜の二十三時には一九六六年のアクア・グランデを越える高潮が襲ってくるかも知れない』


 大家のステファノさんからだった。ステファノさん自身は仕事の関係で本土側のメストレに住んでいるが、心配してメッセージをくれたのだ。


『アクア・アルタが来る前に、電気製品は出来る限り電源を切って高い場所へ移した方がいい。感電死の危険があるから』


 感電死!? 突然出てきた不穏な単語に、私は青くなった。


 そのほかにも床に置いてあるものはなるべく高い位置へ移動すること、できればベッドのマットレスもクローゼットの上へ避難させたほうがよいことなど、注意事項が細かく記されていた。


 ステファノさんへ了解の旨を返信すると、今度はレオナルドからメッセージが届いた。


『俺の部屋、三階だからうちにおいでよ!』


 申し出は嬉しいが、水上バスが止まっているのではないか? 今現在、すでに去年の最大潮位に迫っているのだ。


 すぐに水上バス運営会社のサイトを開いて確認すると、やはり島内を周遊する水上バスは全て運航休止していた。暴風に吹かれながら夜の道をザブザブと歩く気にはなれない。


『水上バスが動いてないから無理だよ』


『でも君の家、地面より低いじゃないか。アクア・アルタの水は汚いから病気になっちゃうよ』


 去年、水の中を歩いただけで風邪を引いたことを思い出す。腰まで汚水に浸かるなど、想像したくもない。


『俺のアパートまでの道が分からないなら、聖マルゲリータ広場カンポ・サンタ・マルゲリータまで迎えに行くよ』


『この間行ったから覚えてるよ。一人で行けるから大丈夫』


 感電死や感染症の危険を感じた私は、ついに避難を決意した。


 長靴をはいて、夜の路地へ出る。ゆるやかに下る石畳の道を抜けて通りに出た瞬間、私は息を呑んだ。見慣れたはずの道は、半ばから黒々とした水に飲み込まれていた。風が吹くたび、水面は街灯の黄色い光を反射しながらゆらめいている。


 誰もいない通りへ踏み出すと、井戸の周りに吹き寄せられたパッサレッレ用の台が、水に浮かんでいるのが見えた。暴風雨に翻弄され、不規則に揺れ動いている。


 耳のそばで鳴る風音にまざって、時折遠くで何かが倒れる音が聞こえる。風に煽られて体がふらつき、思わず湿った石壁に手をついた。


 道を這い上がる水のすぐ近くまで来ると、古びた街灯が孤独に光を投げかける中、どこから流れてきたのかわからない木片やゴミが浮かび、風に流されてゆっくりと動いているのが見えた。


 私は自然の力強さに圧倒されて立ち尽くしていた。いつもは観光客のはしゃいだ声に彩られた街が、今は暴風の中で耐え忍ぶかのように息を潜めている。


 だが強い潮風を全身に浴びていると、自分がこの街の一部であることを強く感じられた。


 私は深く息を吸い込みながら、水に閉じ込められたことを悟った。そして半地下の家で過ごすことを決意した。


『部屋の中でなるべく高いところに登ってやりすごすよ』


 家に戻るとすぐに、私はレオナルドに返信した。


 それから大家さんに言われた通り、電気製品や移動できるものを高い場所へ動かした。全て終えると、十一月も中旬だというのに汗びっしょりになっていた。


 妙な達成感を覚えながら潮位アプリを確認する。


 去年体験した最高潮位を超えたとき、ふと一九六六年は何センチまで上がったのだろうかと疑問に思った。


 スマホで検索するとすぐに答えは得られた。


「最大潮位百九十四センチ――」


 私はスマホをスワイプし、現在の潮位を確認する。


「百六十センチを超えたあたりか。まだあと三十センチ以上あるから大丈夫」


 二十二時頃、私は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


 満潮時刻は二十三時。一時間で三十センチも上がらないと信じたい。


 強風が窓を打つ中、私はテーブルの上に座って、玄関から水が流れ込んでくる瞬間を今か今かとおびえながら待っていた。


 映画『タイタニック』みたいにザザーッと音を立てて、水がなだれ込んでくるのだろうか? いや、そんなわけはない。石畳の路地を洗って汚れた海水が、ジワリと這い寄ってくるだけだろう。


 あと五分程度で二十三時になろうかという頃、ついに潮位が百八十七センチに達した。


 一九六六年の百九十四センチまであと七センチ。


「おお、神よ」


 私はオペラの主人公さながらに天を仰いだ。鼻先が低い天井にぶつかりそうになっただけだが、為すすべがない状況に笑いが漏れた。


 考えてみたら百九十四センチぴったりになったら水が入ってくるわけではないのだ。一体、何センチになった瞬間に入って来るのか?


 私はテーブルの上で微動だにせず、ひたすら玄関を見つめていた。


 どれくらい経っただろう? 二時間にも三時間にも思える五分間が過ぎた。


 ふと手元のスマホに視線を落とすと、二十三時を回っている。


 アプリをひらくと最大潮位は百八十センチに下がっていた。


「助かった……?」


 私は信じられない気持ちで、しばらくテーブルの上で呆然としていた。


 深夜〇時には静かに潮が引いてゆき、潮位は百四十センチまで下がっていた。


 私は恐る恐る玄関から路地へ出た。


 強風に吹き飛ばされた厚い雲の間から、金色に輝く満月が路地を照らしている。


 確かに家の前の石畳は濡れていなかった。


 だが数歩先の壁は濡れており、目と鼻の先まで水が迫っていたことは明らかだった。石畳の上には押し流されたゴミだけが残っていた。 


 私はなんとか九死に一生を得たのだ。


 その夜は疲れ果て、マットレスをベッドに戻すとベッドメイクもそこそこに眠った。




 翌朝、音楽院は休校になった。


 街へ出ると被害は甚大で、ブティックも土産物屋も店内の掃除で大忙しだった。


 困ったのは、スーパーマーケットの冷蔵や冷凍の設備が壊れ、営業が停止したこと。開店しても生鮮食品の棚はからっぽで、缶詰を買って帰る羽目になった。


 私はかろうじて営業していたバールでコーヒーマッキアトーネを飲みながら、心配してくれる友人たちや、大家のステファノさんにメッセージを送った。


 メッセージアプリのグループでは、皆口々に無事を伝えあうと同時に、被害を報告しあっていた。


 中でもレオの書き込みは深刻だった。


『うち、ガスが止まった。やばい』


 添えられた顔文字が被害の大きさを物語っている。


『お湯も出ないし暖房も効かない。もちろん料理もできないよ』


 今朝、集合住宅のエントランスに降りたら、ガスの臭いが充満していて異常に気付いたと言う。アクア・アルタの影響で、地中に埋まっているガス管が被害を受けたそうだ。


 ピスタチオクリームの入ったクロワッサンをかじりながらニュースサイトをひらくと、昨夜のアクア・アルタは観測史上二番目の高さを記録したと書いてあった。ヴェネツィアの九十パーセントが浸水し、感電により亡くなった方もいたそうだ。


こわっ」


 身震いした私はすぐに引っ越し先を探し始めた。


 温暖化や地盤沈下により被害の頻度が高くなっているとはいえ、アクア・アルタは何百年も昔から続いている自然現象だ。


 だが昔の家や食料品店には電気製品などないし、石畳の下にガス管も通っていない。


 便利な現在の生活様式は、自然災害に対して脆弱なのだ。




 結局私は新しい部屋を見つけ、クリスマス休暇の間に引っ越しをした。新年は二階にある部屋で迎えたわけだが、この年は二〇二〇年。コロナ禍により新たな危機に見舞われるのは、この数ヶ月後である。波乱万丈な留学生活はまだまだ続くのだ。


 だがアクア・アルタに関しては、二〇一九年の教訓を生かして、モーゼ計画と呼ばれる対策が取られた。海の中に巨大な防潮せきを設置し、潮位が上昇した際に稼働させ、干潟に海水が流入するのを防ぐのだ。


 防潮堰自体は二〇〇八年から設置が開始されたが、実際に試運転が始まったのは二〇二〇年からだった。モーゼ計画のおかげで二〇二〇年以降、島のほとんどが床上浸水するようなアクア・アルタは発生していない。




─ * ─




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運命の7cm ~水の都ヴェネツィアで半地下の家に住んでいた留学生の実話~ 綾森れん@2/10~男装皇女👑連載開始 @Velvettino

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