2、2018年のアクア・アルタ

 二〇一八年秋、私は初めてアクア・アルタの影響を受けた。音楽院までの道が水没し、足首まで水に浸かって歩くこととなった。


 不安を煽る減七の分散和音でサイレンが鳴り響き、十月も下旬だというのに生ぬるい風が肌にまとわりつく。


 アクア・アルタは南から吹く湿った風が地中海の水を干潟に運ぶことによって起こるため、アクア・アルタの日は天気が崩れるものの気温は上がるのだ。


 島の主要部にはパッサレッレと呼ばれる台が並べられ、足を濡らさずに歩ける。しかし観光客が列を為し、遅々として進まない。徒歩はあきらめて水上バスを使おうと思っても、水位の上昇により船が橋の下を通れないため、島内を周遊する便は運休となる。


 苦労して音楽院にたどり着いても、数時間の滞在で帰宅指示が出されてしまう。潮位が高くなると公立の学校は休校となるのだ。


 折角来たのに追い出されるなんてとぼやきながら帰宅すると、レオナルドからメッセージが届いていた。


『君の家、半地下だったよね? 大丈夫?』


『ありがとう、レオ。うちの周辺までは水、来てないんだ』


 大家のステファノさんが言っていたことは本当だったと安堵しながら、私は返信した。水浸しになっていたのは一番近い広場までで、そこから我が家への道はゆるやかな上り坂になっているから、水は上がってこない。


 満潮時刻が去ると水は音もなく引いて行った。


 ニュースサイトを開くと、今回のアクア・アルタは標準潮位プラス百五十六センチまで上がったことが分かった。


『一八七二年の観測開始以来、四番目の高さとなりました』


 というアナウンサーの解説を聞きながら、楽観的な私も少し怖いと思い始めていた。


「百五十年間も記録を取ってるのに、観測史上四番目ってそんな簡単に出るものなんだ」


 ニュースではその理由についても解説していた。 


『平均海面水位の上昇と地盤沈下により、九〇年代以降、頻繁に異常な高潮が発生しています』


 画面に映し出されたグラフに私は戦慄を覚えた。


 一年間に発生するアクア・アルタの回数は、現在に近づくにつれ明らかに増えていたのだ。


「この家、失敗だったかも知れない……」


 だが私は勉強と仕事に追われ、二〇一九年の高潮シーズンもまだ半地下の部屋に住んでいた。


 そして十一月十二日、ヴェネツィアは記録的な高潮に見舞われることとなる。


 前日の夕方、音楽院内の談話室に備えられたコーヒーマシンへエスプレッソを買いに行ったら、レオナルドがいた。


「チャオ、レオ。明日、朝十時から九十五番教室でリハーサルだから、よろしくね」


 稀に約束をすっぽかす彼に念を押すと、


「十時ってちょうど満潮時刻じゃね? 俺、音楽院にたどり着けるか分かんないよ」


 やる気のないことを言い出した。日本の社会人的常識では、あらかじめ悪天候などが予想される場合はそれを見越して早めに家を出るものだが、イタリアの学生にそんな理屈は通用しない。


「明日のアクア・アルタ、そんなに高くなかったよね?」


 私は今朝見た予報を思い出して軽く反論した。しかもレオのシェアハウスは海抜の高い駅付近に位置しているから、アクア・アルタの被害を受けにくいのだ。


 だが彼は首を振った。


「予報が修正されたんだよ。潮位の分かるアプリ、入れてる?」 


 私はうなずいてスマホをひらいた。今朝確認したときは標準潮位プラス百三十センチ程度に収まっていたはずが、明日の朝十時に百四十センチ、夜二十三時に百四十五センチと、高い方へ修正されていた。去年の百五十六センチに迫る勢いで、嫌な予感がする。


 アクア・アルタは潮の満ち引きに従って起こるので、日に二回ピークがやって来るのだ。


「しかも明日は満月だから大潮の日だよ」


 レオは気楽な調子で話していたが、私の心はざわついた。


 翌朝は今にも雨が降り出しそうな曇天だった。


 私は去年、水の中を歩いた教訓を生かして買った長靴を履いて家を出た。


 通りにはパッサレッレの台が並べられたり、服屋のマネキンが下半身を脱がされたりして、アクア・アルタへの備えは万全だ。


 だが朝十時の潮位は予報ほど上がらず、百三十センチにも届かない程度で引いて行った。


 私はレオとのリハーサルや授業をこなしながら時折り予報を確認していたが、夜二十三時の潮位に変化はなかった。


 午後になると少し風が強くなってきた。生暖かい南風はヴェネツィア島の浮かぶ干潟へ海水を吹き上げるから嫌な兆候だ。


 授業後、個人練習のために練習室の鍵を借りようとしたら、用務員のおばちゃんに追い返された。


「夜になるほどしおが高くなるんだから、さっさと帰りな。今日は早めに閉めるよ」


 満潮時刻は二十三時なんだからまだ時間があるじゃないかと思いつつ、私は仕方なく半地下の家へ帰った。

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