運命の7cm ~水の都ヴェネツィアで半地下の家に住んでいた留学生の実話~

綾森れん@精霊王の末裔👑第7章連載中

1、日本人留学生、家賃の安さにつられて半地下の家を借りる

 夏のヴェネツィアには金色の陽光が燦々と降り注いでいた。


 島の東側に広がるカステッロ地区は観光客もまばらで、古い街並みに地元の人々の暮らしがとけ込んでいる。小さなカフェの軒下では、年配の男たちがコーヒー片手に大きな声で雑談していた。


 私の隣を歩くステファノさんが彼らに向かって片手を挙げ、二言三言、気軽な立ち話を交わした。


「例の家を貸そうと思っていてね。この若者は日本から音楽を学びに来たんだ」


 紹介された私が、


こんにちはブォンジョルノ


 と挨拶すると、彼らは笑顔で答えてくれた。それからいつも訊かれる質問が飛んでくる。


「なんの楽器を演奏しているんだい?」


「バロック時代の歌を学んでいるんです」


 私は声楽の中でもマニアックなジャンルに興味を持ったため留学を選んだ。ヴェネツィアにある国立音楽院はカリキュラムが充実しており、バロック声楽の担当教授も経験豊かな歌手で理想的だった。


 とはいえヴェネツィアには水害のイメージが付きまとう。


 だがヴェネツィアの高潮「アクア・アルタ」について調べてみると、発生する時期もほとんど晩秋のみで、床上浸水などの被害に遭うのも島の一部だと分かった。


「このあたりは水が来ない場所なんだよ」


 個人商店が並ぶ通りを歩きながらステファノさんが説明する。広場から続く道は気づかないくらいゆるやかな上り坂になっている。


 ステファノさんに続いて路地へ入ると、狭い道の左右に古い住居が並んでいた。日差しに目を細めて見上げれば、小さく切り取られた青空を横切るロープに洗濯物がひるがえっている。深呼吸をするとかすかに潮の香りがした。


「さあ、この建物だよ」


 ステファノさんが集合住宅の大きな扉を開ける。古い木の扉をくぐると、薄暗い内廊下はひんやりと涼しい。


「部屋は一階なんだ」


 建物に入ってすぐ目の前のドアを開けると、下へ向かう階段が現れた。たった三段だがこれは――


「半分、地下?」


「そうなんだ。だからあまり日当たりがよくなくてね」


 ステファノさんはすぐに電気をつけた。薄暗い2DKの部屋には窓こそあるものの、外から覗く地面の位置は妙に高く、日差しは入ってこない。


 私が現在借りている部屋は屋根裏で日当たりは最高だが、下の階に二人、シェアメイトが暮らしている。


 一方、この半地下の部屋ならキッチンもバスルームも一人で自由に使える上、家賃まで安くなる。


 日当たりと眺望の悪さはネックだが、家なんて寝に帰るだけだ。決意を固めた私は念のため最後に確認した。


「このあたりって水、上がって来ないんですよね?」


「もちろん。僕は生まれてから就職するまでこの家で暮らしていたけれど、一度もアクア・アルタの被害には遭ってないよ」


「それなら――」


 私が意を決したとき、


「あ、でも」


 ステファノさんが慌てて口をはさんだ。


「僕が生まれる少し前に一度だけ水が入って来たらしい。そのときは腰の上まで水に浸かったってパパが言っていたよ」


 彼は手のひらで床から一メートルくらいの位置を示した。


「知っているかい? 一九六六年にものすごい高潮が島を襲ったんだ。アクア・グランデって呼ばれてる」


「アクア・グランデ?」


 スマホで調べてみると、一九六六年のアクア・アルタは観測史上最大の高さを記録したそうだ。


 確率から考えて過去最大の高潮など、そうそう来るものではないだろう。私はステファノさんに部屋を借りたいと伝えた。


 ――二〇一七年夏のことである。二年後となる二〇一九年に観測史上二番目の高さとなるアクア・アルタが襲来することなど、当時の私が知るよしもない。


 半地下の家で過ごした一年目の秋、私の生活圏に影響を及ぼすようなアクア・アルタは発生しなかった。


 私はほぼ毎日、朝から音楽院で練習に励み、昼は実技レッスンや音楽理論の授業を受け、夕方からは音楽教室で子供たちにピアノを教えた。帰宅するのは日暮れ後なので、日当たりの悪さはさほど問題ではなかった。


 ピアノ講師の仕事がない日は、チェンバロ奏者のレオナルドと次のコンサートに向けてリハーサルに励んだ。遅くまで音楽院の教室に残って練習し、用務員に追い出されることもしばしばだった。


 週末には時折バーカロというヴェネツィアの居酒屋や、誰かの家に集まって飲んだり食べたりして盛り上がった。仲間の家に呼ばれてばかりなのも気が引けて、半地下の家にレオナルドら友人たちを招いたことがある。


「うち、日当たり悪いし窓から塀しか見えないんだよ」


 と言う私に友人たちは、


「落ち着くじゃん!」

「集中できそう」

「一人で住めるなんて最高だね」


 とポジティブな反応を返してくれた。皆シェアハウスに住んでいたが、さすがに半地下暮らしの者はいなかった。

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