私の背後にいたのは……

有木珠乃

アレは誰だった?

 あれは私が高校三年生の時のこと。卒業を間近に控えた春だった。


 その頃の私は、ちょうど家を建て直すために、母の実家に仮住まいをしていたのだ。

 隣の市だったこともあり、幼い頃から馴染み深い祖父宅。近所には神社や小学校。通っていた保育園まであり、仮住まいといっても何不自由なく過ごしていた。


 むしろ実家よりも交通の便がいい。加えて地下鉄が開通した直後、ということもあり、さらに高校へ通い易くなっていた。



 ***



「今日は早く帰ってきなさい」


 その日の朝、母に言われた言葉だった。二日前に、我が家の建て直しをしてくれている住宅総合メーカーから、中を見ていいという許可を得たからだ。

 お陰で、当日まで口を酸っぱく言われていたので、私は「はいはい」と聞き流しながら、祖父宅を後にした。


 けれど私の心は浮足立っていた。

 古い家を壊した時は寂しさを感じたものの、新しい我が家である。作っている最中でも中を見たいのは当たり前だった。

 さらに小さい子どもではないため、自分の部屋の間取りは担当者とあぁでもない、こうでもない、と考えに考えて作ったのだ。

 これは是が非でも見に行きたい! 行かなければ、と思うのは当然の心境だった。


 加えて、これを逃したら当分は中を見られない、という話だったから余計に、である。

 だから私は、母に口うるさく言われなくても、早く帰るつもりだった。


 その日はちょうど、卒業式もあと数日に控えた土曜日。クラスのほとんどが大学受験を終えていたこともあり、授業は午前中までしかなかった。

 だから我が家を見に行くのは、必然的に午後となるのだが、制服のまま行くわけにもいかない。さらに着替える時間と昼食を取る時間が加算され……それはもう、分単位のスケジュールとなっていた。


 お陰で私は学校から駅まで脇目も振らずに歩き続け、電車に乗り込んだ。幸い、電車は頻繫にやってくるので、あまり待つことはない。

 最寄りの駅から祖父宅へも同様に速足で、最短ルート且つ、人が少ない道を選んだ。


 一つだけ違うのは、人気の多い場所に向かうのと、少ない場所に向かう。ただそれだけのことだった。

 平日と土曜日の差もあるが、ほぼ普段と何も変わらない風景。保育園時代は散歩コースにもなっていたから、完全に油断していたのだろう。

 日常の出来事だったのにもかかわらず、その日は予想外のことが起こった。突然、後ろから声をかけられたのだ。


「ねぇ、今急いでる?」

「急いでる!」


 私は怒鳴るように答えた。

 早足で歩く姿を見て、「急いでる?」なんて何を考えているのだろうか。


 しかし今の私の最優先事項は、一に早く帰ること。二に早く帰ること。三も四も同じだった。

 そうしなければ、母に怒られてしまう。当時も今も、母親の雷以上に恐ろしいものはない。


 加えて母は怒るとヒステリーを起こした人間のようになるのが特徴だった。けれど性格が似ている私には分かる。アレはヒステリーを起こしているわけではない、と。


 けれどあの怒り方は今も昔も苦手で仕方がないのだ。だから自然と怒られたくない、という強迫観念が私の中に生まれていた。


 腕時計を見ると、出発する時間が差し迫っている。学校に出る時間が遅れたわけじゃない。電車もまた。けれど聞いていた時間ギリギリになってしまっていたのだ。


 ヤバい。遅れたら文句を言われる。


 今はとにかく、足を懸命に動かして急ぐのみ!

 だから話しかけるんじゃないわよ! 急いでいるのが見て分かんないの?


 その時の私は、声をかけた人物に構ってなどいられなかった。だから振り向くこともせず、黙々と前だけを見て歩いた。今、差し迫っているのは、母の怒りを受けるか否かなのだから。


 どんな人に声をかけられた? その真意は?

 など、気に留めている余裕すらなかったのである。


 しかし後々思い出すと、不可解な出来事だと思い立った。

 一つ。幼い頃から慣れ親しんでいたため、その道は人気が少ない道だと知っていた。だから私はあえてその道を選んだのだ。人がいない方が楽に歩けるし、何より祖父宅へ向かうのに近道だったこともあり。


 だからあんな風に話しかけられるような場所ではないのも知っていた。ナンパをするとか、変質者が現れるような場所ではないのだ。


 二つ。かなり近くで話しかけられたのに、足音が聞こえたかどうか、だった。


「しなかったような気がする」


 ううん。自分の足音で消えていたのかもしれない。でも相手の声は男性だった。同じ速度で足音が聞こえないものなのだろうか……。


 男女の歩幅は違うとはいえ、私は早足で歩いていた。

 それにそんな至近距離にいたのなら、気配を感じていてもおかしくはない。私は誰かが急に密接距離に入ったら、ゾワッとするタイプ。それは頭上も同様で、鳥が通過しただけでもなってしまうほどだった。


 いくら急いでいたとはいえ、そんな間近にいたのなら感じるだろう。しかし思い出しても、そんなことは一切なかった。


 間近で聞こえた声……。

 気配を感じさせない人物……。

 人気のない道……。


「アレは本当に人だったの……かな?」


 今はもう、確認することもできない出来事に、私は思わずゾッとした。もしもあの時、振り向いていたらどうなっていたんだろうか、と。

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