3.海

 あれは二年前の昭和39年の夏、東京オリンピックも近づく盆のこと、直也は父とふたりで、東尋坊に近いある古い民家で催される遠い親戚たちの法事にはじめて招かれていた。それは特定の故人を偲ぶ法要ではなく、代々のご先祖様一同に思いを馳せる旨の催しで、参列者の中に見知った姿は一つもなかった。親戚とは名ばかりの、見ず知らずの縁籍者や地元の檀家筋の者ばかりで、父自身にも誰が誰とどういうつながりがあるのかないのか見当もつかないというありさまだった。本来なら、そんな場所にまで顔を出す謂れもなかったのだが、或る人物から、今年は鈴音の没後二十四年の節目に当る大切な年なので是非とも来てやって欲しいという熱心な誘いの手紙があって、そういうことなら旅行がてらにでもと、叔父、叔母たちの代表として末席を汚すことになったものだ。

 本礼の読経も滞りなく終り、講話も済んで自由散会後のお茶会に移ると、世話役の中から、穏やかそうな中背の、白髪の老婦人がこちらにやって来て膝を折り、本日は遠い所をわざわざお越し頂き有難うございましたと、柔らかい笑顔で上品に頭を下げた。

「伊崎早苗と申します」 

 鈴音大叔母の末姉妹だという。

 手紙の主はその人だった。

「お噂はかねがね父や叔母たちから伺っておりました」

 父もそう答えて頭を下げたが、それが事実なのか、単なる社交辞令に過ぎなかったのかは直也にはわからなかった。

「光栄でございます。こちらがお子さんですね」

 直也もぎごちなく礼を返す。

「はじめまして、直也です」

 それから父と直也は案内されるままに、もう一度、此の日のために設けられた大きな飾り段の前に戻って来て正座を並べ、二段に飾られているうちの、手前の列の中ほどに安置されていたひとりの少女の色あせた小さな遺影を見上げた。驚いたことに、桶を抱えてあどけなく浜に立つ海女姿の大叔母、父の父方の叔母だった。

「もっとふさわしい写真があれば良かったのですが、何やかやの折に処分されてしまったようで、私どもの手元に残っているのはもうこの一枚だけなのです」

 三人であらためて焼香し、その人懐こ気な瞳の少女にそっと手を合わせる。それだけのことでも、どこかしら家系図の上での位置づけを越えた血のつながりのようなものが自分の中に芽生えて来るのを直也は感じていた。と同時に、彼の父が、その家系図のどこかに位置するひとりの人間なのだという事実にも初めて気付かされる。

 宴席に戻ると、彼女は「姉の話はどこまでお聞きになっておられますか?」と言って、私たちにお茶をすすめ、六十年近く前の事故の顛末とその後について静かに語りはじめた。


「いや!」

 母屋の寝床で息を吹き返した鈴音が最初に発したのはそのひと声だった。

「行かない!」

 抗うように身もだえするや、そのふた言きりで再び意識が失くなった。

 次に目覚めた鈴音は、すっかり沈み込んでしまい、家族や長老たちの呼びかけに対しても、身の置き場もない様子で口を閉ざしたまま、頷いたり首を振ったりしてみせるだけだった。

 ただ、重と美弥の顔を見た時だけはやおら涙ぐみ、半をふたりにもたせ込んで行った。

「ごめんね、ごめんね …」

 三人して抱き合い、幾度も幾度も互いに赦しを乞い続けた。

「… あっ」

 鈴音が思わず身をこわ張らせる。

「重ちゃん、それ …」

 重と美弥の顔のあちこちに、真新しい手形が真っ赤に腫れあがっている。

「平気よ、これくらい」

「鈴ちゃんが助かるためなら百回だってぶたれてあげる」

「やりたければ殺せばいいわ。今度同じことをされたら家出してやる」

 気丈に言い放ってみせる重の笑顔に助けられて、鈴音の口元がはじめてほころんだ。

「ね、何があったの?」

「そうよ、鈴ちゃんいつも注意深いのに」美弥も見つめる。

「… わからない」

 鈴音はまた仰向けに寝て、天井を見つめはじめた。

「… よく覚えていないの」

 嘘ではない。

「—— わからない。何か見たような …」

 そして次の瞬間、突然表情を一変させたかと思うと、激しく重にしがみ付き、総毛立つ首筋の鳥肌を相手の首元にきつくし当てたまま震え出した。かれたようにくり返す。

「駄目よ。重ちゃん、行っちゃ駄目!もう海に行かないで‼」


 翌、四月、鈴音は遠縁の伝手つてを頼ってひとりで家を離れ、遠い鹿野湯町かのゆまちへ越して行った。四方よもを山々に閉ざされた海の見えない宿場町で、近隣の地域では群を抜いて立派な役場の建物の掃除婦として働きはじめた。

 その後の鈴音は、職場で知り合った瘦身の書記官と結婚し、鹿野湯町よりさらに内陸部にある別の町に移り住んで五人の子供をもうけたという。名づけの際、夫や縁者たちが「海」や「洋」の字を出そうものなら静かに、だが、きっぱりとその場から立ち去って意思を示したらしい。夫は関東大震災のさなか、出張中の宿舎の崩れてきた壁にはさまれて焼死し、子供たちのうち男三人は全員太平洋で戦死した。女たち二人も先年夭逝している。鈴音自身は昭和15年、51歳で命を閉じたが、最後の二年間は寝たきりで、意識も定かではなかったという。彼女は生涯、自らの事故については何も語ろうとせず、海の話題になるといつも話の輪を抜けるのだった。バスであれ列車であれ、ただの一度も海の見える路線には乗らずに人生を終えた。


 話し終えると早苗は少しだけ間をおいて、最後に「鈴姉の最期を看取ったのは私でした」と付け足した。

 不思議な目つきだったのを直也は覚えている。

「その日は姉の子供たちがどちらも急用で家を空けなければならず、前日から私が呼ばれて姉の世話をしていました。姉はもう二ヶ月ほどの間、意識もおぼつかず、ほぼ注射だけで命を繋いでいるような状態が続いておりました。お昼前、何か物音がしたような気がして覗いてみますと、何と、姉が布団の上に上体を起こしていたではありませんか。あり得ないことに両腕を前方に差し伸べて、まっすぐに何かを見つめているようでした。駆け寄る私には少しも構わず、ひと言『行くわ』とうなづくと前のめりに崩れ落ちて、すでにこと切れておりました。何年振りかで耳にしたその声は、姉の声というより、海女の少女の声でした」

 その夜、直也は寝汗のなかで恐ろしい夢を見た。

 彼は鈴音になって海に潜っている。と、潮目の闇の向うから黒いかたちが現れた。鮫かと身構える。だが、その、人の姿に似た朽ち萎びた何かは、身を翻し、くれないに怒る二つの眼を向けて、鈴音を連れ去ろうとした …

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海水浴 友未 哲俊 @betunosi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画