2.緩潮

 波の花は白みはじめた海辺の気まぐれな疾風に身を委ね、あおられるままに中空へ一気に舞い発っては、また険しい岩場に泡立つ水際へといきなり舞い戻って来て、あら手の泡つぶてと共に再びちぎれんで行く。海は黒い。だが、磯の強い香りは身と決意を引き締めた。

 「すずちゃーん」

 海女姿のうら若い呼び声が二つ、息をはずませて浜を駆けて来る。背後には小高い翌檜あすなろ林がまだ目覚めきっていないシルエットの輪郭をほのかに延ばしていた。その葉枝は、三人の娘たちのそれぞれの家の引き出しに眠る財布の内に収まって、今しも金運の夢を見させているのだろう。

「待った?」

「ううん、そんなには」

「ごめんね、美祢みねもわたしも家の目が盗めなくて」と、頭ひとつ背の高い年上のしげ

「婆っちゃんも爺っちゃんもとにかく早起きだから」と、美祢。

「見て」

 鈴音すずねは海の手前を指差して顔をほころばせる。

「潮が緩んでいる。きのう言った通りでしょ?」

「凄い」

「さすが鈴ちゃんだ」

 鈴音すずねは海を読む達人だ。長老たちからも一目置かれている。昔から、浜の風に触れたり潮の寄り方を眺めたりしていると、海の機嫌がひとりでに伝わって来る。きのう、三人で浜にいた時、明日は緩潮ゆるしおが来ると鈴音が言うので、それなら荒らしをしようとその場で決めてしまった。荒らし —— この辺りではよそ者が無断で漁をしたり、海女や漁師が掟を破って密漁することをそう呼ぶ。地区によっては発覚するとただでは済まなくなることも多いのだが、鈴音たちの村は全部で三十戸足らずの、多少はゆとりのある気心の知れた集落だったせいか、三人のように自分たちが浜焼で食う分を悪戯半分に盗み獲りするだけなら、苦笑いで見逃されて来た。冬場のアワビやウニは身が締っていて、とりわけ、獲り立ての獲物を海女小屋で震えながら焼く醍醐味はたまらない。その美味さと掟を破るスリルを得たいばかりに、しげ鈴音すずね美祢みねの三人はこれまでにも何度か荒らしを重ね、その度に家族にばれて、手ひどい仕置きをこうむってきた。鈴音も毎回、父に殴られ、母にもぶたれ、祖父には蹴倒されるわ、兄からも罵倒されるわと、ゆうに一生分の報いを授かってはいたものの、それとておきて破りを咎められての仕置ではなく、冬に潜るという、あまりの無謀さを諫められてのことだった。浅場とはいえ、冬の日本海に潜るなど自殺にも劣る愚かしさだときつく諭されたのは当然だ。

「じゃ、行こう」

 三人は連れ立って、波の花の乱れ飛ぶ岩棚を伝い降り、岩肌にこびり付く瘡蓋かさぶためいた海苔やフジツボのおもてを踏みしめて、いつもの入江に繋がれたちっぽけないかだに辿り着く。

「行こ」

 凍て付く水面に足袋の指を浸して三人は笑い合う。真っ白な息たちが風花めいた潮の泡といっしょに海上を流れて行き、小さなが沖へと漕ぎ出して行く。

 ひと冬に二度か三度、沖合の荒ぶる潮流にどこからか温かい潮の一団が紛れ込んで来る緩潮ゆるしおの日があった。一日のうちの数時間だけ、限られた狭い一帯に現れて海鳥たちを戸惑わせ、いつの間にかまた消えて行く。温かいと言っても、周りの海水に比べればの話で、とても常人が泳いでいられるような温度でないことは言うまでもない。さしもの見習い海女たちにとってもそれは同じで、たとえ修験者ばりに気合を込めたとしても長くは身が持たない。腰綱を結んだうえでひとりが海に入り、百かぞえて万一戻らなかったら残ったふたりが引き上げるという手はずだった。

 ふいに風が凪ぎ、舟足がゆるむ。

「着いたよ。ほら、わかるでしょ?」

 たかぶる自分自身をなだめるように鈴音が声を落してふたりに囁く。海面が奇妙になだらかな鈍色に変っていた。少し沖へ目を遣ると海面にくっきりと潮目のさかいがわかる。三人は手を肘まで入れて冷たさを試してみる。

「温泉みたいに温ったかい!」

 ケラケラ笑いながら手桶に師走の海を汲み取り、恐る恐る背中や頭を濡らして行く。体の慣れたところで今度は頭から一気に水をかぶり、最後に筏のふちにしがみつく格好で一斉に緩潮の中に身を入れた。

「う、う」

「死ぬ」

いたい」

 三者三様にひとことずつうめきを漏らすなり、筏の上に逃げ帰って、またひとしきり笑い合い、体をさすり合う。

「誰が行く?」顔を見合わせると、すかさずしげが敬礼した。

しげ上等兵、偵察してまいります」

 日露戦争の祝勝気分は村にもいまだ色濃く残っていた。

「気をつけて」

 鈴音と美祢がしげの腰にしっかりと丈夫な麻縄を結わえつけ、海に送り出す。寒々と淀んだ水底に消えていく姿を見えなくなるまで追いかける。

「ひとーつ、ふたーつ …」

 不安だ。だが、ふたりが本当に心配し始めるより前に、しげの頼もしい影が再び水底に現れて、こちらに向って来た。

「そら!」

 海面に首を出すなり破顔一笑したしげの高く掲げられた両手が、一つずつ、化け物級のアワビを掴んでいた。

「凄い」

「やった」

 筏にしげを引き上げたふたりがはしゃいでほめそやす。

り放題の桃源郷だよ」

 しげは輝く瞳を大きく見張ってみせる。

「ただ、底はさすがに冷たかった」

「今度はわたしが行く」

 鈴音が勇んでロープを腰に回して行く。

「気を付けて」

「早めに上がって来るのよ」

 腰綱の動きに合わせて送り出す美祢と重がまた数を唱え始める。

「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ、よーっつ …」

 影はたちまち海に呑まれて行き、綱をどんどん引き込み続けた。

「三十、三十一 …」

 小さな風が起ってふたりの頬をかすめて行く。

「七十三、七十四、 」

 突然、麻縄が動きを止めた。二人は念のために二、三度軽く引き戻して確かめる。

「あっ‼」

 —— 手ごたえが消えていた。命綱が、引かれるままにずるずると戻って来る。

「鈴ちゃん‼」

 真っ青な悲鳴を上げて、二人は死にもの狂いでたぐり寄せた。だが、帰って来た綱の端には何もなかった。

「鈴ちゃん!」

「どうしよう⁉」

 血の気が引く。

「捜してくる」

 しげが立ち上がった。

「みんなを呼んだ方がいいわ」

 べそをかきながら美祢が言う。

「駄目よ、間に合わないでしょ!ふたりで捜すの!——、そうだ」

 重は筏にただ一つ積んである小物籠を顔で示す。

双眼鏡めがねがあるわ、美祢はそれで捜して」

 そう言い置くなり、腰綱を結ぼうとする美弥の手を払いのけて飛び込んで行った。

「鈴ちゃん、鈴ちゃん」

 美祢は泣きながら海面を探す。だが、双眼鏡の視野は狭い。

「駄目よ、駄目よ …」

 双眼鏡を放し、拳を固めで題目のように祈り続ける。緩潮はのっぺりと表情を閉ざしている。

 思いがけなく向こうの水面にしげが顔を出し、こちらを振り返る。美祢がかぶりを振って合図を送ると、再び潮間へ消えて行った。

 その刹那、美祢の目がふと何かを捉えた。潮目の少し先、海底から唐突に一本突き出たいつもの楊枝岩の波間に白っぽい物が引っ掛かっている。間違いない。鈴だ。

「鈴ちゃん!」

 美弥が櫓をとって必死に叫ぶ。

「重ちゃん‼重ちゃん‼鈴がいた!」

 自力で何とか筏を寄せて行く。嬉しいことに向こうにしげが現れた。

「重ちゃん、早く‼早く来て!鈴がいた!」

 潮を横切り、筏に辿り着いた重を引き上げる。重の唇は死人のようだ。

「あそこ!」

 二人は潮目を越えて筏を寄せて行く。いきなり筏が一つ大きく煽られる。上体を狭い岩場に乗り上げ、両脚を波に洗われたまま、鈴音が仰向きに揺られていた。

「鈴ちゃん!」

 若布ワカメに似た巨大な海藻が二条ふたすじ、その体に黒々と張り付いていた。

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