おまけ②・望

「仕事納まったか?」

 雪がちらつく夕闇の中、見えにくい鍵穴に向かってガチャガチャとやっていたら、後ろから声をかけられた。

「何とかね。そっちは?」

「つつがなく、とはいかなかったな。まあ、納まったことにした」

「会社員って大変だなぁ」

「苦労の方向性が違うだけでお互い様だろ。で、だ。鍋やらないか」

「鍋!」

 かちゃん、と上手い具合に鍵穴が見つかったのと、魅力的なワードが飛び出したのはほとんど同時だ。

「やる。何鍋?」

「鮭が入るのは決まってるが、あとは何も」

「肉は?」

とり

「鮭と鶏なら水炊きがいい」

「ポン酢もゴマだれもないぞ」

「えー、じゃいったん俺の家寄ってこ。ついでに使えそうなもの探そ」

「わかった」

 立野たてのとは三年前に知り合った。年々若者が減っていくこの海辺の町に、古民家と猫の額ほどの畑を借りて住み着いた男だ。ちょっと変わってはいるが、面倒見のいい奴で、俺の家が比較的低地にあると知ってからは、台風やら地震やらのたびに家に泊めてくれるようになった。今では、別段天気が悪くなくともこうやって時々一緒にご飯を食べる仲になっている。

「車あったかーい」

「観光協会のエアコン、まだダメなのか」

「ガスストーブしか機能してない」

「直せよ」

「ここ何年か業績悪いからな……」

「あーやめろやめろ、年の瀬に景気の悪い話を聞きたくない」

「振ったのはそっちだろ」

「はいはい」

 ミニバンの助手席で年明けの親戚の集まりの話でぽつぽつと動いているチャットを確認し、手土産の数を確認しないとな、と頭の隅にメモをする。窓の外はすっかり暗く、ヘッドライトが視界の隅で眩しい。遠くには煌々と、満月が並走している。

「立野って鍋にトマト入れるの大丈夫派?」

「おでんは嫌だけど鍋なら気にしない」

「おでんのトマトも結構美味いんだけどな。え、じゃあレンコン」

「入れたことない」

「あるんだけど入れていい?」

「いいよ」

 家に着く。荷物を置いて冷蔵庫を確認する。使いさしの大根、トマト、レンコンにしめじ、カットして冷凍してあったほうれん草はほんの少し。まあ入れて損はないだろう、袋に詰め、ポン酢も忘れずに入れる。

「泊まっていくか?」

「うん。服用意するから待って」

「先荷物載せとくぞ」

「よろしく」

 食材を渡し、部屋で服やら歯ブラシやらを用意しているうちにふと思い出す。そういえば勝手口に、ビールを置いていたのだった。勤めている観光協会宛に届いたお歳暮の一部で、確かなかなか質の良いものだ。

「お待たせー」

「……ん?」

 小脇に抱えた箱を見てちょっと目を細める立野にニヤッと笑う。

「貰い物。飲むだろ」

「美味そうじゃん」

「へへ」

 良いものは美味いものと合わせるに限る。

 ビールを後部座席に載せ、蓋が開くのは避けたいポン酢だけを手に持って助手席に戻る。

「大根と白菜とエノキは買ってある。あとネギ」

「春菊は?」

「高かった」

「正月近いもんなー」

「まったくだ。大根と白菜も正月分は今日明日買っとかないとやばいぞ」

「そんな時期だなぁ」

 坂を登ったところの古い家が立野の家だ。

「ビール冷やしといて。んで白菜とか出して」

「はいはい」

 先に降りて家に入る。この家の庭は少し形が特殊だから、車を停めるのには少し手間がかかるのだ。

 立野がどうにか駐車している間に、勝手知ったる野菜室から野菜を取り出し、まな板と包丁も用意する。水がキンキンに冷えているのが実に冬らしい。

瀬良せら、コートくらいちゃんと掛けろ」

「え、掛けたのに」

「ボタン止めないから落ちるんだよ。あと靴もひっくり返ってたし」

「わるいわるい」

 立野が暖房のスイッチを入れ、手を洗ってから隣に立つ。途端に台所が狭苦しくなる。友達と飯を作る醍醐味だと思う。

 昆布を水と共に鍋に入れ、火にかける。その間に野菜をどんどん切っていく。白菜、大根、ネギ、レンコン、トマト。エノキとしめじは石づきを落として軽く洗い手でちぎる。隣で立野が、鶏もも肉を調理バサミで小さく切って沸騰したお湯に入れ、アクをとっている。

 ぐらぐらお湯の煮立つ音、野菜の切れるそれぞれの音。会話のないまま、食事を作る音だけが空間を満たしている状態は、結構好きだ。とうの昔に忘れた「家庭」の気配がする。

 立野の手が白菜の白いところをさらっていく。続いて大根、レンコンとネギの白いところ。鍋は七分目、材料は収まりきるだろうか。

「あー溢れる」

「いける」

「溢れるよ」

「いけるいける」

 結果から言うならばほんの少しお湯が溢れたが、なんとか収まった。というより、立野が積み上げて無理矢理蓋を閉めたともいう。最後に押し込まれた鮭の切り身が少し潰れているのはご愛嬌といったところか。

「よし」

「ほんとによしかな」

「加熱したら嵩は減るだろ。コンロ用意しといて」

「りょうかーい」

 卓上コンロをセットしてグラスを用意し、取り皿と箸も並べ、鶏だしもう少し煮ておきたい、と真剣な目で鍋の前に立つ立野を置いて流し台の後始末をする。

 年内最終のゴミの日を確認してついでにまとめて、勢い風呂掃除も片付けて戻ってくると、どうやら鍋のほうはうまい具合に仕上がってきたらしい。あたたかくていい匂いの空気が部屋中に満ちている。

「瀬良ー、ちょっと退いてろよー」

「はーい」

 立野が卓上コンロの上にどっかりと鍋を乗せ、位置を調整する。その間にビールを取ってきて、グラスに注ぎ、向かい合って座る。それからようやく、

「んじゃ、」

「いただきまーす!」

 ほかほかと湯気を立てる鍋に向かって手を合わせた。


 ☆


 鶏肉と鮭の脂がよく溶け込んだ鍋から白菜や大根を引っ張り出し、ほろほろになった鮭をつまむ。皮の剥がれたトマトは後に回し、レンコンと鶏肉を一緒に掴んで口に運び、ビールを呷る。キリリとした苦味が鶏肉の脂とよく合う。

「あー……」

「美味いな、これ」

「ね、めっちゃ当たりの味する」

「お歳暮とかのビールって美味いのなんでだろうな」

「やっぱちょっと高いんかな」

 続いてポン酢を加えて味を変える。当然美味い。火傷に注意しながら頬張ったトマトの酸味が鮭の塩味とよく合う。

 立野がテレビをつける。年末特番ばかりのバラエティを眺めながら、そういえば、と思い出したようにグラスを合わせる。

「かんぱーい。今年も一年お疲れ様でした」

「おつかれー。今年はわりとよく出かけてたよね」

「原則フルリモートなんだが、諸々落ち着いてきたからな。顔を合わせての打ち合わせが増えた」

「良し悪し?」

「良し悪し。面倒なことも多いが、手っ取り早いこともある」

「会社員だなぁ」

「ガイドのほうも今年はだいぶ戻ったか? 例年並みとはまだいかないか」

「ん、でもぼちぼち。開店休業の間にサイトとかガッツリ手を入れたからね、その成果がちょっと出てきたかなーって感じで」

「新規の観光客が増えたか」

「そ、若い世代のお客さんが増えた感じ。ありがたいことだよ」

 この風光明媚だけが取り柄の小さな町で観光ガイドをしている俺と、会社勤めながらどこで仕事をしてもいいという制度の恩恵に預かっている立野とは、互いの仕事の苦労を理解しきることは難しい。わからないなりに、まあ、互いに上手くやれているのならいいか、というような話をする。

 いつだったか、立野がそれを「実家と電話してる時みたいだ」と言ったことがあって、それを俺は、そんなもんなのか、と思ったものだ。

「そういえば、正月ってどうするの、立野は」

「あー、今年はみんなここ来るって」

「へえ?」

 立野の実家は「なくなった」らしい。いつぞやの災害の時に跡形もなく。幸い家族は皆無事だったものの、元いたところでの生活の再建は難しい、となり、方々に離散しているとのことだ。

 とはいえ、立野はそれを重たく話すことはない。両親は都会の新しい暮らしをなんだかんだ楽しんでいるらしいし、妹は何がどう転んだか梨農家として生計を立てている、俺のところと合わせて実家が二つになったようなものだ、なんて笑っていた。

 もちろん、それが全て本心だと思っているわけではないが、本人が軽く話そうと言うのなら、軽く受け止めるのが筋だと思う。ので、そういうものとして、聞いている。

「去年は新幹線の駅で待ち合わせて旅行に行ったんだが、今年はのんびりしたいとさ。その前が妹のところだったんで、今年はこっち。明日からは正月支度に追われることになるよ」

「みんな元気ならいいことじゃんね。正月、何作るの?」

「俺が作れるのは雑煮だけ。おせちはなぁ、爺さん達が生きてた頃はしっかりやったものだけど……ああでも、母さんが作って持ってくるかも。にしめ? 煮物? あれ、妹が好きだったから」

「あはは、いいお母さんだね」

 人の家の団欒だんらんの様子を聞くのは好きだ。仲のいい相手のだったらもっといい。そう思ってグラスに口をつけ、話の続きを促そうとしたら、立野が何とも言えない顔でこちらを見ていた。

「お前は?」

「え?」

「……正月」

「親戚の集まりが年明けにあるから、そっちに出るよ」

「……そうか」

 今の俺と同じくマリンスポーツが好きだった両親と、俺より泳ぎが得意だった姉は、二十年ばかり前に死んだ。海難事故だった。残された俺を引き取ってくれた祖父も、高校を出るか出ないかのうちに、乗っていた漁船が嵐に遭って、居なくなった。何かの拍子にそれを言ってしまって以来、立野は自分の家族の話をしている時に、時々こうやって遠慮がちな顔をすることがある。こちらとしてはもう慣れたことだし、別段何ということもないのだが、優しい男なので。

「去年一昨年あたりは中断してたけどさ、そろそろ解禁かなって話になって。お年玉とか用意しないといけないのも久々で、もう誰が何歳なんだかよくわかんなくて」

「あー、年一回しか会わないとな」

「そうなんだよね、下手すると増えてるしさ」

「わかる」

 立野が勝手に重たいものを背負ってしまわないよう、俺は注意深く話を軽くしていく。似た年頃なのだから、同意できるような話題には事欠かない。

 立野家は親戚の集まりは夏にやる派らしい。お年玉じゃなくお夏玉じゃないか、と笑えば、次からはそうポチ袋に書いてやろうかと笑みが返ってきて、安堵する。

 それでいいのだ、と思う。大事な友達の楽しい話を、俺は楽しく聞きたいだけなのだから。

 テレビの中で、初日の出を見るのにおすすめの土地が紹介されている。海に映った朝日の映像を見ながら、別に遠出しないでもすぐそこで見られるよなここなら、なんて話をしながら鍋の中身をすくう。

「ん、ちょっとぬるくなったかな」

 卓上コンロをつける。煮立つまでの間、手持ち無沙汰にビールをちびりちびりと飲む。立野がテレビのチャンネルを変え始めたのを見ながら、年の瀬だなぁ、とのんびり考える。



 ……いつのまにか空き缶の数が増えていた。手元にあるのはこれが最後だ。冷蔵庫にはまだもう何本か冷やしておいたはずだが、立つのがどうにも面倒だった。コンロの側は暖かいし、気心の知れた友との穏やかな空間は離れ難い。

 そういえば、こんな穏やかな飲み方をするようになったのは、立野と食事をとるようになってからかもしれない。

 酒が飲めるようになったばかりの頃から、酒には強かった。体質に合わない酒はともかく、ビールやワイン程度ならいくら飲んでも大して酔わなかったし、好きだった、と思う。

 それが、そのうち、観光協会で働くようになったあたりからだろうか? 酒を飲むのは、好きだからという理由だけではなくなっていた。早い話が、ぽっかりと、己の中にうろがあることに気付いてしまったのだ。

 虚はいつもそこにある。遺体すら見つからなかった家族達と過ごすはずだった時間。それは「欠け」と呼ぶには不確かで——だってそんなものは初めからなかったのだから——けれど確かに存在しない領域だ。そんな「もしも」は有り得ない。十年、二十年経って今更見つかるわけもない。生きているわけは、もっとない。わかっている。わかっている、と思っている。

 けれど、例えば、祖父に引き取られた頃から気にかけてくれていた漁師のおじさんに、一人暮らしは寂しくないかと気に掛けられた時。例えば、小さな町の観光協会に子連れのお客さんが来た時。当然のように俺にも家族がいると思った誰かが、そういう話を、何気なく振ってきた時。

 相手には「何か」がある空間に、自分には「何も」ない。

 気付いてしまうと、それは何だかとても恐ろしいものに思えてくる。自分が手を伸ばしても決して掴むことはできないのに、強迫的に手を伸ばさなければいけないような気がしてしまう。

 うろは暗く、淋しく、悲しく、わずかに寒い。

 その気配を打ち消すように酒を飲んだ。ビールは喉越しがいいからちょうどよかった。ほんのいっときだけでも虚を忘れられる。その暗がりから目を逸らして、何も知らないふりで眠ることができる。

 それが、こいつといる時はどうだろう。今日だって観光協会に勤める人の子供や親類が、年末だからと挨拶に顔を出したけれど、その時にほんの一瞬過ぎった淋しさなど、今は一抹もない。

 鮭の脂がよく出た鍋の汁は体をほこほことあたためてくれて美味しい。たっぷりの野菜、それから先ほど追加したうどんもくたくたに煮えていて、手元には美味い酒もある。食べ物も飲み物も何一つ欠けていないあたたかな食卓では、淋しいことなど考えられそうにない。

 バラエティの声が遠く近く、ふと向かい側を見れば立野が頬杖をついてテレビをぼんやりと、ゆるんだ顔で眺めている。眠たそうだ、と思いながら、手元のグラスの中身をちびりと飲む。泡も消えて気も少し抜けたビールは、以前だったら、次の一本を開けるためにとっとと飲み干していただろう味だ。

 なのに今は、この心地よい場所を離れてまで新しい酒を取りに行くのはなんだか憚られて、飲み終わらないように舐めている。勢いで流し込むのだって美味いけれど、こうやってゆっくり飲んでいると、深い味わいと爽やかな香りが鼻を抜けていくのに気付く。甘酸っぱいようなホップの匂いに、香ばしさ、そして、キッパリとした苦み。

(こういうのも悪くはないな)

 軽くなった缶を持ち上げ、名残り惜しむようにグラスに注ぎ切る。缶を潰した音で立野がこちらを向いた。

「もう一本ずつ開けるか?」

「飲み切れる? 立野」

「わかんね。でもまだ飲みたい」

 へらっと笑う顔はだいぶ酔いが回っている証拠だ。そろそろ終わりにしてやらないといけないかな、と思いながら、でもあと少し、と立ち上がる。

「じゃ、一本にして分けよっか。俺とってくるね」

「おう」

 そうやってとってきた最後、にするつもりの一本を開ける。カシュ、と心地よい音とともに、とくとくと二つのグラスに注ぎわけ、立野の分は少なめにしつつ、ついでに持ってきた水を添えておく。

 冷蔵庫から出したばかりのキンキンに冷えたビールは当然に美味い。きっと、この友人が隣にいるから。そんなことを考えて、少しだけ照れ臭くなって、何か言う代わりに酒を流し込んだ。濃い味に負けない香り高さが喉を通っていくのに目を細める。

「……ああ」

「うん?」

「ん、ふふ、いや。なんでもない。美味いな」

「ん」

 不思議そうにこちらを見る立野に向けてグラスを掲げる。よくわからないままに笑って合わせられた音は涼やかだ。

 そうやって傾けられたグラスの中身は、欠けたるところのない、夜空に浮かぶ光の色をしていた。

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人魚の光 晴田墨也 @sumiya-H

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