おまけ・伊勢海老と梨

 伊勢海老をもらったので海まで車を走らせることにした。むろん、瀬良に捌かせるためである。

 十一月であろうとやつは大概海にいる。さすがに時間こそ短いが、家に行くよりも確保しやすいのは海だ。

「あれ、立野じゃない」

 今日はちょうど上がるところだったらしい。水の中は存外温かいが、上がってくると一気に身体が冷える。

「どしたの、今日はあんまいい波来てないよ」

「伊勢海老をもらったんだ。生きてるやつ」

 タオルを体に巻き付け、水気を取りながら荷物をまとめている瀬良を手伝いつつそう言うと、「伊勢海老!」と嬉しそうな声が上がった。

「豪勢じゃん、誰から?」

「漁協の長崎さん」

「漁協の長崎さん、二人いるけど」

「……あの、何だ、白髪混じりのさ……顔がこう、四角い」

「あ、八坂のおじさんか」

「そうなのか」

 移住してきて三年経ってもいまだに慣れないこちらの習慣に、屋号というものがある。家ごとに苗字とは別の呼び名があるらしい。一覧表がどこかにあるというわけでもないので、あまり顔を合わせていない人の屋号などは瀬良が口にしたのを覚えるほかない。

「八坂のおじさんは俺もよくお世話になってたなあ。最近顔出してないけど」

「そのおかげでもらった」

「え?」

「直くんが世話になってるからって」

「あー」

 納得、とケラケラ笑っている唇が青紫になっているものだから、話の続きは車に乗せてからにすることにした。

「乗って行け」

「助かる」

 助手席にエアコンの風が当たらないよう調整してやり、グローブボックスから乾いたタオルをもう一枚出して放る。風邪でも引かれては寝覚めが悪い。あったかーい、なんて言いながら髪の毛を拭いている瀬良に、「で」と話を振った。

「捌けるか、伊勢海老」

「よゆー。姿造りはさすがに無理だけどふつうに捌く分なら問題ないよ。何にするの?」

「……何にするもんなんだ、伊勢海老って」

「刺身でも焼いても茹でても美味いよ。殻も出汁だしにできるし……そういや生きてるって、どうやっておいてきたの?」

「とりあえずバケツに入れて風呂場に置いてる」

「おっけ、じゃあまあ大丈夫かな」

「大丈夫って?」

「そのまま冷蔵庫に入れるとよくないから。風呂場ならそこそこあったかいでしょ、一応」

「風呂沸かしてるんだけど、まずいか?」

「……脱走してたらまずいかも。茹だっちゃう」

 慌てて多少速度を出して帰ったが、幸い、脱走はしていなかったらしい。大人しくもぞもぞ動いている伊勢海老をバケツごとキッチンに連れ出し、代わりに瀬良を風呂に放り込む。

「綺麗な鍋とかに氷水用意しといて、そいつ沈めておいて」

「了解」

 俺は、まだ動いているものを食うのがあまり得意ではない。別に死んだ肉や魚だってかつては生きていたわけだけれど、それでも目の前で動いているとなると、やはり「命を奪っている」という感じが強くて、少し自分がおぞましく感じる。それでも、いただいてしまった以上伊勢海老をその辺に放流するわけにはいかないし、食べないで腐らせるなんて選択肢もない。

 氷水に伊勢海老を沈め、小さく手を合わせる。気休めだが、美味く食べてやろう、と思った。

 そう思うと、都会っ子の俺とは違い、瀬良はいつでもあっさりとしたものだ。

「何分経った?」

「十分ないと思うが」

「じゃ、もうちょっと浸けとこっか。暴れると捌きにくいしな。髪乾かしてくる」

「おー……」

 これである。

「晩ご飯何にする予定だった?」

「味噌汁と炊き込みご飯と野菜炒め。あとデザートに梨がある」

「いいね」

「食っていくだろ?」

「余裕あるなら」

「別に作る量増やせばいいだけだし。つか梨の消費手伝って、妹から送られてきてメチャクチャあるんだわ」

「じゃあお言葉に甘えて。梨美味いよね」

「美味いけど流石に多いんだよな……」

 どんな経緯かは兄が知るところではないが、梨農家になった妹は毎年それはそれはたくさんの梨を送ってくる。こちらもわずかばかりの野菜を送ってやっているからその礼なのかもしれないが、一人暮らしでは食い切るのが難しい。

「そろそろいいかな」

 ほこほこになった瀬良が鍋の中の伊勢海老を覗く。

「ふつうに買ったら一万くらいするやつだね、このサイズ」

「タダでもらうの、申し訳ないな」

「でもこれ売り物にならないから」

「うん? なぜ」

「脚が足りない」

 言われてみれば、もらった時分から脚が一本欠けている。

「脚が足りないと流通させづらいから、基本家とかで消費になるし……八坂のおじさんとこ、息子さんはよそに行っちゃって近くにいないし、おじさんとおばさんだけじゃ食べ切れないだろうし」

「そういうものか」

「だから遠慮なく感謝していただけばいいよ。東京に仕事行く時にお土産買って渡せばそれでいいんじゃない? 来週も行くって言ってたでしょ」

「何がいいかな」

「おじさん達は意外と甘いもの好きだよ、羊羹とか。俺はひよこね」

「ひよこは東京銘菓じゃないぞ」

 などと話しながらも、瀬良の手は澱みなく捌く準備を始めていた。氷水を新しく用意し、包丁をすすぎ、キッチンバサミを脇に置きつつまな板も軽く洗って、準備は万端だ。

「見てる?」

「うん」

 瀬良に魚介を捌かせる時、別にそばで見ている必要はないのだけれど、俺は大抵見ていることにしている。やり方を覚えるためでもあるし、こんな具合に生きているものが相手なら、命を奪うということをきちんと、自覚するためにも、見ているべきだと思うから。瀬良に言わせれば「バカ真面目で几帳面」な習慣だが、命を奪う役割を、命を食べ物に仕立てる役割を人に担わせている以上、立ち会うのが筋だろう。

「じゃ、やるかぁ」

 瀬良が軍手をして包丁を握る。すっかり大人しくなった伊勢海老を氷水の中で軽く洗い、まな板の上に置く。そこからは実に手慣れたものだった。頭と胴体の隙間に刃をぐるりと差し込み、胴体を掴んで捻るようにして引き抜く。胴体をひっくり返し、キッチンバサミでぱちんぱちんと腹の方の殻を切ってから今度はスプーンに持ち替える。何をするのかと思って見ていると、背中側の硬い殻と身の間に差し込み始めた。

「こうすると簡単に取り出せるんだよ。お腹側も同じね」

「へえ」

 尾の方まで辿り着いたら身をそっと引く。すると、ずるりと細い紐のようなものが身の真ん中から抜け出てきた。

「これ、背腸せわた

「あ、小さいのと同じか」

「そうそう」

 腹の薄い殻も取り外せばあとはもうほとんど見覚えのある食べ物の姿である。薄皮を包丁で剥がし、氷水で軽く洗い、いい具合のサイズ感に切れば、どこからどう見ても上等な伊勢海老の刺身だ。

「頭、味噌汁にしよっか」

「え」

「俺が作るから」

「ああ……じゃあ頼む。豆腐と玉ねぎは冷蔵庫にある」

「豆腐だけ使おっかな。えっと、じゃあ冷やしておくから、俺ちょっと家戻ってくる」

「え?」

「いや、おいしい肴があるなら、酒。ちょうど貰い物があってさ。ついでに着替えとか持ってくるよ」

「……泊まっていくのか?」

「明日は朝からのツアーあるから、六時に起こしてね。山の上のホテルにお客さんを迎えに行かないといけないんだ」

 モーニングコール代わりかよ。別に構わないが。

 車借りるね、と言って出ていった瀬良がいない間に、炊き込みご飯を仕込むことにした。下処理済みの筍を刻み、油揚げを短冊切りにし、にんじんを細く、椎茸を薄く切って、研ぎ終えた米の上に入れていく。鶏もも肉はキッチンバサミで一口サイズにして、最後に醤油とみりんと麺つゆと水を入れれば準備は完了だ。

 続いて野菜炒めの準備。白菜とチンゲンサイは硬い部分と葉を分け、エリンギとレンコンは薄切りに。硬いところは先に炒めておき、食べる直前に葉と一緒にもう一度炒め直す……というのが、手間にこそ思えるが、結局美味いものを食うためには一番いい、と覚えたのは最近の話だ。

「ただいまー」

 炊飯器のスイッチを入れ、梨でも切るか、と冷蔵庫に頭を突っ込んだところで、瀬良が帰ってきた。右手には一升瓶が、左手にはスーパーの袋と着替えを入れてきたらしい手提げがぶら下がっている。

「どこまで行ってきたんだ」

「んや、ほらさ、梨いっぱいあるって聞いたから、おつまみの新規開拓したくて」

「つまみ?」

「梨を短めに細く切ってクリームチーズと一緒に生ハムで巻くの。たぶん黒胡椒ちょっと振ってもいい」

「……めちゃくちゃ美味そうだな」

「でしょ。柿も買ってきた。同じ感じでお願い」

「俺がやるのか」

「俺は伊勢海老の味噌汁作るから。よろしく」

 まあ、美味い酒のためならばやぶさかではない。もともと、この辺りに越してからは車移動が多いものだから外で飲むことは減ったが、酒は好きなほうだ。たまには洒落たつまみもありだろう。

 伊勢海老の頭を割る音、梨を切る音、ぐらぐらとお湯が沸く音、柿を切る音、アクとりをきれいにするための水音、胡椒を挽く音。出会ったばかりの頃なら、テレビの音でも流しておかないと落ち着かなかっただろうが、今となっては何とも思わなくなった。

「こんな感じか」

「どれ」

「ん」

 言われた通りに生クリームチーズとハムを巻いた梨を口に入れてやると、真剣な顔でアクとりをしていた顔が少し緩む。

「ワインでも良かったかもー」

「今日はない」

「今度やろうね」

「持ってこいよ」

「赤だな、ライトボディの」

 自分でも食べてみる。甘じょっぱさの中にぴりりと胡椒が効いているのがいい具合だ。クリームチーズのまろやかさもいい。これはリピート確定だな、と思いつつ、ふた玉ばかり切り進めた。半分はそのまま食べる用だ。

 炊飯器が炊き上がりを知らせる。空腹を覚えさせる匂いが立ち込め、瀬良の腹がくうと鳴る。くつくつと、何が面白いのか笑っている男をよそに米をかき混ぜてから野菜を炒め始める。白く上がる煙、油の弾ける音、火の温もり。

「こっちでーきた」

「よそってテーブル持ってって。ご飯も」

「はーい」

 野菜炒めと、冷蔵庫の中の伊勢海老も忘れずに出して、豪勢な食卓の完成だ。

「いただきまーす」

「いただきます」

 二人同時にまず手を伸ばしたのは、刺身である。

「ん、美味い」

「……ぷりぷりだな」

「これ、甘いお醤油でもよかったかも……」

「たしかに」

 甘味の強い海老の身は歯ごたえがしっかりとしていて、今までに食べたことのないものだった。食感を味わっていると、炊き込みご飯にしたのは間違ったような気がしてくる。白米が欲しい。いや、白米ではなく、より適するのは、

「……お酒もう出していい?」

「出せ出せ」

 日本酒である。言いながら腰を浮かしていた男は勝手に冷蔵庫から瓶を取り出し、嬉しそうに栓を開けて二人分のお猪口に注ぎ分けていく。辛口の純米吟醸だ。酒は基本的に何でも好きな瀬良だが、唯一弱いのが日本酒らしい。どこからともなく貰ってくるのを、一人ではすぐ回るから、と家に持ってくるようになってもう随分経つ。

「飲み過ぎるなよ」

「そっちこそ」

「俺は日本酒では酔わない」

 お猪口を軽く互いに向けてから、一口含む。馥郁ふくいくとした香りとすきっとした辛さが、伊勢海老の甘さを引き立てていく。

「あー……」

「完璧」

「完璧」

「炊き込みご飯もおいしい」

「うん? ああ、うん、美味いな」

「おいしい。お酒にも合う。ちょうどいい味付け」

「ほんと飲み過ぎるなよ」

 真っ赤に茹で上がった伊勢海老の頭が入った味噌汁に口をつける。五臓六腑に沁みる旨みだ。味噌と海老の味噌が織り混ざって濃く、滋味じみとはかくあるものかとしみじみ思う。

「味噌汁も美味い……」

「ほんと? よかったー」

「おいエリンギ寄越すな、食え」

「一枚食べたから許してよ」

 夕飯をひと通り平らげ、冷やしておいた梨と柿のクリームチーズ巻きを出してだらだらと飲む。テレビはつけたが、見ているような見ていないような具合で、取り留めもないことを話した。

 去年より観光客がいくらか多いので仕事が多いらしいこと、出社する日を増やさなければいけなさそうなこと、学生時代好きだったバンドが新しくヒットを飛ばしたらしく二人でテレビに見入ったり、バラエティのクイズに躍起になってみたり。

 気付けば一升瓶は八割がた空いていて、瀬良は俺の、この家と共に借りているちっぽけな畑に、来年は何を植えようか、なんて相談に答えることもなく舟を漕いでいた。

「瀬良?」

 声をかけるのと、頬杖から頭が滑り落ち、頬が机にくっつくのがほとんど同時だった。一瞬目が開いたが、すぐに閉じてしまう。

「風呂入るか?」

「……んー……」

「俺先入ってきていい?」

「…………」

 嘆くほどでもない溜息。すぐには起きそうにない。俺はお猪口の代わりに水の入ったコップを置いてやり、先に風呂に入ることにした。海から上がった時にシャワーは浴びさせてあるし、別にそのまま寝かせても構わないだろう。明日朝六時に鳴るようタイマーだけかけておけばいいはずだ。

 風呂から上がっても瀬良は変わらず寝息を立てていた。波乗りなんぞする程度には筋肉質な体は、運んでやろうと思うとひどく骨が折れる。布団を敷いている間に起きないだろうか、と思ったが駄目だった。諦めて声をかける。

「瀬良」

「…………」

「瀬良ぁ」

「……んん……」

「起きろって」

 お前でかいんだから抱いていけねえよ、と続けようとした時、のことだった。

「たての……」

 瀬良がもにゃりと呟く。一瞬何かを掴むように座卓の上で指先だけが動いたが、天板の上を滑るだけだった。が、俺は思わず動きと息を止める。凝視する、もっとも、瀬良はこちらに気付いていない。もう一度小さく息を吸い、口を開く。

「……瀬良」

 掠れた囁き声だった。緊張している、たぶん。それくらい、寝ぼけた男に名前を呼ばれたという事実に、どこか動揺している。

「瀬良」

 もう一度呼ぶ。むずがるように顔を一瞬だけ上げた瀬良の、ゆるまった唇が息を吐くように、もう一度俺の名前を呼ぶ。「たての」と舌足らずに、柔らかく。……甘えでもするように。

「……おう。起きろよ」

「んん……」

 声の調子を変えないように起こそうとしたが、そのせいか、結局瀬良は起きなかった。ほんの一瞬腕に力を入れて体を起こそうとしたようだったが、それだけだ。大きく息を吐いて、呼吸が再び寝息へと戻る。軽く揺さぶってみたがうるさそうに頭を振るので、手を離す。それから、その手を見つめてしまった。

 だって、初めてだったのだ。酔って夢と現実の区別が曖昧になった瀬良に、家族と呼び間違えられなかったのが。

 幼くして家族を失った男が、俺をよすがに陸にいてくれることに、思うところがないわけではなかった。この美しい男が俺の声を聞けば波間から顔をあげてくれる、というのは確かに特別だから。

 けれど、長年の習慣がすぐに抜けるわけではない。酔い潰れた時、この男が夢現ゆめうつつに呼ぶのはいつだって、親か姉だった。

「おねえちゃん」

 甘ったれたそんな呼び声に、初めは、俺のどこが姉ちゃんだよ、と頭を小突いて起こしていた。その姉がもう今はいないのだと、知ってからは、わざと乱暴に髪を掻き混ぜるようになった。そうすると今度は「おとうさん……?」とむずがるのだから困った奴だと思う。

 母親を呼ぶ時は悪酔いしている時だ。体質に合わない酒、つまり日本酒を妙なペースで空けた時。迷子にでもなったかのように「おかあさん」としきりに呼ぶものだから、泣き疲れて眠るまで放っておくこともできず、最悪な気分だった。だから飲み過ぎるなって言ったのに、とぼやきながら背中を叩いて宥めたのは一度か二度の話だが、それでもいたたまれないものはいたたまれない。

 だからこそ毎回、繰り返し、「飲み過ぎるなよ」と言ってきた。

 それなのに。

 俺を呼んだ。今日は、俺の名前をよんでくれた。夢と現の狭間で、二度と彼の名前を呼んでくれないあの世の人々ではなく。今の瀬良を呼ぶ人間おれの名前を、無意識に呼んだのだ。

「はは、」

 小さく笑う。よかった、と思う。こちらだって酒にぼやけた頭なのだから、難しいことは考えられない。それでも、ただ、よかった、と思った。瀬良がこの世を向いているのだと、今は亡き家族に——きっと慕う思いは変わらずとも——それだけにとらわれずに生きているのだと思えたから。

 ヘアゴムを引っ張って外してやり、そうっと髪を指で梳く。瀬良は起きない。呼吸は正常だから大丈夫だろう。

 目覚ましを仕掛け、後片付けを済ませてから瀬良の両脇の下に手を入れる。意識のない人間の運搬方法を学んでおいてよかった、とどうでもいいことを考えながら布団まで引きずる。普段なら自分で起きるまでほったらかしておくが、今日くらいはいいだろう。

 布団におろしてやると、少しだけもぞもぞ動いたが、横向きになったところで上手いこと落ち着いたらしい。布団を首もとまでかけてやり、小さく「おやすみ」と声をかける。

 聞こえたのかどうかはわからないが、布団に半分隠れた顔は少し、笑って見えた気がした。

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人魚の光 晴田墨也 @sumiya-H

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