人魚の光

晴田墨也

人魚の光

 毎年お盆前後の一週間だけ、人魚がうちに泊まりに来る。

 といっても当然本物の人魚ではない。ここらの波乗り連中が呼んでいるあだ名のようなものである。本当の名前は、瀬良せら直哉なおやという。

 瀬良は、地元の観光協会でガイドをやる傍ら、暇を見つけては波に乗りに来ている男だ。背中まで伸ばした長髪をくくり、いつでも軽妙に笑ってやってきて、誰よりも遠くへ波を捕まえに行っている。波に上手く乗れずすっ転んでひっくり返ろうが何しようが、いつでも楽しそうにしている男で、はじめはそういう、どこまでも海が好きなところが人魚と呼ばれる所以ゆえんなのだと思っていた。

 違うと知ったのは一昨年のことだ。

 あの日は台風が近付いていて海がずいぶん荒れていた。今夜には上陸するだろうと言われていたが、雨はまだ本降りではなくて、けれど時折千切れた雨雲が大粒の水滴を数滴吹き飛ばしてくる、そんな曇天。

 近所の人達に言われた通り雨戸あまどを閉め、数日分の食料を買い込みに行った帰り道、海沿いの橋に差し掛かった時。俺は瀬良を見つけた。見つけてしまった。荒々しい波の狭間で、ボードに掴まってパドリングもせず、ただ波に揉まれるがままにいる瀬良を。

 それはさながら人魚だった。曇天を突き抜けた紫外線に目を細め、いつもなら結えている髪を波に泳がせ、一歩間違えれば外洋へと流されてしまうような場所にたゆたう、人ではないもの。

 錯覚したのは一瞬だった。俺は即座に車を止め、海辺へと降りていき、大声を張り上げ、瀬良をこちらへ引き揚げた。腿まで浸かった段階で向こうが自分から戻ってきたからよかったものの、そうでなければ服のままで泳ぎ出していたかもしれない。着衣泳の危険性は理解しているはずだったのに、咄嗟に、あいつを引き揚げなければとそればかりが頭を支配して、服を脱ぐことすらできなかった。

立野たてのさん、どうしたの、服着たまま海入ったら危ないよ」

 だというのに、瀬良は顔色ひとつ変えずにそうのたまった。潮のために色が抜けて茶色くなった毛先からぽたぽた水を滴らせながら、ボードを小脇に抱えて砂を踏み締め、しかし名残惜しげに海に目をやっている。

「危ないのはあんたでしょう、台風が近付いてるんですよ」

「ありゃ、そうなの。うちテレビないから知らなかったな」

「こんなに荒れててわからないわけがないだろう、何考えてるんですか」

「風が強いと良いうねりが来やすくて楽しいよ」

「あんたなぁ」

 放っておけばまた海へ戻っていきそうな瀬良を見かねて助手席に押し込んだのが、思えば始まりだったのだと思う。

「濡れちゃうよ」

「いいです、タオル敷いたから早く乗って」

「悪いねぇ」

 ちっとも悪いと思ってなさそうに、勝手に窓を開けて風を浴びている男を横目に運転している間にも、高い波がすぐそばで弾けて心臓が冷える。波乗りは海に慣れていればいるほど海を正しく恐れるものだと思っていたが、どうもこいつは違うらしい。

 家に帰り着き、瀬良にシャワーを浴びさせている間にテレビをつけ、食材を冷蔵庫に入れる。台風の勢いは衰えていないとのことだ。ボツボツと大粒の雨が戸を叩き始めた。

「瀬良さん、台風の備えしてないだろ」

「まあ……あ、でも大丈夫、カップ麺くらいはあるし」

「泊まっていけば」

 ほかほかと湯気を立てている髪を拭いていた瀬良が噴き出す。

「立野さん、俺のことガキだと思ってない? 大丈夫、ちゃんとまっすぐ家帰るって」

「危ないだろ、もう雨も降ってきてるし、風も強い」

「帰れないほどじゃないって」

「どうせ食料は多めに買ってありますから。それとも泊まっていきたくないの」

 瀬良と俺は取り立てて仲がいい、わけではなかった、たしか。波乗りにいけば顔を合わせる、ちょうどいい波を探すために一緒に出たことが何度かある程度の、顔見知りといったふうだったはずだ。それなのに、俺はどうにもこの男を放っておきたくなくなっていた。今手を離せばもう一度海に戻って行ってしまうのではないか、とか、いま畳をしっかりと踏んでいる足がひれに変わってしまうのではないか、だとか——そんな、非現実的な空想が過ぎってやまない。

「嫌ってことはないけど」

「じゃ決まりだ」

「それじゃ、お言葉に甘えて。立野さんもお風呂入りなよ、冷えたでしょ」

「ああ。っと、今夜は蕎麦にするから、ネギ刻んでおいてくれ」

「え、あー、まあそうね、一宿一飯のお礼はしないとね」

 タオルを首にかけたままの男が台所に立つのを見て、俺は小さく息を吐いた。これで少なくとも、人魚は海へと帰って行かない。本物の人魚ではないのだから、帰るのが海のはずはないのだけれど。

 その晩は、瀬良と向き合って蕎麦を食い、布団を並べて眠った。

 翌朝、テレビのアナウンサーが昼には台風一過となるだろうと言うのを聞きながら素麺を茹でていると、のそのそ起きてきた瀬良が嬉しそうな声を上げた。

「昼から晴れるなら海行けるね」

「は?」

 俺が振り向いたのも当然だろう。台風によって荒れた海というのは一朝一夕いっちょういっせきには落ち着かない。台風が過ぎたばかりの海に出るなど、命を捨てにいくようなものだ。ちょっと波打ち際で遊ぶだけならまだしも、常日頃つねひごろ誰よりも沖へ波を探しに行く男が、そんな子どものような遊び方で済ませるはずもない。

「駄目だ」

「なんで立野さんがそんなこと言うの」

「台風明けの海なんて下手打ちゃ死ぬぞ」

「俺は死なないよ、海では」

「そんなことは誰にもわからないでしょう、今日中は駄目だ」

「えー」

「もうあんた、今日も泊まっていってください」

「恩が二宿になっちゃう」

「いいから。大人しく陸にいろ、危ないから」

「……平気なんだけどな」

 ついと唇を尖らせた瀬良に、もう一度「行くな」とはっきり言えば、渋々ながらも諦めたらしい。俺の貸した少し大きなシャツの襟首を摘んでぱたぱたやりながら、カレンダーを見上げて溜息をついた。

「お盆前に海に入れるの、今日が最後だと思ってたのに」

 お盆からの一週間ほどは海に入らないというのが通例だ。これは波乗りだけではなく、近隣の海女あま海士かいし達、船乗りもそうだというから、さすがのこの男も守っているのだろう。

「瀬良さん、皿出して」

「はーい」

 結局、家に帰すタイミングを見失って、海に入れない期間をまるまる一緒に過ごしたのが最初の夏のことである。

 瀬良は、居候いそうろうとしては別段手のかかることもない男だった。洗濯物は畳むし、家事も言えば手伝う。意外にも魚を捌くのがやたらと上手く、四日目あたりにまるのまま買ってきたあじを三枚におろさせた時には、思わず「料理人だったのか?」と聞いたほどだ。何せ、骨の周りにほとんど肉がついていない。

「んや、祖父が教えてくれた」

「つってもすごいな」

「ふつうだよ」

 日が経つにつれ、俺達は「瀬良」「立野」と呼び合うようになり、大人同士の礼儀のつもりだった中途半端な敬語もすっかり消えた。海に入れるようになると同時に瀬良は家に帰って行ったが、それが少し惜しいほどだった。


          ☆


「お前、人魚を陸に引き揚げたんだって?」

 肌寒くなった頃、そう聞いてきたのは顔馴染みの波乗りのうちの一人だった。俺達よりいくらか歳上の、サーフィン教室を開いている男だ。日に焼けた面倒見のいいその人は、越してきたばかりの頃に、瀬良が人魚と呼ばれているのを教えてくれた人だった。

「瀬良ですか」

「うん。この間、盆の時期の話を聞いたら、お前のところにいたって言ってたから」

「そうですね、台風の時からいて……」

「そりゃあすごいなあ」

 曰く。瀬良が台風の時にまで沖に出るのは、彼が観光協会に所属するよりも前からの悪癖なのだという。見かけた時に声をかけられればいったんは引っ込むものの、気付けば海にいる。荒れた海を恐れることがないものだからいつどう死んでもおかしくない男だが、不思議なことに今まで事故にすら遭っていない。そのうち、水の中にいないと呼吸ができない魚のようだ、と誰かが言い出し、それが巡り巡って人魚と呼ばれるに至ったのだという。

「いくらそう呼ばれていたってあいつは人間だからな。そのうちおっんで言わんこっちゃない、となるものだとばかり思っていたが、引き揚げてくれる奴がいるんなら安心だ」

「そうですかね」

「そうよ。観光協会のほうでもよ、あいつがいなくなったらただでさえ少ない若いのが減って困っちまうってんで、毎回時化しける前には行くなって言ってるんだけど、あの通り、気にしない奴だからなぁ……」

 その頃から俺は、波が荒れそうな日には、海辺まで車を走らせて確認するようになっていた。海に瀬良が浮いていれば降りて行って回収する。いなければいないで、別段問題はない。

冬こそ寒さに負けて海に長時間いることはなかった瀬良だが、暖かくなれば相変わらずだった。どんな時でも海に行って、俺が見つけて呼べば戻ってくる。泊まっていく時は食費を置いていくようになって、俺は捌くのが面倒な魚介を手に入れた時は瀬良を呼ぶようになった。


          ☆


 翌年の夏も変わることはなく、台風の前には買い出しついでに海を見て、瀬良を拾って家に連れ帰った。いつしか瀬良は、こちらのミニバンを見つけると上がってくるようになったし、ミニバンの助手席には防水シートがかけられるようになった。

「俺、海じゃ死ねないんだよね」

 瀬良がそんなことを漏らしたのは、二度目のお盆の頃だ。例によって台風が上陸し、どこかの電線がやられたのか、停電した真っ暗な部屋で、どうにか布団だけ敷いて転がったところだった。

「……死なないんじゃなく?」

「死ねないんだ。両親も姉も祖父も海で死んでるけど、俺だけは置いていかれてる。きっと海の神様に嫌われてるんだ。だから別に、平気なんだよ、荒れた海に入ったって」

 雨戸を大粒の雨が叩いている。ドアの辺りにだけフットライト代わりに蓄光シートが貼ってあるけれど、そんなもので顔が判別できるはずもない。

「お盆に海に入っちゃいけない理由って知ってる?」

「……連れて行かれるから」

「うん、ここらの人はみんなそう信じてる。お盆の時期は陸で死ねなかった人が呼ぶって。だから呼ばれないように、連れて行かれないように入らないようにしなさいって、祖父にも言われてきた」

 寝返りを打つ気配。

「でもさ、まだ祖父がいた頃に、……俺、両親と姉が船の事故でいなくなった後は祖父に引き取られてて、その頃からこの辺に住んでるんだけど。試したんだよね、俺」

「……入ったのか」

「うん。迎え火の後、こっそり一人で行って」

 瀬良がかすかに笑う声が聞こえる。

「でも、連れて行かれたりなんかしなかった。結構遠くまで行ったけど、クラゲがいつもより多いだけ。……誰も来なかったよ」

 誰も。父も母も姉も。

「漁師だった祖父の船が行方不明になってからも試したけど、やっぱり誰も呼んでくれなかった。まあ、迷信だからな、そりゃあ連れて行かれるわけなんかないんだけど」

 瀬良が荒れた海を恐れない理由はそれなのだろう。連れて行ってくれないのだから、連れて行かれるわけがない、という淋しい演繹えんえき。あるいは、そうやって侮ることでいつか連れて行かれるのではないかという、死を望むと言うのには消極的過ぎる、子どもじみた祈り。

「……まだ行くなよ」

 俺がそう言えば、瀬良はやっぱり笑う。

「呼ばれないから行かないよ」

「呼ばれたって行くなって」

「行っちゃったら立野は嫌?」

「嫌だよ」

「嫌かぁ」

 だいたい、みんな「行って」しまったのが嫌でそんな考えを起こしているくせに、なんだって自分だけはどこかに行ってもいいと思っているんだ。そう叱ってやりたかったが、大人になってしまうと、俺達は誰も、自分の言葉の届く範囲というものを理解してしまう。だから言わなかった。死ぬなとか、命を大事にしろとか、そんな言葉で解決する問題ならば、瀬良は荒れた海を好む人魚になっていない。

 言わないまま、それでも、どうにかしてこいつを陸に縛り付けておけないだろうか、と考えて、どれくらい経っただろうか。

「灯台みたいだな」

「あ?」

 雨音が間断なく続くから耳鳴りのようにも思えてきた頃、瀬良がそう呟いた。

「立野だよ。きみは光だ」

「……何の話だ」

「きみの声はよく通る。最初に泊まらせてもらった時も、きみの声を聴いて陸を見たんだ」

 タオルケットをたぐる気配。

「きみが服を着たまま海に入ろうとしたのを見てびっくりしたんで、戻ってきたけど。……うん、海には呼ばれないけど、きみには呼んでもらえたんだな、ぼく」

 眠そうな声だった。

「きみがよんでくれれば、それでいいな、もう」

 溜息みたいにして囁かれたその言葉を最後に、瀬良はあっさりと眠ってしまった。俺の答えなど気に留めてもいないようだった。

「……ったく」

 こちらが身を起こしても身じろぎひとつしない。寝顔が安らかかどうかは覗き込んでもわからなかったが、少なくともお盆にしか帰ってこない何かに呼ばれたいだなんて、今は考えないでくれればいい。抱きすくめられたタオルケットの代わりに、新しい一枚をかけてやりながら、俺はそう願った。


          ☆


 今年も瀬良は泊まりに来るだろう。そろそろ俺が引き揚げなくても自分で来るようになって欲しいところだが、人魚は人魚なので、呼ばれたいかどうかにかかわらず海が好きだから、こればかりは仕方がない。

 台風の予報を見たら、多めに食料を用意する。海辺の道をミニバンで走る。そうして波間を見て、瀬良を探し、光を発する代わりに名前を呼ぶ。

 淋しがりやの人魚は、灯台を目印に陸へと戻ってくるらしいので。

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