第4話



 眼を開いて、静かに身を起こす。

 陸遜は数年、修行の身として、この庵で暮らしたことがある。

 まだ幼い頃のことだった。

 あの時はこうしてここで、仰向けに寝て、朽ちた天井をたった一人で見上げて……、心が孤独で。

 涙が零れることがあった。

 父が死んだ時のことを忘れたことはない。

 今も鮮明に、昨日のことのように覚えている。


 ……それでも、もう昔のように涙は零れない。


 変わらずに、陸遜の心は孤独だったが、この世界にもう、たった一人なのだと夜中に目覚め、四肢が震えるようなこともなくなった。

 心が強くなったということなのか。

 それとも、痛みも、孤独も、慣れて行くものなのか。

 庵の側に、もう一つ離れの建物がある。

 客人は普通そちらへ泊めるが、今回は周瑜がいるので、こちらの庵が陸遜達の寝床となった。

 紀玄と師は離れの方で寝ている。

 こちらの一間には淩統と陸遜の布団が敷かれていて、孫策の布団も敷かれていたがそちらは空だった。

 屏風を挟んで、一番奥に周瑜が寝かされている。

 そっと覗き込むと、孫策は毛布だけそこに持ち込んで、眠る周瑜の隣に潜り込み、毛布の上から彼女の身体に腕を掛け、寄り添って眠っていた。

 その表情は、過酷な道を上がって来た疲労感から解放されたというのもあるかもしれないが、陸遜の目には少し安堵したように見えた。

 建業では周瑜の症状に、皆、戸惑うばかりで「分からない」としか言わなかった。

 ここではその言葉を一度も聞かなかったので、安心したのかもしれない。

 周瑜の肩に頬を寄せて眠る孫策の顔を、陸遜は優しい表情で見下ろした。



『私は父さまと一緒にいる!』



 幼い自分の叫びが、自分自身の心だけに木霊した。

 あの少女は、幻影のような儚さで、この世界で、陸遜の心の奥底にだけ存在する。

 愛する者の無事だけを祈り、

 自分だけは一緒にいるのだと叫んでいた。

 陸遜は不意に孫策と周瑜から顔を背けると、足音を立てることも無く、手前で眠っている淩公績の側を通り過ぎ、庵の外へ出た。

 一面の緑。

 ここでは、夜は黒ではなく、青い。

 月の光が射し込むと池の水面に反射し、明るく一面が輝く。

 蓮の咲く池のほとりに、陸遜はその姿を見つけた。



「……師匠」



 振り返った師は、陸遜を見つけると、穏やかに笑った。

「伯言。どうした。道中、厳しい道のりだっただろう。疲れたのではないか」

 陸遜は微笑みだけ返して、池のほとりの石に腰掛けた、師の側にやって来て、立った。

 ここはいつ来ても、蓮が咲いている。

 初めて来た時からそうだったから、不思議とも思わなかった。

「師匠こそ、騒がしく来てしまって申し訳ありません」

「いや。最近は夜中に目覚めて、こうして一時、ここで水の音を聞いているのが好きなのだ。

 その方がよく眠れる」

「そうですか……」

「お前のことは、時々<六道>の者がここへ来て、様子を教えてくれる。

 ようやく、己の仕えるべき、主を見つけられたのか」


「私の仕えるべき主は、死ぬまで陸康殿と決まっています」


「しかしお前は彼らをここへ連れて来た」

 陸遜は手を伸ばして、可憐な色で咲く蓮の花に指先で触れた。

「師匠。聞いていただけますか」

「うん……?」

「あの二人……孫策殿と周瑜様です。

 言葉にするのが難しいのですが、あの二人は、普通の人間とは違うのです。

 特別な宿縁にあると、そんな風に感じることがあります。

 幼い頃から寄り添って、最初は友人でも、今は夫婦になられた。

 二人で一つの魂……、そんな気がします。

 まるで比翼の鳥のような。

 

 私は……」


 陸遜はあまり、己を語ることが好きではなかった。

 上手く言葉にならないのもある。 

 だが、話さねばならない時というものもある。

「私はこの世では誰しも一人なのだと。

 ここに初めてやって来た時は、そう思っていました。

 ですが、師匠に様々な知恵や、学術を授けていただけて、……そういった知恵は、他者との共存の為にあるのだと。

 毒も、薬も、この世で自分、たった一人ならば使う必要などないのだと、いつしかそれに気づいて。

 ……だからここで学んでいる時は、自分が誰かの為に生きているのだと、そんな風に思えるようになりました」


「陸遜」




「……于吉師匠うきつせんせい




 陸遜は師を静かに、見つめた。

「私を孤独から救って下さったのは、師匠です」

「……。」

「周瑜様が亡くなられれば、孫策殿は孤独になってしまいます。

 彼には、家族も、弟妹も、仲間も友人も大勢いますが、魂を預けられるのは周公瑾ただ一人。

 彼は呉の国の王になった。

 孤独は人を狂わせます。

 王が狂えば、呉の国でも、漢の国の董卓と、同じようなことが起こるかもしれない」

「……。」

「孫策殿を孤独から救っていただきたいのです。師匠。

 私にそうして下さったように、あの方にも、知恵を授けていただきたい」

 于吉は陸遜から視線を逸らし、月の光を見上げた。

 陸遜ははっきりと、戸惑いの表情を浮かべる。


「甘えたことを言っていると、自分でも思います。

 けれど、私が助けを求めた時は、貴方はいつも助けて下さいました。

 私は、貴方ならば、ここからは助けなど無いと、あとは一人で生きていけと、そう言われても、感謝こそすれ恨みなどには決して思わないと、ずっと思っていました。

 それでもあなたは、一度も、私を厳しく突き放すようなことはしなかった。

 だから戸惑いがあるのです。

 何故、今回だけ……」


 拳を握り締める。

「あそこに書かれていた薬では――周瑜様は、目を覚まされません」

 はっきりと陸遜は言い切った。

 そこに書かれていた三種の薬は、周瑜の状態を見た時に、まず調合を考えるものだった。

 つまり、陸遜にも労せず、考えつく類いのものなのだ。

 そんなものが必要ならば、とっくに彼が自分で作り、建業の城で周瑜に投与していた。

 あれでは駄目なのだ。

 陸遜には確信があった。

 だからこの地にまで来て、師に助けを求めた。

 当然、于吉もそれは一目で見抜いただろう。周瑜のただならぬ状況も。

 それでも師がありきたりな治療しか提案しなかったことに、陸遜はただひたすら、驚いたのだ。

 こんなことは初めてだった。

 これではまるで。



(治療を拒んでおられるようだ)



 そんな人ではないのに。

 今は年老いて、世間の喧騒から離れたいと、この庵に移ったが、若い時は于吉はそれこそ大陸各地を放浪し、様々な人々を救って歩いたのだ。

 彼は自ら見返りを求めるようなことはなく、だからいつも貧しい暮らしをしていたが、助けを求められればどこへでも出向き、普通の医者が匙を投げた者ならば、富んだ者も、貧しい者も、区別せず助けた。

 


 ――――『傷む人に尽くしてこそ、天から授かった知恵の意味がある』



 陸遜も修行中、于吉が病人を見舞い、治療するのを側で見ながら、その技術と精神を学んだ。


「師匠。わたしが、なにか、非礼をしたでしょうか」


 小さい声で陸遜は言った。

 陳腐な言葉だと思ったが、それくらいしか考えられない。

 師が、目の前で苦しんでいる人間を前に、治療を拒むなど、初めてのことだった。

「もしそうならば、幾度も伏して、お詫びいたします。

 ですが、あの方達だけは救っていただきたいのです。

 どうか、もう一度――」

「ふふ……」

 静かな、笑みが聞こえた。

 于吉が陸遜の方を見て、笑った。

 師がいつも陸遜に見せる、優しい笑みだ。

 皺のある手を伸ばし、彼は陸遜の頭を、そっと子供のように撫でた。

「お前は、自分が助けを求めた時はいつも私が助けてくれたと言ったが……お前が今まで、私に何か助けを求めたことがあったかね?」

 陸遜は琥珀の瞳を揺らした。

「……わたしには弟子がたくさんいるが、その中でお前ほど、無口な子はいない」

「師匠」

「自分の苦しみを、相手に訴えるという点でな。

 お前が私の手を煩わせるようなことは共に暮らしていた時も、一度も無かった。

 どんな修行にも音を上げなかったし、やれと言ったことは全てこなした。

 お前を知る者達は、お前を才能のある者だと言うかもしれないが、お前にあるのは、才能ではなく心だ。陸遜。

 自分を愛してくれる者、助けてくれる者、教え導いてくれる者。

 そういう人間に触れた時、お前は澄んだ心で、その人間に尽くしたいと思える。

 人に対して誠実であろうとするから、愛情も、助けも、教えも、お前の中で誰よりも鮮やかに響くのだよ」


 自分は根本から、人を偽っている。

 常にそう、思い続けている陸遜は、そんな風に言われて心を震わせた。

 この人は、縁もゆかりもない陸遜を引き取り、自分の持つ知恵や技術を惜し気もなく教えてくれた。

 そんな人は一人としていなかったから、陸遜は于吉を父のように慕って来たのだ。

 陸遜はあまり自分の私情を表に出さない。

 それに、影に暗躍する仕事柄、周囲の人間には不信を抱かれたり警戒される事の方が多い。

 お前はよく分からない、と言われることは、何も孫権や張昭に限ったことではないのだ。

 ただ、師以外に、出会った時から陸遜に心を開き、無条件に信頼してくれた人間がたった一人いた。


 ――それが周瑜だ。

 

 周瑜だけは何故か、陸遜を一番最初から信頼し、自分の側仕えとして使ってくれた。

 自分は幾度か、その信頼を裏切るようなこともしたはずなのに、彼女がこちらに向ける穏やかな夜色の瞳は、決して変わることが無かった。

 そのこと自体、陸遜は周瑜に恩義があるのだ。 


「……師匠。もう一度だけ、お願い申し上げます。

 周瑜様を、助けていただけない訳を、お話しいただけないでしょうか」


「あの女人に咎はない」

 于吉は言った。

 その横顔をじっと見て、数秒後、陸遜は気づいた。



「…………孫策どの……?」



 行きついた答えに、戸惑う。

 でも、何故……。


 何故孫策が理由で周瑜の治療を拒むのだろう?


「……私はお前に、私の知る、ほとんどの知識を教え与えた。

 ただ一つだけ、お前に教えなかったことがある」


 陸遜はゆっくりと頷いた。

 それは、いつしか気づいていた。

「<星詠術せいえいじゅつ>……。」

「お前はとても稀な星を背負った子供だった。

 輝かしいということではない。

 空の星は人の心を癒し、照らすものだが、人の背に覆い被さる星は宿業を与えるものだ。

 その多くが、苦しみになる。

 天から与えられる苦難。

 私と出会った時、お前は父を失い、絶望していた。

 この上、星の痛みなど、与えたくなかったのだ。

 伯言。私は教えたな。

 人は、自分の意思でこそ、運命を切り拓いて行けるのだと」


「はい。その言葉にも、私は救っていただきました」

「私が星詠術を学んだのは、自身のためなのだ」


 言って、彼は静かに自分の衣の半身を脱いで見せた。

 陸遜は息を飲む。

 于吉の身体には激しい火傷の痕があった。

 それは見える部分だけだったが、恐らく、焼け爛れた傷は体中に広がっていることが分かる。

 陸遜は数年彼と暮らしたが、その傷のことは全く知らなかった。


「師匠それは……? その傷は、一体どこで……」


「どこということはない。

 これは生まれた時に、すでにこの身に刻まれていたのだよ」

 于吉はゆっくりと、衣を纏い直す。

「最初は薄い斑紋のようだったものが、歳を重ねるごとに色濃く浮かび上がって来た。

 この傷は周囲を遠ざけ、私に孤独を与えた。

 親でさえ気味悪がり、兄弟でさえ、お前は何かが違うと私を疎んだのだ。

 ……何故なのだろうと、考えて、思い悩んでいた時に、一人の占星術師が私を見て『紅蓮の宿業を背負っている』と、ある時語った。

 私の魂はこの世に生まれる前に、別の世界にあって、そこで罪を犯したのだという。

 そしてその世界で炎で裁かれ死んだのだと」

 陸遜は何故、師が今、こんな話をするのかと、そんな風に思った。

「その話を聞かされてから、私は時々、その業火の記憶を、……この世界で味わっていないはずのその苦しみを、夢に見るようになった」

「そんなことが……経験していない記憶を、夢に見るのですか?」

「そうだ。だが、経験していない記憶という表現は正しくない。

 私は確かに、あの苦しみを、知っているような気がしたのだよ。

 その夢を見るようになってから、私はその占星術師の話を信じるようになった。

 私は生まれながらの咎人だから、この傷はその烙印なのだと。

 別の世界で犯した罪の為に刻まれた印なのだとな」


 孤高を好む、その魂。

 確かに時々于吉は、一人庵に籠って、瞑想に耽ることがあった。

 心を鎮めるように。

 その姿は、陸遜も見たことがる。

 だが火傷の話は一度も聞いたことが無い。


「私の中には、人に対しての憤怒がある。

 だからこそ、その怒りが牙とならぬよう、人を救うことで、恨みと激しい怒りを飼い慣らしていたのだ。

 私にとってこの痛みは、誰にも共有できぬ、目に見えない宿業だった。

 気のせいだと六十年、思い続けて、生きて来た。怒りを誤魔化し……」


 于吉は立ち上がる。

 風が静かに吹いた。

 優しい色の蓮の花が揺れる。


「だがある日、不意に、感じたのだ」


 陸遜の唇が微かに震えた。

「幻のようだったものが、目の前に、確かな形となって現われた。

 学び続けた<星詠術>が、私に告げてくれた。

 ……その誕生を。

 私に紅蓮の宿業を刻んだ相手が……」

 孫策の顔が過る。

「孫伯符というあの男は、星宿においては天軍の位に位置し、数多の車騎を従え、<平定>と<潰走>をもたらす、戦神のこども。

 非常に不安定な状態で生まれ、星の天意が定まるまでは、恐ろしい破壊をもたらすこともある、危険な星なのだ。

 私は幾度か、孫策が<潰走>の鎌を振るっている所に遭遇し、あの者の手によって、命を奪われているのだ」

 琥珀の瞳は驚いて、見開かれていた。

 確かに于吉は、星に導かれるように人々を救ってきた人だった。

 何の見返りも求めず、苦しんでいる者達をただ救う。

 その彼が、星宿を理由に、孫策の協力を拒むなど、思いもよらなかったことだ。

 于吉が星の意志に促されてこの世を生きて来た人だったなどと。


(この方は、何もかも自分の心で、生きて来られたのかと)


 だからこそ、陸遜はただ自分の善意でこれだけ強く慈悲深くなれる人がいるのかとただひたすら驚いたのだ。

 しかし、「自分で運命を切り拓く」という言葉には、何よりもそうありたいと願う、于吉の真意が隠れていたのである。

 陸遜は今、初めてそれを理解した。

 紀玄は、于吉から<星詠術>を教わっていた。

 なら、彼も孫策のことを知っているのだろうか。

 そういえばここに来る時、紀玄は陸遜達が来るのを待っていたようだった。

 この<泰山たいさん>には他にも、于吉の弟子たちが棲みついている。

 紀玄は、免許皆伝を得た後は、荊州方面に出向いていたはずだ。

 陸遜はこの十年、彼の話は聞いても、実際に会ったことは無かったのだ。

 彼がこの山に戻っているとも思っていなかった。

 偶然もあるものだと、そんな風に単純に思っていたのだが、そうでは無かったのかもしれない。

 孫策が于吉と因縁があるとするならば、その存在を把握していたはずだ。

 于吉の側には<六道>の者のように動く者達が大勢いるので、孫策の動きも注視していただろう。


『貴方の顔が無ければ、招き入れない所でした』


 単に、再会を喜んだように聞こえた、何気ない紀玄の呟き。

 陸遜がいなければ、于吉は、孫策には会わないつもりだったのだ。

 そこで陸遜は、自分が思いがけず、知らぬうちに果たしていた役割を察して、静かに口許に手をやっていた。

「お前には理解出来ぬだろう。

 私とその者の星は、非常に複雑な因縁で結ばれていて……。

 幾度違う生を与えられ、別の轍に移り変わっても、出会えば必ず殺し合う、そういう宿縁らしい。

 私にとって、殺しは恐ろしいものだ。

 人生を懸け、数多の人を救って来た。

 一度殺せば、自分の人生を否定することになるかもしれない。

 ……数日前、お前の夢を見たと言っただろう」

 小さく頷く。

「お前が月を背負って、やって来る夢だった。

 私がよく見る夢では、私は闇に飛ぶ梟の姿をしていて、闇の中に浮かんだ月に向かって飛んでいる。

 月の冴えた光に照らされているうちに、全身が焼け爛れ、翼が溶け、皮膚も溶け、飛べなくなった私は闇の中に落ちて行く。

 ――<死をもたらす月>。

 孫呉の王を、私の星詠術はそう示した」

「師匠……」

「因縁ある星同士というものは、自ずと引き合うことがあるようだ」

「…………、」

「私は出会えば、殺してしまうと思った。

 だから二十年ほど前に、この庵に居を移したのだ。

 因縁のある星がこの世に現われたことが分かったから。

 しかし、私が引き取り、教えたお前が、まさか『月』を連れて来るとは思いもしなかったが……。これも何かの、運命だったのかもしれぬな」

 運命だったのかもしれないという、その言葉に込められた感情を読み解くのは、非常に難しかった。


「……師匠……お許しください……。わたしは……知らなかったのです……」


 震える声で陸遜は言った。

 知らずのうちに、果てしない恩義のある人を、自分が苦しめていたなどと。

 于吉は静かに首を振る。

「いいのだ。お前を恨んだりはしていない。

 それどころか、こうしてお前と話していると、心が穏やかになり、憎しみや怒りが溶けて行く。お前という人間を教えたのだから、殺したり、傷つけたりしてはいけないと、そんな風に思う。だから私はあの男を殺さぬよ。

 他の世で、幾度も私を、あの男が殺したとしてもだ。

 ……私は許そう」


 だが、救いもしない。


 于吉の言わなかった言葉が、陸遜には分かった。

 彼は深く一礼し、まだ戸惑った表情のまま。歩き出した。

 頭の中には、明日の朝早く、どう理由をつけて、孫策をここから連れ帰るのがいいのかとすぐにそんなことが考え巡った。

 だがすぐに、孫策の強い、青灰色の直視を思い出し、眉根が寄る。


(だめだ。あの人はどんな誤魔化しも、簡単に聞き入れるような人ではない)


 何の理由もなくでは帰りましょうなどと言った所で納得するはずが無かった。

 脳裏に周瑜の顔が過る。

(そうだ)

 于吉と孫策の因縁話に、心を持っていかれて忘れてしまっていた。

 立ち止まる。


 

「………………師匠」



 深く息をついてから、陸遜は振り返った。


「……それでも救っていただきたいのです」

 于吉が陸遜を見る。

 二人の間に涼しい風が吹いた。

 陸遜の琥珀の瞳が、水気を帯びる。

「師匠と、月の因縁の話は、よく分かりました。

 その無念も……、怒りも、出会った時に、貴方は、孫伯符に恨む表情など何一つ見せなかった。

 出会いを予期していたのにも関わらず。

 その心を知る私は、きっと、今、口を閉ざすべきなのでしょう。

 貴方に心の平穏を与えていただいた。

 だから私も、そうしなければならない。

 

 ――けど、それでは周公瑾の<星>は?」


 周瑜という人間は、陸遜にとって、最初は、単なる目的の一つでしかなかった。

 陸康に与えられた、新しい任務。

 それでも彼女という人間を知るたびに、こんなに素晴らしいひとがいるのかと、心が惹かれて行った。

 袁術の執拗な悪心も、周瑜を壊すことは出来なかった。

 いつしか、こんな乱世でも、この人だけは幸せになって欲しいと、陸遜は心の片隅で願うようになっていたのだ。


 琥珀の瞳から、一粒だけ涙が零れた。


(いま、分かった……)


 孫策に媚薬を盛った時、あれは魔が差したのではなかった。

 陸遜は彼に惹かれたのではない。

 周瑜の目を通して見る、孫策に惹かれたのだ。

 周瑜があれほど焦がれる男ならば、自分の『王』になる資格があると、そんな風に思った。

 この理不尽な運命に囚われた身を、孫策ならば救ってくれるのではないかと、愚かにも思ってしまったのだ。

 別にまだ何も尽くしたというわけではない。

 それでも周瑜は、陸遜が背負う何かを感じ取り、出会った時から陸遜に庇護を与えてくれた。


 ――孫権の、冴えた青い瞳。

 自分を疑い、疎む、あの瞳。


 周瑜の夜色の瞳は、静かに、陸遜を包み込む。

 孫権にいくら憎まれようが、張昭にいくら罵られようが、構わなかった。

 周瑜が自分を信じてくれている。

 そのことで、陸遜は自分を肯定出来た。

 孫呉にいる意味も。

 命を懸ける意味も。


 自分の父を死に至らしめた陸家以外に尽くす道を、示してくれた。

 自分のような人間が今、光の当たる道を、周瑜と一緒に歩けることこそ、勿体ないほどのことなのだ。



「周公瑾の<星>が、今ここで潰えなければならない意味を、教えてください」



 師に逆らったのは、今、この一度だけだ。

「あの方は、私がこの世で知る中で、最も強く、誠実で、優しい魂です。

 だから死んでほしく、ないのです。

 私は星のことは全く分かりませんが、それでもあの方がここで命を奪われなければならない人だとは、どうしても思えない。

 父のように、他人の身勝手に巻き込まれては、決して……。

 私は陸家の為に尽くして、死にゆく運命ですが、周瑜様はそんな業を背負った私を、一度も疑わず、信じて下さった。

 そんな人を死なせたら……わたしは、」

 陸遜は于吉に歩み寄り、その側に膝をついた。



「私はこれから、自分をどう、信じて行けば?」



 今この瞬間に、何も出来なくて。

 周瑜の失われた世界で、何を守って、命を懸けて行けばいいのか。

 強く自分の眼元を拭い、深く頭を下げる。

「孫伯符の星が、貴方にとって禍々しいものであるなら、周公瑾の星を今一度、仰ぎ見ていただきたいのです。

 あの方は今まで、多くの人の命を救って来ました。

 これからもきっとそうなる。

 周瑜様を慕う孫策殿も、そうなって行くはずです。

 あの方たちは、そうやってお互いを、光のある方へ導いて行ける」


「周公瑾を救えば、孫伯符を救うことになる」


「そうしていただきたいのです」


 陸遜はもう一度、懇願した。

 祈るような気持ちだった。

 于吉以外に、周瑜を救える手立てを、陸遜は知らなかった。

 彼を動かせなければ、周瑜は死ぬのだ。

「どうしても駄目だというのなら、この私の命を、師匠にお返しします」

「……命を?」

「はい。師匠はいつも、傷つく人々に心を寄り添わせていらっしゃいました。

 天下泰平は貴方の宿願。

 今、それを阻害しているのは長安の董卓。

 私は、董卓を殺しに行きます。

 どのような手を遣っても、奴を殺して、……せめて世界を、それくらい晴らさなければ」

 きっとそれでも、周瑜を失った孫策の心は、ただ少しも慰められないだろう。

「周瑜様が眠りにつかれた時、私は側にいたのに、お守りすることが出来ませんでした。

 そして今も、生涯の師と仰ぐ貴方の心を、少しもこの言葉で動かすことが出来ない。

 わたしは、いつまで、こんなことを」

 こんな、誰も救えない人生を続けていくのか。


「無意味な人生は、それなら、もうやめるべきかと思うのです」


 陸遜はじっと、待った。

 随分長い間、静寂が訪れていた。



「……私は時々、人の瞳の中に霊性を見ることがある」



 ふ……っ、と何か空気が変わった。

 降り注ぐ月の光の色が、変わったような気がしたのだ。

「その人間と初めて会った瞬間に目を合わせると、時々不思議な輝きが目の奥に浮かび上がる人間がいる。

 長安の街角で、焼け落ちた王宮を見上げていたお前の瞳の中にも、私はその霊性を見た」


 言葉に導かれるように、その時の光景が鮮明に蘇る。



『何を見ているのだ?』



 街には、親を失った子供は溢れていた。

 陸遜はその中の一人に過ぎなかった。

 陸家からもはぐれ、父親の許にも行けず、本当に轍から外れて独りきりになってしまったのだ。


『……父さまを見てる』


 少女は無表情で言ったが、琥珀の瞳からは大粒の涙が零れていた。

『昨日まで、あそこで笑ってた』

 涙の奥に、不思議な色が滲み出した。

『昨日まで……』

 涙が荒れた土の上に落ちて、染みを作る。

 

 雨だ。

 于吉は空を仰いだ。

 焼けた大地に降り注ぎ、恵みの雨はまた花を咲かせるだろう。


『……何かしたい』


 少女は泣きながら、呟いた。

『父さまの為に、何かしてあげたい。父さまが一番私に、してほしかったことを。

 でも、それが何なのか、わからない』

 于吉は膝をつき、陸遜を抱き寄せてやった。

 こちらを見上げた少女の瞳の奥を、もう一度ゆっくりと覗き込む。

 確かにそこに、不思議な花紋が浮かび上がっていた。

 自分が大きな欠落を抱いた時にこそ、彼女は誰かを深く想った。

 于吉がまだ、若く、未熟だった時に――世界と自分との繋がりが絶たれようとした時に、必死の思いで彼はそう自分に言い聞かせた。

 今も、言い聞かせている。


 しかしこの少女には、今この瞬間にも、人が持つべき、最も尊い素質が備わっている。

 于吉は驚いた。

 そして、苦しみの底で憎むこと、恨むこと、閉じ籠もることを選ばなかった幼い魂に、心の底から敬意を抱いたのだ。


 ……大切に、守り、導いてやらなければならないと思った。





「…………それがお前の願いなのか?」





 于吉は尋ねた。

 青年の姿となった陸遜が、顔を上げる。

 彼は、人の為に願わない青年だった。

 だが最初からそうだったわけではない。

 于吉と一番最初に会った時、陸遜はただ、苦しみながら死んだ父の為に何かしたいと、無垢に願う少女だった。

 人の為に心から願った時、陸遜の瞳の奥に、不意に咲いた花のような霊性が表われる。

 今もそれが、確かにここにあった。

「お前が人の為に願うことは滅多にない。

 だが、それが今の、お前の願いなのだな」

 孫策と周瑜が寄り添い合って、緑に光り輝く美しい庭の中を歩いているのを見る時、陸遜は不思議と心が安堵するのだ。

 父が失われた世界でも、こんなに綺麗な光景がまだあるのかと、そんな風に思うからかもしれない。

 人が幸せを心から望んだら、まだ、こうして幸せになれることがあるのだと思える。

 他者の心など、自分には何の関わりがないと考えて生きて来た陸遜の生き方を、周瑜達は根底から揺るがした。

 他人の為にこれだけ強くなれるということ。

 愛することに、大きな意味があること。

 まるで父が生きていた頃のように、陸遜は周瑜の側でなら、子供のように無邪気な夢想することが出来た。

 それがひどく、心地良いのだ。

 ただ思いを馳せるだけも、心が温かく慰められる。

 陸家のためだけに生きて、陸家の名誉や、敵を討ち滅ぼすためだけに手を汚す、それ以外の生き方が出来るのではないかと。


(失いたくない)


 ようやく見つけられた、この温かい場所を。

 光を。

 自分は絶対に、失いたくないのだ。


「そうです。

 今は何よりも、それを願っています」


「……そうか」


 于吉は月のある空を見上げた。

 一度目を深く閉じる。

「お前がそう望むなら」

「師匠」

 陸遜は顔を上げる。

「しかし……、周公瑾の身体に起きる異変は、ただならぬ。

 それを快癒させるためには危険が伴う。それは、分かっているな?

 私とて万能ではない。

 もしかしたら、それはかえって、死を招くことになるやもしれん。

 今はまだ、花は枯れずに、咲いていられる」

 師の比喩に、陸遜は強い瞳を見せた。

 枯れない花などを、孫策が望むはずがない。

 孫策が望むのは風を匂い、水に揺れて、時に枯れてもまた実を結び、幾度も咲く花だ。

 共に時を過ごしていると実感出来る、それを彼は何よりも尊重する。

 周瑜の異変を強く感じ取ってる孫策は、快癒の為に危険が伴うことも、承知のはずだ。

 そして、周瑜の魂と身体の健全さを強く信頼もしている。

 周瑜が見た目通りのか弱い、ひ弱な花なら、怯えたかもしれないが、彼女はどこまでも孫策を安心させ、包み込める存在だった。


(一時の痛みや恐怖など、きっと乗り越えて下さる)


 周瑜に対しても、孫策に対しても、陸遜はそう思った。

「私の表現が、誤解を生みました。師匠。

 どのような手段でも構いません。

 妃殿下を目覚めさせる方法を、授けていただきたいのです。

 あの方は健全な体と強い魂を持っておられる。

 危険は承知の上でも、きっと乗り越えて下さると、孫策殿も信じてここに来られましたから」

「そうか。では、お前も恐れることは無いのだな」

 周瑜を失うことに恐れを見せた陸遜に、尋ねる。

 陸遜は今は、しっかりと頷いた。


「はい。」


「そうか。

 ……――では例え、周公瑾が目覚めたとして、お腹の子は毒気に耐え切れず流れるかもしれぬが、それもまた、お前は恐れぬのだな?」


 顔を上げていた陸遜の表情が一瞬、行くべき道が分からなくなった少年のような色を浮かべる。

 迷いの無かった琥珀の瞳は、師の言葉をゆっくりと頭の中で反芻し、数秒後、それは激しく一変した。




「――えっ……!?」




 蓮の花がそっと揺れる。

 雪の積もる季節だというのに、この緑の庵の側はいつも春のように温かい。


 まるで姉弟のようにじゃれ合いながら、仲良く身を寄せ合う、孫策と周瑜の姿が脳裏に過った。









<終>




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異聞三国志【冬に咲く花】 七海ポルカ @reeeeeen13

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