第2話



 数時間後、陸遜はようやく庵へ続く道を見つけた。

「つきました。こちらです」

 孫策が息をつく。

「俺の目には今まで通りの光景にしか見えねーけど……。

 なんか目印があるのか?」

 きょろきょろしている。

 陸遜は小さく笑んだ。

「いえ。そういったものは何もありません。樹の形です」

 彼は特徴のない茂みの中に掻き分けて行く。


「淩統! 早く来い! こっから迷いそうだぞ」


 下の方で呻くような声が聞こえた。 

 一応は辛うじてついて来ているが、もはや返す言葉も出て来ないらしい。

 孫策も茂みの中へ入って行く。

 やがて、切り立った崖の側に大きな滝が流れている。


「へぇ……綺麗なとこだな。――っと」


 一瞬、表情を緩めかけた孫策が斜面の上の方に目を留め、身構えた。

 陸遜が手で制し、唇で特徴のある口笛を吹いた。

<六道>の者達は視界の無い場所や、こういった山岳地帯などでの行動でも連絡が取り合えるように、こういった笛などで意思疎通を行う。

 孫策は戦場で、陸遜が唇を鳴らしているのを何度も聞いている。

 だが、そのどれとも、今のは違う音だ。

 聞いたことが無かった。

 一瞬の静けさの後、ガサガサと頭上の木の枝が大きく揺れた。



「伯言どのか?」



 声が降って来た。

 陸遜が自分の腰に下げた剣の一本を引き抜き、おもむろに上に向かって放った。

 剣は落ちて来なかった。

 また数秒してから、ザッ、と大きく気がしなり、頭上の枝の上に人影が姿を現わす。

「名刀<星喰い>、確かに確認させていただいた」

 一人の男が身軽に飛び降りて来る。

 随分高い所から落ちても、足音も立てずに地に降り立った。

 その身のこなしが、戦場の陸遜ととても似ていた。

紀玄きげんどの」

「久しいですね、陸遜殿。見知った顔があると思いましたが、

 貴方の顔が無ければ、招き入れぬところでした」

 年は二十代半ばという感じの、若い男だった。

 彼は陸遜に、剣を返す。

 陸遜は笑みを返した。

「はい。お会いするのは……十年ぶりですか……?」

「そのくらいになると思います」

 男は陸遜の肩を軽く抱くようにして挨拶を済ませると、孫策の方に目を向けた。

「こちらから仕掛けてもないのに、待ち伏せしている時に気取られたのは私は初めてです」

「はは……」

 陸遜が軽く笑う。

 城ではあまり見ない表情だった。

 本当にこの男とは、旧知の仲なのだろう。

 陸遜はいつも忠実で勤勉だったが、どこか孤高を纏う青年だったので、初めて歳相応の笑顔を垣間見たような気がして、孫策は珍しく思い、同時に安心した。

 陸遜にもこういう存在がいるとは知らなかった。


「孫策殿、こちらは紀玄といい、私の兄弟子になります」


「孫策……」

 穏やかな顔をしていた紀玄が、呟き、顔色を変えた。

「もしや、呉の国の……」

「ご存知でしたか」

「はい。新しい国が興ったのは知っていました。麓の街まで、戴冠式の様子が伝わってきましたよ。新しい王は、反董卓連合の討逆将軍で、あの呂布と遭遇して死ななかった、唯一の人物。武勇に秀でた方だと聞き及んでいます」

「死ななかったって褒められるのもいい加減カッコ悪いよな。

 どうせならそのうちちゃんと呂布を討ち取った男、って呼ばれたいもんだ」

 孫策が苦笑している。

「紀玄と申します」

 男は孫策に拱手してみせた。

 それから顔を上げ、孫策の背に負われた周瑜にすぐ気づき、彼は近寄る。

 周瑜が頭から被っていた外套をゆっくりと下ろすと、何も言わないまま、彼女の首筋に触れた。

 孫策は紀玄の表情を見ていた。陸遜もである。

 

「……師匠せんせいに会いに来られたのですね」


 紀玄が周瑜から手を離し、陸遜を振り返る。

「はい。お会い出来ますか?」

「勿論。庵にいらっしゃいます。貴方が来たと知れば、喜ばれるでしょう。

 伯言は、数多いる師匠の弟子の中でも、最も優秀でした。

 師匠にも一番、才能を愛された」

「へえ……」

 孫策が陸遜を見た。

 陸遜は瞳を伏せ、小さく笑んだだけだった。

 紀玄が後ろの方を見た。

 がさがさと音がして、淩統がようやく姿を現わす。

「もう……死にそうなんですけど……」

「紀玄殿。こちらは護衛の淩公績殿です」

「そうですか。庵にご案内しましょう。こちらへどうぞ」

 紀玄が歩き出す。


「……。一瞬、あいつ、表情が曇ったな」


 陸遜は孫策を振り返る。彼はじっと、山道を下りて行く紀玄を見ていた。

 紀玄が周瑜に触れた時の、一瞬の表情を見抜いたのだろう。

「どうかお気になさらず。師匠はありとあらゆる薬術に通じておられます。

 必ず良い方法を教えて下さるでしょう」

「……。悪い。ここまで来て怖気づいたりしても、仕方ねえよな! 行こう」

 明るく、自分に言い聞かせるようにして、孫策は歩き出した。

「滝の裏に洞窟の入り口があります。

 庵はそれを抜けた先に。

 足場が悪いので、よろしければ周瑜様は、私がお運びいたしますが……」

「やだ。こいつは誰にも背負わせねー」

 孫策が振り返らずに返して来る。



(……本当に、絶望を知らない人だな)



 孫策の背中を見送り、陸遜は一瞬、優しい表情を浮かべた。

「なに~!? まだ歩くの~!!?」

 淩統が膝から崩れ落ちている。

「庵まで、もうすぐそこですよ」

「あんた数時間前も同じこと言った」

「いえ。これは本当です」

「本当ってことはさっきのはやっぱり嘘だったわけだ!」

「いえ別に嘘をついたつもりはないのですが」

「もうすぐそこってあと何分?」

「そうですね……。何分というか……そうやってそこに蹲っておられる限り明日になっても辿り着きませんが……」

「この上厭味だよ!! よくやりましたねの一言もない! 

 あんた鬼みたいな人だ!

 皆が策様みたいに無限の体力じゃないんだから!」

「ああ、すみません。労ってほしかったのですか。

 よくやりましたね。

 ……これでいいですか?」

 淩統が立ち上がった。

「そんな感じのねぎらいの言葉なんかいらない~!」

 怒った足取りで、彼はようやく歩き始める。

 この人は怒らせた方が頑張って行動するようだと陸遜はこの道中で淩公績という人間を随分学び始めていた。


「ほら、早くあんたこそ……」


 ここぞとばかりについて来いよ、と振り返って言おうとした淩統の目の前で、陸遜がとても普通の人間が命綱も無しでは降りていけない崖を、まるで野生の動物のような身のこなしで枝なども使い、あっという間に下りて行く。

「……あっそう……このあたり、普通の人間が全然いないんだね……」

 淩統は疲れた溜息をつき、よろめきながら険しい山道を慎重に下りて行った。




◇ ◇ ◇




 洞窟の中は陸遜が言った通り、岩などが道を塞いでいる上に、岩の上にも苔などが生えていて、足を取られた。

 さすがに苦戦する孫策に、陸遜が手を差し出し、出来るだけ安全な道を教えてくれる。

「悪いな。助かる。……確かにここは、お前が先導してくれねえと辿り着けなかったな」

 孫策が陸遜の手を握って、引っ張り上げられながら、笑った。

 彼はこの山道もそうだったが、この足場も苦にしていない。

 しかも真っ暗な洞窟の中でも、夜目が利いているようだ。

 本当に、<六道>の人間は、不思議な能力を持っている。

 恐るべき機動力も。

「お前は本当に頼りになる。ありがとう」

「……恐れ入ります」

 孫策に礼を言われ、陸遜は一瞬琥珀の瞳を瞬かせたが、小さく笑んだ。





 ようやく、苦労して洞窟を抜けた。


 ぽっかりと開けた場所がある、一面の緑の苔の中に、古びた庵が一つ。

 庵の側に池があった。

「蓮だ……」

 池に蓮の花が咲いている。

「なんでこんな季節に蓮の花が……」

 孫策の呟きに微かな笑みを浮かべてから、陸遜は歩き出した。

 庵の前で、紀玄が待っている。

「どうぞ、お入りください」

 孫策と陸遜を促す。


 庵は外からは古びてたが、中は奥にもいくつか間があって、広々としていた。

 火の入った囲炉裏の側に、一人の老人が座っている。

 入り口をくぐったところで、陸遜は膝をつき、彼に向かって一礼をした。


「師匠。ご無沙汰をしております。お久しぶりです」


伯言はくげん。久しいな。実は数日前、夢を見た。 

 昔の夢で、幼いお前が出て来たから、どこかお前が来るような気がしていたのだ」

 真っ白な白髪の老人は、陸遜に目を向け、目を細めて言った。

「そうでしたか」

 陸遜は微笑む。それから、後ろを振り返った。

「人を連れて来たと紀玄が言っていたが」

「はい。呉の孫策殿と、その奥方の周瑜様です」


「――孫策殿と申されたか?」


 孫策は老人と目を合わせた。

 老人の眼は一つは黒かったが、もう一つは白く濁り、視力を失ったような色をしていた。

 見えているのか分からなかったが、孫策は一礼をした。

「突然お邪魔して、申し訳ない。

 陸遜に貴方のことを聞き、妻を診ていただきたく訪ねてきました」

 紀玄が入って来る。

「周瑜様は三週間ほど前から突然眠ったまま目を覚まされなくなり、ずっとこのままです。

 外傷などはありません。他に一切の病状、症状などはなく、特徴的なことは、極端に体温が下がって、脈が遅くなっていることです。

 私も今までこのような症状の人間は見たことが無く、こちらにお連れしました」

 ぱち……、と囲炉裏の中で燃えている火が、小さく爆ぜた。

 老人は孫策をしばらく見ていたが、もう一度陸遜を見た。

「お前がここに人を連れてくるなど、初めてのことだが。

 何か特別な事情があるようだな」

「はい。孫伯符殿は一年前、江東平定を果たし、その地に建国された呉の国の王です。

 周瑜様は王妃であり、私は今、陸家の陸季寧りくきねいの命を受け、お二人の側仕えをしております」

 陸康のことを、陸遜が陸季寧、と呼び捨てるのを初めて聞いた。

 陸遜の心が、養い親である陸康よりも、この老人の方に近くあることをそれは示していた。


「王の側仕えということは、政務をしておられるのですか?」


 尋ねたのは紀玄きげんだ。

 陸遜は首を振る。

「いえ。私は侍従のような仕事はこなしますが、政には一切関わってはおりません。

 主に戦が仕事です」

「そうですか。陸遜殿が今は戦場に出ておられるとは、知りませんでした。

 一つお尋ねしてもよろしいですか?」

 孫策は紀玄を見た。

 突然喋り始めた弟子に、囲炉裏の側の師はじっとこちらを見ている。

 どうやらこの男はあそこに座っている師の代わりに、尋ねて来ているのだろうと孫策は察する。

「なんでしょうか」

 紀玄が陸遜から視線を外し、孫策を見返す。

「実は風の噂で、戴冠式の折、漢の<相国>である董仲穎とうちゅうえいが呉の国を訪問し、直に建国を祝われたと聞きました。

 董卓と言えば今のこの世の混乱の元凶。

 呉の国は董卓との共存を望んでおられるのですか?」

「何故そう思われる?」

「董卓は手勢も少なく、噂の呂奉先りょほうせんも伴わなかったとか。

 それを、呉の国は無事にお返しになったので」

「それは……」

 何かを言おうとした陸遜を孫策が手で制する。


「私は以前は漢王室に仕える一武将に過ぎなかった。

 もし董卓が訪れた時にその身分であったら、私はあの男を迷いなく斬り伏せていました。

 董卓は漢の国の逆臣なのですから。

 だが、私は呉の国の王になった。

 今までの自分の身を縛っていた身分から離れ、私は漢王室のためではなく、自分の国の為に尽くさなければならない。

 あの時は董卓を討つべき時では無かった。そう思ったのです」


「討つべき時だとは少しも思われませんでしたか?」


 それは思った。

 今でも思い出す。

 周瑜とそれを話した。珍しい、周瑜の泣き顔を思い出すと、そのまま慰めるように抱き寄せた時の柔らかい身体と、孫策が触れた瞬間、安堵したように溶け合った、あの時の空気を思い出し、途端に孫策は胸が締め付けられた。

 孫策は、周瑜ならば「よし、董卓を斬ろう」と自分が言えば、「そうだな」と頷いてくれると思っていた。

 だが、あの時は周瑜は頷かなかったのだ。

 戸惑った顔をした。

 董卓を殺めるということに、躊躇いはないと言っていたが、それならば何故あの時周瑜は迷ったのだろう。

 理由は、色々なことが考えられた。

 孫策は、聞けばいいだけだった。

 孫策が尋ねれば、周瑜は答えただろう。

 だが孫策はあの一件に関しては、「董卓を殺す」という一つのことに関して、周瑜と想いが重ならなかったことを、少しだけ不思議に思いつつも、実のところ非常に興味深く感じていて、何故か聞く気がしなかったのだ。

 あの時何故周瑜が、何を思って董卓を殺すのを躊躇ったのか、それにふとした時考えを巡らせるのが、孫策は好きなのだ。

 周瑜は戸惑いの顔を浮かべた後、「では私がやる」と口にした。

 だから、もしかしたら董卓を殺めたくなかったのではなく、孫策にそうさせたくなかったのかもしれない。

 妻の自分がやるべきだと思ったと、周瑜も言っていた。

 でも、それも完全には釈然としない。

 自分と周瑜は二人で一つなのだ。

 今更、孫策だけに手を汚させたくないなどと、周瑜が考えるだろうか?

 それにその場合、周瑜だけが血に汚れても、孫策にとっては同じことだとも思う。


『殺すか、董卓を』


 何か、孫策があの時そう言ったことを、周瑜が戸惑い、嫌だと思う何かがあったのだろう。

 周瑜と孫策にとって、お互いの気持ちが重なっていないと感じることは非常に珍しいので、かえって孫策は面白くすら思ったのだ。

 だからあの時の周瑜の心境には、ふとした瞬間、考えを今でも巡らせる。

 孫策の辿り着く結論は、日によって違った。


 戴冠したばかりの王であった孫策の手を、汚したくなかったのか。

 武装しないで堂々と現われた董卓を、騙し討ちのように孫策が討つのが、嫌だったのか。

 董卓の生み出した混乱は、世の混乱と戦って来た周瑜の生きざまにも関わっている。

 孫堅の死。

 孫策と離れて過ごさなければならなかった、その背景も全て董卓が作り上げた。

 だからいつかあの悪の源を、力を合わせて二人で討とう、と誓い合っていたから、思いがけず、呆気なくその夢が叶いそうになって、喜びよりも戸惑いの方があったのか。


 考察は尽きなかったが、そのどれも、周瑜が孫策のことを想い、何かを悩んだのだということだけは分かったから、このことを考え終わる時に孫策の胸に浮かぶのは、自分をこの世の誰よりも深く愛してくれる女に対する、愛情だけだった。

 これからも考え続けて、いつかあの時の周瑜の心と、自然と完全に重なりたいと思う。

 それもまた幸せな想像だった。


 

 ――つまり、大きな葛藤はあった。



 董卓を殺すか、殺さないか、二人で迷った。

 だが孫策は結論は下したのだ。

 もうそのことで議論の余地は無いし、周瑜との幸せな葛藤の有り様を、他人に話してやる気は無い。


「董卓は災いの元凶だが、あそこで奴が死んだところで呂奉先は野放しだし、反董卓連合も決して一枚岩ではない。

 集まる諸将は各々が野心を抱いていることを、私は知っている。

 董卓は火付け役でも、もはや漢の国全土に広がった炎は、火付け役を始末した所で消し止められない。

 董卓は<相国>という地位につき、悪心はあるが、漢の国の重しの一つにはなった。

 それを殺せばまた黄巾の乱の時のように、諸将の野心が方々にばらまかれるようになる。

 だから討つべき時ではないと思ったよ」


「……。そうですか。

 質問がお気に障ったのなら、どうぞお許しください」

「別に気には障っていない。噂だけ聞けば、何故董卓を殺さなかったのかと思うのは当然のことだ」

「はい……」

「そちらの女人は王の正妻でいらっしゃるのか」

 老人が尋ねる。

 孫策は首を振った。

「俺に、周瑜の他に妻はいない。

 この女一人と、生涯決めている。

 だから周瑜が目覚めないのはとても困るのだ。

 是非に、診ていただきたい」


「……伯言。奥の部屋に案内しなさい。紀玄は診察の準備を」


「はい、師匠せんせい

「かしこまりました」

「ありがとうございます」

 孫策が少し安堵した表情で、一礼した。

 背に負って来た周瑜を、陸遜の手を借りてようやく下ろす。

 周瑜を奥の部屋に連れて行き、敷かれた布団の上に横たわらせて、陸遜は診察の手伝いをするために湯などを沸かし始める。

 孫策は周瑜の側に腰を下ろして、じっと彼女の頭を撫でてやりながら、顔を見つめていた。

 沸騰した湯を桶に入れている所に、やっと淩統がよろよろと庵の中に入って来た。

 ぬめった洞窟に相当悪戦苦闘したのか、顔にも泥が付いているし、擦り傷も付いている。

 恐らく幾度も転倒したか、落下したのだろう。


「……大丈夫ですか?」


 陸遜は一応、声を掛けた。

 淩統が一瞬、何か反論したげに怒った顔を見せたが、すぐに口を開いたまま、眉を寄せ、口を閉ざすと、彼は疲れた顔をして首を振った。

 もういいや……、と怒る気力も無くなったらしい。


「……水、一杯もらえます?」


 疲れ切った声で淩統は言った。



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