第3話



 シュクシュク……と湯の湧く音だけが響いている。


 孫策は、手の脈を計られる周瑜の静かな寝顔を見下ろしていた。

 老人は周瑜の脈に触れたまま、じっと目を閉じ、何かを探っているようだ。 

 孫策には、医術のことは何も分からなかったが、だが確かに、この男が何もしていないように見えるこの時間も、周瑜の身体の脈、呼吸、皮膚の下の血の巡りなどを調べていることは分かった。

 陸遜と紀玄も、並んで静かに、その様子を見ていた。

 そのうち、隣の部屋から微かな寝息が聞こえて来て、それは些細なものだったが、今この場には五月蝿いほどに耳に入って来る。

 陸遜が静かに一礼し、音もなく立ち上がる。

 彼は隣の部屋に行くと、一人そちらで寝ていた淩統を揺すって起こし、「あの、申し訳ありませんが寝るなら庵の外で眠っていただけますか」と冷静な声音で言った。

 この期に及んで外で寝ろと言うのかなどという悶着が聞こえてきたが、有無を言わさず陸遜が淩統を引きずって外へ連れ出した。

 しばらく遣り取りが聞こえ、しかし程なく静かになった。

 陸遜が戻って来て、元の場所に座る。

 淩統は結局外で寝ることにしたようだ。

 孫呉の武官の中でも、際立って武と忠義の誉れ高い淩操の息子にしては、淩公績には大らかな所があった。父親はもっと頑なで、融通が利かない不器用さがある。

 だが、その揺るぎのない大樹のような姿勢が人からの信頼を呼び込み、誰もを安心させた。

 淩統は大らかだが、その反面曖昧で、我が揺れ動いていることが多い。

 大樹の幹が父親なら、揺れる枝葉が息子か。

 世の中には色んな父子がいる。

 孫策は出来ることも特に何もない静寂の中で、そんな風に思った。


 自分と、孫堅はどういう父子であったのか。


 似ていたのか、似ていないのか。

 周瑜は「似ている所と、全く違う所がある」とよく言う。

 息子が父に似ることを、孫堅は嬉しく思っていただろうか。それとも似通ってくれるなと願っていただろうか。


(俺と周瑜に息子が出来たら)


 そいつは俺に似るのだろうか。

(それとも周瑜の寝顔に似るのかな)

 とりとめのないことを考える。



「――毒気が籠っておられますな」



 孫策は顔を上げた。

「丁度心臓の辺り……、毒気が棲みつき、血を滞らせております」

「やはり毒なのか」

 孫策は頷いた。それが分かっただけでも、何だか心がはっきりする。

「しかし、こういった体の臓に澄み付き、生気を奪う毒はさほど珍しくはないが、不思議なのはこの顔の血行の良さだ。

 人の体調の悪さは、まず顔に出る。それがこちらには全くない」

「そうなのです。私もそれが奇妙で……」

「毒の種類は分かるのか?」

「周瑜殿の症状は、我々の目には非常に複雑な症状に映ります」

「複雑?」

 城の人間たちは、誰もそんなことは言っていなかった。

 むしろ悪化もしないかわりに快癒もしない、それしか手掛かりがなく、それ故に施す治療の手立ても分からなかったのである。

<六道>の人間には、周瑜のこの状況が複雑に見えるのかと、孫策は改めて、彼らの物事の見方、感じ方が違うことを理解した。

「こういった症状を招くものは、なにか一つの毒ではなく、何種類かの毒を組み合わせた複合毒の可能性が高い。

 以前……私が武昌で、孫策殿に誤って服用させた、睡眠薬を覚えておられますか?」

「ああ。あったな」

「はい。あれも睡眠薬にある毒草を混ぜて作った、複合毒なのです。

 無論、毒といってもあれは一過性のものでありますし、命を奪うようなものではありませんが……。

 ただ、複数の薬や毒を掛け合わせた時に、特定の成分が反応し合い、劇的な効果をもたらす、そういうものがあるのです。

<六道>の薬術の秘伝も、要するに、そういった調合量の配合なのですよ」

「そうなのか。でも……そんな少しの調合量が違うだけで、影響が変わったりするものなのか?」

「はい。毒と薬は紙一重と申します。

 その紙一重という表現は的確で、ほんの小指の爪ほどの量を変えるだけで、人を苦しませながら死に至らしめる毒が、人に安らかな眠りをもたらし、身体に深い休息を与える薬になる。毒と薬とは、そういうものなのです」

「でもちょっと待てよ? もし、周瑜に盛られた毒がその複合毒なら、……盛った奴も、どっかの家の秘伝みたいなのを使った可能性があるってことか?」

「さすがに、鋭いご考察ですね」

 紀玄が言った。

「いや、こんくらい普通だろ。

 けど……そうなると……。

 陸遜、お前の所の、陸家<六道>の秘伝では、周瑜のこの症状を起こせるようなやつとか、それに近いものとか、そういう毒とか薬はあるのか?」

「陸家<六道>に?」

「いや。陸家を疑ってんじゃないんだ。勘違いするなよ」

 孫策がわざわざ言ったので、陸遜は一瞬唇に笑みを象って、分かっています、というような顔を見せた。

「陸家の秘伝に無いとなると、いよいよ他の家の秘伝、って見方が出来るだろ」

「人を眠らせる睡眠薬はありますが、長くても三日ほどしか効果は続きません。

 それに、臓腑を蝕む毒はあります。

 中でも強力なのが<龍文りゅうもん>という名の毒ですが、強い酸を含む蛇の毒に、強い睡眠薬を掛け合わせて配合すると、一定時間、その毒性を体内で遅らせることが出来るのですが、睡眠薬の効果が先に消えることで、一気に押さえ込まれていた毒性が体内に吹き出し、体中にまるで龍のような激しい蚯蚓みみず腫れが表われ、死に至らしめるのです。

 一定時間の小康状態……その感じは、確かにこの症状によく似ていますが、ですが、周瑜様のお身体には何の紋も出ていませんでしたね」

「うん。昨日までは少なくともなかったぞ」

「申し訳ありませんが、念のため、今も確認していただいてよろしいですか?」

「分かった」

「屏風を持って来ましょう」

「ありがとう」

 すぐに、孫策が周瑜の身体を抱えて、奥の間で調べに行った。


「師匠。どのようにお考えでしょう」


「うん。幾つか、薬を試してみよう」

「毒の特定は出来そうか?」

 屏風の向こうから、孫策の声がする。

「難しいかもしれません……。今回の場合、服毒より日数が経ち過ぎています。

 もう体内でかなり吸収されてしまっているでしょうし、正確な種類を特定するのはかなり厳しい」

 紀玄が答えたが、陸遜は少し考えてから、首を振った。

「……そうとも限りません。

 毒の症状から探ろうとすれば確かに難しいかもしれませんが、複雑で効果の高い毒や薬には、希少で珍しい素材が使われるものです。

 我々<六道>は『素材』が大陸のどこで入手できるか、それを扱う薬師や医師、商人の存在や交易の様子は常に把握しています。

 稀少種が流れた道を辿れば、毒を作った者、或いは、作らせた者に辿り着く可能性は、低くはありません」

 屏風の裏から孫策が姿を現わす。

「出来るか? 陸遜……」

 陸遜は頷いた。

「やってみましょう。紀玄殿。少し伝令をお借りしますが、よろしいですか?」

「構いません」

 陸遜が頷いて、すぐに部屋を出て行った。

「ここには、お前と師匠だけがいるんじゃないんだな」

「はい。私の他にも何人か弟子がおります。この山にも、他の庵が幾つかありますし」

「みんな陸家<六道>と関わっているのか?」

「いえ。それは陸遜殿だけです。我々は師匠の門下生なのです。

 その中でも、師匠の秘伝を教えられ、使うことを許される者は一握り。

 免許皆伝を許可された者は師範となって、各地でその技を弟子に伝えることが出来ます」

「じゃあ……あの、陸遜がいつも連れてる連中っていうのは、もしかしてここの門下生じゃなくて、陸遜の直弟子なのか?」

「はい。そういうことになります」

「どうりで……あいつら、陸遜の同僚とか、仕事仲間っつうよりは、なんかもっと近しい感じするんだよな。陸遜に盲信的な所を見せて、どんな戦場に行っても陸遜が命じれば迷いが無いし」


「師と弟子の関係は、父子の関係に似てるとも言われますからね」


「へえ……あいつまだ若いのに……。確か俺と周瑜より数歳年上なだけだったよな」

「陸遜殿は特別な才をお持ちです」

 紀玄は微笑んだ。

「師匠の弟子の中でも――特に薬術の調合の技術は随一と言っていい。

 そういえば先ほど、陸遜が貴方に誤って薬を調合したとおっしゃっていましたね」

「うん。一回だけだけどな。なんか睡眠薬の量間違えて、俺が大変なことになった。

 一日だけだったけど、多少錯乱めいた感じに」

「信じられませんね。あの方が薬の調合を間違えるなど、初めてのことだ」

「あ。怒らないでやってくれよ?

 あいつもスゲーそのことで反省してたし、あれだ、船の上で調合したから間違ったんだよ。

 遠征途中だったんだ。修錬だけど。河が悪天候ですんごい荒れてて、あいつ平然としてたけど、案外内心慌ててたのかもしれん。

 きっと酔ってたんだよ。そんで調合間違えたんだ。

 オレ、全然もう気にしてねーから。蒸し返さないでいいからな。師匠に今更叱られたりしても、落ち込むだろうしさ」

 紀玄は穏やかな表情で笑った。

「周瑜の身体には、やはり何か見慣れない傷とか痕はなかった」

 改めて、孫策が切り出す。

「そうですか……。」

「さっきの話だが、毒を作った者、作らせた者を探すと言ってただろう。

 毒を使う可能性のある奴を情報に入れれば、もう少し探りやすくなるんじゃないか?」

「つまり……周瑜殿に毒を盛る可能性のある者を探すということですか?」

「周瑜が恨みを買ってるわけじゃないかもしれない。

 オレを恨んでる奴が、周瑜に毒を盛るってのも十分考えられる話だ。

 というより、むしろそっちの方が可能性は高い。

 周瑜は本当に優しくて、民にも施しをしたり、国でも大きな天災があったりすると、必ず状況を確認させて、必要なものとか送ったりして、昔からそういう奴なんだ。

 子供の頃から、弱い立場の人間とか、痛みを負った人間のことを気に掛ける奴だった。

 俺は武官で、戦場では人を殺す。

 豪族同士として対立すれば、攻め滅ぼして来た。

 恨みを買うなら、俺の方が可能性はずっと高い」


「例えば、心当たりなどはありますか?」


「今のところ考えつくのは袁家だな。

 特に汝陰じょいんの袁家は袁術を巡って俺とは犬猿の仲だ。

 袁術は俺が討ち取ったし、恨みは深い。

 あとは山越さんえつ族。

 これは恨みというより、今もまだ片が付いてない問題なんだ。

 江南のもっと深い山岳地帯では、呉に帰順しない村や一族が多く住んでる。

 俺は別に、そいつらを無理に呉に併合しようとは思わないが、付近に差し向けた県令や砦が襲われることがあるから、断続的に戦闘は続いてる。

 全員ってわけじゃない。幾つかの部族とは協定を結んでいて、色々な協力をしてくれている。

 何にせよ、あそこはまだ混沌としてるんだ。

 山越族にも、小さな一族一つ一つに、秘伝や秘術があるって陸遜が言ってた」

「そうですか。他には、何かありますか?」

「差し当たって考えられるとしたら……あとは……もしかしたら反董卓連合の連中も、中には怪しいのが紛れてるかもしれん」

「反董卓連合? しかし孫策殿は、連合では討逆将軍として戦功を残されたはず」

「まあな……。けど、江東に戻ってからは、俺は反董卓連合とは距離を置いてる。

 何度か再び参戦してくれって話も来たが、今のところ使者にも会っていない。

 それを、無礼な心変わりだと感じて恨みに思う奴はいるかも。

 ああ……そうだな……。

 今話していてぴんと来たが」

「……なにか?」

「それでいうと、洛陽も十分可能性はある。

 俺は<翔貴帝しょうきてい>に建国を許され、江東に国を興したが、その帝は今や、長安の董卓に首に手を掛けられたような状態だ。

 俺はあの方には、父の代から色々な温情を頂いた。

 その方が一番苦しい時に、俺は側を離れた。

 帝を心から慕う者からすれば、俺を、恩を返さない薄情な裏切者と見るかもしれん」

 孫策は考え込みながら、小さくそう呟いた。




◇ ◇ ◇




 一時間ほどして、陸遜が帰った。

「よう、陸遜。おかえり」

 囲炉裏の側で、孫策と淩統が食事を取っていた。

 その側で、紀玄は薬に使うのか、盆に乗せた植物、木の実、その他乾燥させた色んなものを小さな臼ですり潰していた。

「ごめん。先に食ってる」

「いえ。お気になさらず。師匠は?」

「うん。さっき周瑜に薬を飲ませてくれた。

 三種類ほど試してみると言ってたから、数日はここで様子を見ることになった」

「そうですか」

「まずは解毒剤を試してみるそうです」

 紀玄の側に、陸遜が腰を下ろす。

「手伝います」

「ありがとう。幾つか足りない材料があるので、私は明日の朝、麓に一度下ります。

 その間、師匠を頼んでも構いませんか?」

「はい」

「伯言さんもご飯食べれば。美味いよこの肉団子入りの汁」

 淩統はようやく少し元気になったようだ。

「はい。ありがとうございます。紀玄殿、師匠せんせいが用意される薬は決まったのですか?」

「ええ。この紙に材料が書いてあります」

 陸遜が受け取って、細かに書かれた内容に目を通す。


「伯言さん舞茸好き? 嫌い?」


 よそってあげようとしてくれたらしい淩統が、椀を持って尋ねる。

 声が返らず、振り返った。

「ちょっと。無視しないでよー」

「あ。すみません。なんですか?」

「だから、舞茸好きかどうかって……」

「はい、わたしは、何でも食べれます」

「こんな山奥なのによくこんな具がいっぱい入ってんなぁ。

 俺が涼州彷徨ってた時に食ってた食事に比べたら豪勢過ぎるぞ」

「師匠が、数日前に客人があるかもしれないからと仰っていて、食材を用意していたんですよ。

 私は何のことかなと思っていたんですが。

 無駄にならず良かった」


 紀玄が陸遜に笑いかけると、陸遜も小さく、笑みを返した。 





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