第29話 決起

──まるで、前夜祭の喧騒が嘘のよう……。



 東の城塞へと戻ったリリーはすぐに宮廷ドレスから軍服を模したドレスへと着替えた。貴賓室のバルコニーに立ち、月明かりに照らされたウルド砂漠と煌めくウルディードの街並みを見つめている。ふと、リリーは左手をやわらかな月光にかざした。



──少し、爪が欠けている……リヒャルトお兄さまと踊ったときにでも欠けたのかしら。



 前夜祭のためにった青のマーブルネイルが淡く縞模様しまもように輝いている。小指の爪の先がかすかに欠けていた。



──悪い予兆じゃなければよいのだけれど……。



 頼りない指先を見ていると不安を感じてしまう。リリーはそんな自分が嫌いだった。不安な心を打ち消すように自分へ強く語りかけた。



──わたしは『傾国姫けいこくき』なのよ。誰もわたしの心をかえりみないのなら……わからせてやる。



 リリーの青い瞳では復讐の昏い炎が揺らめいていた。



──お母さまを餓死刑に処しておきながら英雄? 女傑? ふざけるな。わたしがどんな気持ちでお母さまの痩せ衰えてゆく姿を見ていたと思う。頭をなでてくれる手の温もりも、名前を呼ぶ優しい声も、慈しみあふれる笑顔も、帝国はわたしからお母さまのすべてを奪った。



 リリーは少し顎を引くと誰もいない虚空を睨みつける。今のリリーにとっては美しいウルド砂漠も、夜空に瞬く月や星々も、何もかもが憎々しく見えていた。



──わたしから大切な人を奪うなら帝国も、国民も、兄弟ですらわたしの敵だ。人々はわたしを『感情の欠落した子供』と決めつけたけれど、それは違う。わたしは誰よりも感情的で、恐ろしく執念深い。



 心のなかで渦巻く憎悪はリリーの頬をぴくりと動かした。



──みんなは反逆するわたしを狂女きょうじょあつかいするでしょうね。でも、それでいいのよ。



 リリーは唇の端をにやりと歪ませた。



──他人から見れば正気じゃない行動も、当の本人からしてみれば真っ当な行動だったりするものよ。権力者の正義が弱者にとっては弾圧だったり、弱者の革命が権力者にとっては反乱だったりするように。立場が変われば見方も変わる。結婚だってそう。わたしにとって、結婚は愛を誓う神聖な儀式なんかじゃない。ガイウス大帝おじいさまやアレンお兄さまたちを謀殺する策略の一部……。



 そこまで考えると、ふとリリーの脳裏にレインの面影が浮かんだ。レインは本気でリリーと結婚するつもりでいる。


 

──じゃあ、レインにとっての結婚は……?



 レインのことを考えるとき、リリーのなかで渦巻くどす黒い感情は不思議な反応をみせた。心を支配する憎悪がなぜかうしおのように引いてゆく。



──レイン・ウォルフ・キースリング……星を愛する狼……。



 皮膚が癒えたレインは黒髪の逞しい青年将校だった。だが、リリーにはまだ幼さの残る、あどけない少年にも見えた。リリーに見とれる顔、照れたときや困ったときに見せる仕草、どれもが新鮮で可愛いとさえ思えた。



──レインとの恋愛ごっこはそれなりに楽しかった……叶うなら、一度でいいからレインの剣舞を見たかったな……。



 レインはリリーに気後きおくれしてばかりだったが、言動の端々からは『リリーが好きだ』という気持ちが伝わってくる。その、ひたむきな姿がとても嬉しかった。



──不思議ね……。



 このおよんでレインのことを考えている。リリーはそんな自分に少しだけ驚いた。



×  ×  ×



 リリーが貴賓室へ戻ると見計みはからったように扉が開いた。ソフィアがラゲルタ四姉妹や数人の部隊長を引き連れて入ってくる。彼らは重々しい甲冑を着こんでいるが、ソフィアだけはいつも通り軽武装だった。長い黒髪を後ろでまとめ、長剣をたずさえている。



「リリー、皇女親衛隊は治安維持の名目でウルディード市街、城内へ展開させた。リリーの決断があればいつでも決起できる。誰も逃がしはしない」

「そう……じゃあ、あとはクロエの報告を待つだけね」



 少したつと再び寝所の扉が開いてクロエが入ってきた。クロエもソフィアと同じように給仕服きゅうじふくの女たちを従えている。近侍隊きんじたいは侍女の格好をしているが、戦闘に秀でた護衛部隊でもある。リリーにとってソフィアがつるぎならクロエは盾だった。



「リリー、ガイウス大帝やアレン皇太子殿下の寝所、警備に変更はないよ」



 クロエはフリルの付いたエプロンとカチューシャを床へ投げ捨てた。



「何もかもが予定通り。正規軍も振る舞い酒に酔いつぶれて寝てる」

「まったく。帝国正規軍も形無かたなしだな」

「あはは、わたしたちにとっては都合がいいじゃん」 



 ソフィアが呆れるとクロエは嬉しそうに舌のピアスを噛む。クロエが微笑むと貴賓室を支配する緊迫した空気が幾分か和らいだ。クロエは真っ赤なツインテールを揺らしてソフィアを見上げた。



「あとは……ソフィー、失敗しないでよ」

「わかってる。クロエの方こそ、リリーを頼む」

「うん。わたしはリリーに命を拾ってもらった。だから、リリーのために戦って死ぬ」



 クロエは笑顔だが、リリーは言い方が気に入らなかった。眉をひそめてクロエをたしなめる。



「クロエ、簡単に『死ぬ』とか言わないで」

「あ……ご、ごめん、リリー」



 クロエが申し訳なさそうに俯くとソフィアは口元に苦笑いを浮かべた。



「みんなで生きて再び会う。それが約束だろ」



 ソフィアが力強く告げるとラゲルタ四姉妹や近侍隊の侍女たちも頷き合っている。リリーも頷きながらみんなを見渡した。



「注目せよ。わたしはリリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤ。先帝ルキウスの次女にして皇位継承権、第五位の皇女。ゆえあって、祖国『神聖グランヒルド帝国』の皇位にかんと欲す」



 リリーは静かだが威厳に満ちあふれる声色で宣言した。そして、視線が集まると右手をかかげる。



「リリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤ、我が名と戦神フレイヤの名において命ず。ガイウス大帝を討ち、皇兄こうけいアレン、ソロン、皇姉こうしマリア、そして……」



 ここまで言うとリリーはテオの無邪気な笑顔を思い出した。ギュッと左手を握りしめると欠けた爪が手の平に食いこみ、やけに痛く感じた。



皇弟こうていテオを討て!!」

「「「畏まりました。我らがあるじリリー殿下に栄光を」」」



 リリーが右手を振り下ろすと部隊長たちは声を抑えながらも確かな覚悟をにじませる。リリーが頷き返すとそれぞれ貴賓室を出て行った。リリーは彼らに続こうとするソフィアを呼び止めた。



「ソフィー、待って」

「……」



 振り返ったソフィアは美しさと厳しさを併せ持つ戦士の顔つきになっている。リリーは少し戸惑いながらも声をかけた。



「ソフィー、わたしとの友情を想うなら死なないで」



 それしか言葉が出てこなかった。



「……うん、わかってる」



 ソフィアはいつも通り不器用な笑顔で答えると長剣を手に貴賓室を出て行った。その後ろ姿がリリーには頼もしくもあり、寂しくもあった。



──わたしはソフィーに頼ってばかり……。



 不安になっているとクロエがリリーの背中へそっと手をそえた。クロエは差し迫った状況でも明るく微笑みかけてくる。



「リリー、ソフィーなら大丈夫だよ。殺しても死ぬようなタマじゃないし。『リリーの冷たい狂剣バルサルカ』をもっと信じてあげて。ついでに、わたしもね」

「……」


 

 リリーたちは人として大切な部分がそれぞれどこか欠けている。だから、補い合っているうちに、お互いがえのない存在となった。そのことをクロエに改めて教えられた気がした。



「ええ、わかってるわ」



 強がってみせるのはリリーのいつもの癖だった。クロエは安心して続ける。



「じゃあ、行くよ。 戦列艦『グランヒルド』を奪う手はずは整ってるから。急いでください」

「わかったわ」

「夜風が強いから、これを……」



 クロエはリリーに『翼竜よくりゅう』の紋章が縫いこまれたマントを着せる。そして、マントを肩でめると軽く背中を叩いた。



「これでよし。さあ、行きましょう。リリー殿下」

「ええ」



 リリーが歩き始めると前後左右をクロエたち近侍きんじたいが警護する。貴賓室を出たリリーは、ただ前だけを見つめて歩いた。



──もう、止まれない。



 リリーの背中では神聖グランヒルド帝国の紋章である『翼竜よくりゅう』が揺れている。竜の胴体から伸びる二つの竜頭はお互いを憎み、喰らい合うように大きく口を開けていた。

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極夜の狼─ウルデンガルム─ 綾野智仁 @tomohito_ayano

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