いきものがかり

あづま乳業

いきものがかり

 鯰は夏の季語である。

 鯰は梅雨の到来とともに産卵し、夏のあたたかい水で育つ。秋になると冬眠でぱったり消えるが、それまでは釣竿を軒並み食い荒らす「外道」として猛威を振るう。

 赤城山の麓では「おとぼう鯰(なまず)」という、喋る鯰の妖怪が釣れるという。

 おとぼう鯰は他の魚に混じって釣れ、釣人の名をしつこく呼び、無視すれば釣人の秘密を次々ばらすが、殺すと水害が起こるという。



 埼玉県深谷市 血洗島


 利根川の向こう、赤城山が鎮座していた。地平線を架ける裾野、高さなどないかのように平らな山体は、誰も取りこぼすことない慈愛を象る。この赤城の女神が利根川で血を濯いだことから、血洗島と云った。赤城颪によって深谷の作物は実りが甘く、しぜんどこまでも畑と電信柱が続いていた。

 音和(おとわ)は十五の娘である。

 色白で線が細い。人とつるむ性質でなく、絵ばかり描いているので友人はなかった。そんな音和が「いきもの係」を押しつけられたのは必然だったかも知れない。

 音和は青いジャージを膝のところで切って履き、学校へのあぜ道を進んでいた。肩にかけた鞄には、いきもの日誌と画材が入っていた。

 世は、夏休みである。



《八月十四日》

 校舎廊下は午前の白い光を蓄えていた。

 上履きが響く。音和ががらがらと扉を開けると、がらんどうの教室は黒板に「今日から夏休み」と刻まれた日から静止していた。水温冷却ファンの旋回音が響いている。片付けられたロッカーの上、水槽が置かれている。

 おとぼう鯰は水槽で小さな泡(あぶく)を吐いていた。

 離れた目、大きな顎、長い髭。黒くて太い体躯、怠慢な動き。どれ一つとって鯰に違いなかった。

 教室の目立ちたがり屋たちが利根川で捕まえ、一ヶ月もしないうち飽きたものだった。鯰だけではない。兜虫、蝉、ざりがに、彼らはいたずらに生き物を捕まえては、賞賛のあと世話は放置した。籠に入れられたそれらは暑さに耐えかね、多く二週と保たなかった。それらの死骸を埋めるのは、音和の役目だった。

「よぉ、おとぼう」

 鯰の口は人のように動いた。その声は鼓膜にではなく脳に響いていた。

 おとぼう、とは鯰が付けた音和のあだ名だった。この鯰はみんなの前では決して喋らない。音和と二人きりの時にだけ流暢にからかった。

「おとぼう。川せがきのお祭りは誰ともいかないのか」

 音和は眉を顰め、鯰の餌を袋ごとゴミ箱に放ろうとした。夏休み教室へ通うことになったのはこの鯰のせいである。

 おとぼう鯰は水槽の底、深い傷が刻まれた黒い背中を揺らしていた。

「おとぼう、俺を殺したら教室で裁かれるぞ。それに大きな災害が起きる」

 音和は仕方なく餌袋を開けた。

 この減らず口もどうせ一夏保つことはない。鯰の傷は教室でいたずらされたものだった。まして夏の温い水で育つ鯰をしてこの頃の酷暑は苦しく、すでに小食という衰弱の兆候が顕れていた。最期まで世話して死んだのなら音和のせいではない。

 音和は水槽を覗き込んで云った。

「あんた鯰の癖に、何故私のこと知ってるわけ?」

「そういう妖怪だからさ」

 音和は餌を計量スプーンに取り水槽へ零した。それは花が散るように沈んでいった。

「地獄」

 夏休みが鯰に丸呑みされていた。


 音和には片思いの男子がいた。

 遙人(はると)という幼馴染みだった。遙人は一昨年の六月、線状降水帯による利根川の水難事故で亡くなった。

 遙人は音和に話しかけてくる数少ない人物だった。けれど中学で音和への虐めが始まると、遙人も傍観者となってしまった。音和はそれに幻滅したものだが、それでも音和の陰口を頑なに拒み続けたのは遙人だけだった。それを見るたび音和は「遙人の中身は変わっていない」と思うのだった。

 おとぼう鯰が釣れたのは、水難事故二年後の同日である。音和は遙人の命日を忘れたことがないが、教室の人たちはもう意識の隅にもないようだった。自ら以外が死ぬなんて、人も虫も魚も大差ないのかも知れない。


《八月十五日》

 よく晴れて、教室にまで秩父武甲山の発破音が届いていた。窓から滑る風が音和の頬を冷ます。積乱雲を背に赤城が鎮座している。

 音和は椅子に腰掛け、鯰を速写(クロッキー)していた。「いきもの日誌」である。鯰は正しく飼育したが死んだと学級裁判に提出する記録である。

 鯰は云った。

「おとぼう、俺を描いてるんだろう。見せてくれよ」

「鯰に絵が分かるの?」

「分かるさ。おとぼうは上手なんだ」

 音和は耳を少し染めた。音和がノートを鯰に見せると、そこには鯰の骨格標本が泳いでいた。

「おとぼう、俺が骨になってる」

「表皮を模写するだけの人に、美大は受からないもの」

 鯰の肋骨は極めて小さい。ゆえに鯰の腹は軟体である。花、虫、動物、無機質……この世のあらゆるものの解剖をどれだけ多く蓄積できるかが、絵描きとしての土台となる。

 鯰に対し哀れみもあった。水槽で恋もなく夢もなく滅んでいく姿に、若い肉体を教室で腐らせてゆく自らを重ねていた。顎部、腸、脊椎、生きているうちの姿を余すことなく描き留めてやろうと思っていた。

 音和は目を伏せ、速画を再開した。

 鯰は邪魔するように云った。

「まだ遙人のこと好きなのか」

 音和は鯰を一瞥した。鯰が笑っていた。

「おとぼう、あいつは幼馴染みのお前が仲間はずれにされても、黙って見てた卑怯者じゃないか。罰が降ったんだよ」

 音和はノートを放り出し立ち上がった。

「あなたに何が解るの」

「裏切り者はもう人間には生まれ変われない。ずっと魚や虫に生まれ変わるようになる。だから来世だって再来世だって、人間のおとぼうと結ばれることなんてない」

 音和は水槽に掴み、呪う目で鯰を上から覗いた。

「私、あんた殺すことできるんだけど」

「俺を殺したら、大変なことになるぞ」

「なったって構わない」

 音和は息を荒げ涙ぐんでいた。鯰はようやく笑うのを止めた。

「おとぼう。ずっと死人に恋をしているわけには、いかないんだぞ」

 音和は何もかも厭になったように、椅子に座り、鯰の世話で生臭くなった手で顔を覆い泣き始めた。

 気づけば、祭り囃子が風に乗って聞こえていた。今夜は川せがきがある。利根川に読経とともに四百の炎を放流し、水難者を供養するこの祭り。屋台も花火も盛んならば、夕方には浴衣で河川敷が埋め尽くされるだろう。

 音和は何故こんな日に、鯰の絵を描いているのかと思った。

 音和が仲間はずれにされたのは、花村さんというキラキラした友達を相手にしなかったせいである。ならば学校の裏サイトでは音和の陰口で跋扈し、教室でも態度は露骨だった。花村さんの報復は、旧友さえ音和に触れなくなるほど過剰だった。

 教室のコミュニティは音和を差し置いて回った。誰と誰が付き合ったとかの速報は、遙人もそうなってしまわないか、銃口のように音和を追い詰めた。

 音和は思う。ほんの少しだけ自分に嘘をつけていたら、今、みんなと浴衣を着ていられただろうか。今の音和は人間界から脱落した鯰も同然である。

 記録によれば鯰は衰弱していた。もうしばらくの辛抱。この水槽が空になれば音和の夏休みがやっと始まる。

 鯰は云った。

「おとぼう、遙人がお前をどう思っていたか教えてやろうか」

 音和は鯰を見詰めた。

「……何であなたが知ってるの」

「知ってるさ、お前たちの事ならば。だがタダでは教えてやれない。俺をもっと大きな水槽へ離してくれ。そう、プールがいい」

 音和は押し黙った。この鯰、喋るからには恫喝もするらしい。なぜこんなのが輪廻に存在するのか。

「厭よ」

「今夜、浴衣を着て来るんだ」



《八月十五日 夜》

 からん、ころん、からん、ころん。

 

 まさか鯰相手に浴衣を着るとは。音和は下駄を鳴らし無念に思った。

 水難事故当日、遙人はまるで水害を予知していたかのようだった。

 当時、線状降水帯は関西で甚大な被害を及ぼしていたが、音和は周囲に「梅雨ごとき」という侮りがあったと記憶している。まさか町まるごと湖になるとは誰も想像していなかったのだ。

 音和、外に出るな。下駄箱で交わしたそれが遙人との一年ぶり、そして最期の言葉となった。

 音和は「死」が老人だけのものでないと知った。虫も魚も近しい人たちも自らも、それは分け隔てなくある日やってくる。

 好きと言えばよかった。

 遙人は知らないまま永久になった。

 音和は昼間盗んだ鍵でプールの金網を開けた。

 あたりは辛うじて見えるばかり。素足にざらついたプールサイドには、昼の熱をまだ残していた。

 太鼓の響きが利根川から風に乗って届く。河川敷へ向かう下駄の音、はしゃぐ声は思いのほか近い。生きた心地はしなかった。

 暗黒の水面に月が揺れていた。

 海豚(いるか)ほどの魚影がたぷん、たぷんと黒い水面を揺らしていた。

「音和」

 その声は鼓膜ではなく脳に響いた。音和を名前で呼ぶ者はこの世に多くない。音和は悟った。遙人はおとぼう鯰になったのである。

 音和は黒い水面に叫んだ。

「遙人なんでしょ。こっちへ上がってきてくれないの?」

「ごめん。俺、人間に生まれ変われなかったんだ。もう水辺から離れることはできない」

 音和はただ否定したくて首を横に振った。

 遙人が死んだのは音和のせいである。

 線状降水帯の予報に合わせ、音和のいきもの日誌が盗まれた。そして下駄箱に「利根川に捨てた」と手紙があった。ずぶ濡れになるだけだ。音和も仕掛けた者もその程度に侮っていた。

 いきもの日誌は音和にとって周りが思う以上には大切な作品だった。だから遙人に一言だけ止められたが、音和は回収しに向かってしまった。

 町内警報が鳴り響いていた。

 利根川が切れれば周囲は十メートル近く水没する。濁流は二階建ての平屋を呑み込んだ。音和は逃れるように橋の上、孤立した。すぐ下に濁流が迫っていた。

 それからはよく覚えていない。

 音和が次に目を覚ましたのは病院で、看護師によれば「浮袋をつけられていた」という。

 その一方、遙人の悲報を知った。音和と同じ浮袋を付けていたという。同じ浮袋でなぜ明暗分かれたのかと訊けばただ「運」と返ってきた。

 音和は自らに浮袋を付けたのは遙人だと思っていた。音和が約束を破ったあと、後を追って来てくれたのだと。

 それ以来、音和は遙人の心が「子どもの頃と変わっていない」と憶測を強めていた。

 でもそれは直接聞いたわけではない。自惚れかも知れない。約束を破った音和を呪っているかも知れない。

 正解を告げないまま、遙人は去った。


 音和は伊達締めをその場に解いた。そして裾をまくってプールの梯子を降りた。黒い水面へ恐る恐る腰まで浸る。夏の水が浴衣に染み袖が重くなる。どう工夫しても入水できる格好でなかった。諦めて梯子を上がろうとした時、音和は手を滑らせた。

 頭が真っ白になった。脱ごうにも濡れた紐に指が入らなくなっていた。脱力すれば浮くが、水面を掴もうとするほど水面は遠くなった。

 すると魚影はすっと水面を滑ってきて、音和を抱え梯子まで泳いだ。

 そして影は音和を梯子に上がらせ、腕の中に抱くようにして同じく梯子を登った。

 音和はただ遙人を見詰めていた。

 遙人は人の姿をしていた。昼間、鯰と一緒に放り込んだ浴衣を着て、音和を腕に収めていた。

「音和。少しは落ち着けよ」

 音和の胸は早鐘のように高鳴った。幼い頃、音和が間抜けをする度に聞いた言葉だった。

「……ごめんなさい」

「今夜だけなんだ、人に戻れるのは」

 遙人は音和を押し上げ、プールサイドに座らせた。

 盆である。死者が蟲になって里帰りする日だった。今頃利根川には読経と炎が流れているだろう。

 遙人は水面から上がれず、音和を見上げた。

「あの年おとぼう鯰が釣れたんだ。みんなして利根川で遊んでた時に。面白くて数日飼おうかってなった。でも次の日誰かに殺されてた。みんな内心、自分の秘密がばらされたらって怖かったんだろうな。……それからすぐに線状降水帯が現れて……ああ、天罰だって思ったよ」

 遙人は音和の足に額を付けて云った。

「知ってたんだ。災害になるって。だから無理やりでも音和を止めなきゃいけなかった。なのに俺はさ。教室の目が気になって、音和の味方に立てなかった。虐めをずっと放置した」

 音和は身を屈め、遙人の頬へ手を伸ばした。

「でも……最期は来てくれたじゃない。それがあなたの本性よ」

「俺は鯰になったんだ。ずっと幼馴染みを裏切り続けていた者が、最期だけ改心しても閻魔大王は許さないんだよ」

 音和の目に涙が浮かんでいた。

 閻魔の裁きが一抹の例外も許さないなら、なぜ本当の悪人どもは今のうのうと暮らしている。

 音和は耐え難く梯子を降りた。そして梯子に座るようにして、遙人の胸に額を押しつけた。

 遙人は音和にとって世界一優しい男の子だった。どれほどそっけなくても、最期は音和が可哀想になって駆けつけてくれる。

 それでも腕の中に入るのは初めてだった。もともと遙人は音和より小さかった。

 その身体は風邪を引いているように熱かった。指先も、二の腕も、鎖骨も、肋骨も、どれも幼い頃から改まっていた。どれも愛しくて、そのどれもが、今は鯰であるなんて信じたくなかった。

「遙人はやさしい。鯰だなんて閻魔大王の間違いよ」

「俺は卑怯者なんだよ。俺が音和を助けるの、善人だからだと思ってたのか。俺が先に音和を好きになったんだ。音和が後から好きになったんだよ。


 ……でも、もう幸せにすることができない」


 音和は耳の熱さを感じていた。

 遙人に頭を抱かれ、手櫛を入れられると、無念で涙が溢れていた。

「……どんな姿になったって、私はあなたが好きよ。誰だって、罰でその姿を生きているんじゃない」

 夏の水の中、身体はじんじんとさざ波を帯び始めていた。それは抱き合う度に大きくなって、音和はその先も知っている気がした。

 一言もできないくらい片思いだったのに、一度堰を切った言葉は止まることがなかった。好きと言えば等量で好きと返される安寧を、何度も確認し合った。

 水より熱く、体内よりはぬるい唇を、やり方もわからぬまま、ただ甘噛みを繰り返した。

 いつのまに、花火の音が遠くで聞こえていた。

 夏の水。

 夏にしか現れない、つめたくない水。

 鯰は繊細。水温がやさしくなければ、大人にはなれない。暗い水槽の中、ふたりとも、傷つきやすい鯰だと確かめ合った。

 夏祭りはぐれ暗がり二人きり。

 外道の恋を除いては、他には何も必要なかった。


《同日》


 音和は鯰となった遙人を桶に入れて、家へ持ち帰った。明日にも水槽を揃え、遙人が命尽きるまで飼育するつもりだった。

 二階の自室へ上がろうとすると、音和は母に呼び止められた。

「なにかあった?」

「ううん。何にも」

 音和は母と目が合わないよう階段を駆け上がった。机に桶を置くと音和は尋ねた。

「ねぇ。私のどこが好き?」

 音和は畏まって髪を直し、鯰の口説き文句を待った。それから指の形はどうか、髪の質は、劣等感をすべて透明にするまで、延々質問を繰り返した。

 遙人は飽きたように云った。

「ちょろいところ」

「なにそれ」

 音和はいきもの日誌を広げた。そこには人体の遙人が描かれていた。せめて最期の姿を描き残しておきたいと速画したものだった。

 その背中には大きな傷がある。抱きしめられた感触が未だ残っていた。表皮は柔らかいのに、いざ力が入れば筋繊維が鋼のように堅くなった。手首の回転、眼球の動き、ひとつほくろを描き取る度に、音和はこの身体がこの世にもうないことを惜しんだ。

 音和は桶の鯰をのぞき込み訊ねた。

「もう、ずっと鯰なの?」

「ああ」

「ずっと、ずっと、ずっと?」

「ずっと」

「鯰でもいい」

「続かない。いずれお別れがくる。音和は人と一緒にいるべきだ」

「そんなことない」

 初恋に違いなかった。



《八月二十五日》


 二学期、鯰は教室に戻された。音和には鯰を盗る覚悟もあった。けれど遙人は教室にやり残したことがあると云った。

 朝のホームルーム前、音和は教室の隅で肩を強ばらせていた。進んだ子たちの戦果報告は止めどなく流れてくる。

「ええ~早くない?」

「あんたは?」

「カエル化した」

「なんで?」

「手ぇ振ってきたから」

「ハハハ。かわいそ」

「へぇナマズ、生きてたんだ」

 彼ら彼女らが、定規で鯰の頭をつつくたび、音和は生きた心地がしなかった。この鯰は遙人なんだと訴えれば嘲笑である。


 昼休み、音和はうさぎ小屋で固形飼料を撒いていた。白、黒、茶のモフモフは、いきもの係に少ないやり甲斐だった。

 すると小暮さんという男子がやってきて、小屋の網越し音和に話しかけた。

「手伝うよ」

 音和はどういう風の吹き回しかと思った。しかし小暮さんの顔は真剣なようである。

「おかしいと思ったから。いきもの係、一人に押しつけるの」

 あの凝固した教室で、こんな変化は過去になかった。

「何があったの」

「鯰が喋ったんだ」

 音和は凍り付いた。何を話したかは知らないが、喋れば事件なのは明白である。音和は小暮さんに餌袋を渡すと校舎へ向かった。

「ごめん、私、鯰の世話するから。適当に餌やっといて」

「う、うん」

 小暮さんは手のひらに餌を乗せ、うさぎにおどおどと差し伸べた。すると音和は戻ってきて首を横に振った。

「直接あげちゃダメ。指、囓られると気持ちいいけど」

「痛っ」

 小暮さんが指を引っ込めると、うさぎはびくんと驚いた。

 音和は思った。あの教室の水温が冷たいならば、この男子も夏の鯰の一種なのだろう。



 教室に戻ると、水槽に鯰がなかった。

 音和が眉を顰め空っぽを覗き込むと、同級生たちは幽鬼のような顔つきで音和を眺めていた。

 音和は訊ねた。

「鯰どうしたの?」

 花村さんは音和の背後に立ちはだかった。


「喋ったから、殺した」


 音和は胃にどす黒い憎悪がわき上がるのを感じた。深呼吸して辛うじて平静を装っている。鯰は害魚である。世間にとって今この瞬間も駆除されている鯰とこの鯰は同じである。

 だとしても。

 ……ずっと一緒に教室にいたのになぜ殺せるんだ。

 音和は花村さんに初めて詰め寄った。

「どうしてあなたは、そんなに心が冷たいの?」

 花村さんは音和を睨み返した。

「そういう言い方ってないんじゃない?」

 話が噛み合わない。音和だってそれが遙人と知らなければ同じ事を言っていたかも知れない。それが世間の常温である。

 この教室の水温は、鯰が育つに冷た過ぎる。



 プール裏の林、おとぼう鯰が放り出されていた。すでに蝿が集り、鳥や蟻が啄んでいた。

 

 おとぼう鯰は花村さんが重ねてきた大小の罪をすべて暴露した。花村さんが職員室から戻った時、鬼の形相だったという。

 おとぼう鯰の結末は殺される以外ありはせず。人は弱き者の声に耳を貸すことが出来ない。

 音和はその場に崩れ落ち放心した。

 頬をぽつぽつと雨が打つ。ぬるい空が急に黒さを増していた。

 ――おとぼう鯰を殺したら報いを受けねばならない。

 台風が今年もやってくる。夏を冷ますために。

 


《八月二十六日》

 行方不明者は一人だった。

 まるで台風が選んだように花村さん一人連れ去った。彼女のことは朝礼で触れられたが、三時間目にはもう誰も話題にしなかった。鯰の死と大差なく、それが世間の常温ならば、音和は哀れに思い、花村さんに彼岸での慈悲があることを祈った。

 その日の授業は散乱した塵、枝、浸水した廊下の清掃で終わった。

 放課後の体育館裏。音和は水飲み場にホースを繋ぎ水槽を洗っていた。

 小暮さんは底の苔をスポンジでこすり取っていた。二人で交互に洗っていると、水槽は初めから何もなかったようにピカピカになった。すぐまた次のいきものが飼われるだろう。

「手伝ってくれて、ありがとう」

 音和が呟くと、小暮さんは照れ臭そうに頬を掻いた。

 遙人はもうおらず、他の人とどれだけ長く連れ添っても、遙人になるわけではない。けれど生きている限り出会いは訪れ続ける。良縁、悪縁問わず。運命の恋から滑り落ちても。


 鯰の去った、秋の空。

 水道水はすでに冷たく、日に火照った音和の手を鎮めるのに丁度良かった。

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いきものがかり あづま乳業 @AzumaNyugyo

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